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悪女矯正計画
Title

悪女矯正計画

著者:さくたろう イラスト:とよた瑣織

第一章 アーヴェル・フェニクス
<馬鹿みたいにふざけた話>

 馬鹿みたいにふざけた話があるとしたら多分これだろう。俺の目の前では以前の婚約者、そして現皇帝の愛人セラフィナが高らかに笑っていた。
 史上最大の間抜け面を浮かべている俺を横目に、セラフィナはねずみ獲りにかかった子ねずみを見つけた時の悪ガキのような、加虐じみた笑みを見せた。
「アーヴェル・フェニクス。過去の罪を精算する時が来たわ」
 一体どう間違えたらこんな状況になるのかさっぱりわからない。おい誰か、この女が何を言っているのか教えてくれ。この俺になんの罪があるっていうんだ? 口から漏れたのは嘲笑だった。
「馬鹿か貴様。皇帝の血筋の私を殺せるはずがないだろう」
 そうとも、言うなれば俺はこの国の権力者だ。父は前代皇帝であり、叔父は現皇帝だ。だからいくらセラフィナが皇帝ドロゴの寵愛を受けていようとも、そして政治的方針の違いがいくらあろうとも、俺を殺していいわけがないのだ。
 馬鹿でかいベッドの上で、ほぼ裸の俺は、早朝の襲撃になすすべもなく一人ぽつんと座っていた。そんな俺をどう思ったのか、セラフィナは、憎たらしいほど美しい顔を歪めてこう言った。
「馬鹿はそちらでしょう? あなたのお父様は争いに勝って皇帝となったのよ。私はあなたに勝つ。いつだって、最後に笑うのはより強い強者なのよ」
 俺に勝つだって? 失笑は禁じ得ない。
 俺はまあまあ優秀な魔法使いで、正直言ってこの程度の兵士たちなら蹴散らせる。それに……。
「貴様、ついに頭がおかしくなったのか? 名高き魔法使いであるこの私に、無魔法の──」
 と、そこまで言ったところで、セラフィナが手から恐ろしいほどの魔力を帯びた黒い光を作り出し、俺へと目がけて発出した。防御の隙さえない攻撃だ。
 台詞さえ最後まで言えずに俺は死んだのである。
 
◇◆◇
 
 というのが、さっきまでの記憶だ。
 目の前に、幼いセラフィナがいる。明らかな異変だ。俺の記憶が正しければセラフィナは十九歳で、大人といえば大人と言える年齢だったはずだ。だがここにいるのは幼い少女で、不安げに瞳を揺らしているだけだった。
 おかしいのはセラフィナだけでなく、死んだはずの兄、ショウまでがいて、俺に軽蔑したような視線を送っていることだ。
「アーヴェル。どうしたというのだ? 悲鳴なんて上げて」
 直感的に思ったのは、ここは死後の世界か、さもなければ夢なのだろうということだ。近頃の俺は毎夜馬鹿騒ぎしては気絶するように眠り、ひどい夢ばかり見ていたからだ。
 自分を殴ってみる。痛い。セラフィナは大きな瞳をさらに大きく見開き怯え、兄貴は俺をごみでも見るような目つきで見つめてきた。
「こんな時ぐらい、奇行は抑えてもらいたいものだ」
「こんな時ってのはどんな時だ」
 状況をまるで飲み込めない俺がやっとの思いでそう言ったというのに、兄貴は軽蔑するように冷笑した。
「私とセラフィナの婚約を、親族一同に知らせている時だ」
 周囲を見渡すと、なるほど親族一同が長いテーブルにあほ面下げて並び、俺たちの方を見ているじゃないか。どうやらここは俺がかつて住んでいた場所──つまり実家の食堂らしい。
 ようやく記憶が蘇ってきた。
 俺が十三歳の時、五つ上の兄貴は、あろうことか九歳のガキと婚約したのだ。もちろん、恋愛の末の婚約ではない。皇帝の家系とは言え、直系は叔父上の方へ移り、俺たちの権威はいまいち落ちぶれかかっていたところに、兄貴が持ち込んだ企画というわけだった。
 セラフィナの家は前皇帝の時代──もっと言えばその前から国に大貢献してきた魔法使いたちを数多く排出する、セント・シャドウストーン家という名家であり、最高権力者がころころ変わる不安定な我が国において、揺るがぬ地位を築き上げた大権威だ。つまるところ、混じりけない純粋な政略結婚だということだ。まあ、結婚する前に兄貴は死ぬのだが。
「ああ──ああ」
 適当かつあいまいな返事を手早く済ませ、気配を極力消すことにした。どの道、兄貴が死ぬまで俺は親族連中に気にも留められぬ存在だったから、黙っていたところで責められはしない。
 冷静になど到底なれないが、これが夢でもあの世でもない以上、そうして、セラフィナがまだガキで、兄貴が生きていて、さらにこの光景に見覚えがあるということは、俺は過去に戻ったって考えるのが妥当だ。信じられないが、どうやらそうらしい。
 俺はチラリと、悪女セラフィナを盗み見た。
 たった一人で我が家に迎え入れられたセラフィナは、どうしていいかわからない様子で、もじもじと指先をいじっている。実に大人しく清楚な少女然としていて、見た目こそ確かに整っていると言えるものの、俺を排斥しに来たあの恐ろしい女の片鱗すら見当たらない。これが後に皇帝の愛人に成り上がり、気にくわない人間を何人も処刑し、稀代の悪女と呼ばれるのだから人間わからないものだ。
「おい、セラフィナ」
 親族連中に饒舌に演説をかましている兄貴に気づかれないように小声で彼女に話しかけた。
「お前、大人になっても俺を殺したりするなよ」
 意味がわからないのか、不安げな表情をしていたセラフィナは、今度は泣きそうな表情になった。
 食事が滞りなく進んでいく最中、俺は思考を巡らせていた。この俺の身に、一体何が起きているのだろうか。死んだはずの兄貴はピンピンしていて、悪女のはずのセラフィナはぷるぷる震えている。
 きょどきょどと周囲を見渡したかと思えば、次には自分の手元ばかりを見つめる。なんとも落ち着かない様子で、じっと何かをこらえているかのようだった。そうして気がついたのは、先ほどからちっとも彼女の食事が減っていないということだった。思わず声をかける。
「おいお前、飯、食わねーのかよ」
「……さかな、きらい」
 初めて聞く彼女の声は、驚くほど小さく、囁くほどの声量だった。
 九歳のガキってこんなもんだっけか。自分の頃など、俺はもう忘れちまった。そもそも子供に大人と同じ味付けで、同じ分量の食事を出すということ自体、いかに兄貴がこのガキに興味がないかを物語っていた。
 哀れなものだ。セラフィナも、この俺と同じように道具としてしか見られていないのだろう。思わず同情をした。
「じゃあその魚、食ってやるよ。代わりにデザートをやるから、あとで文句を言ったりするなよ」
 俺は甘い物が苦手だから、これぞウィンウィンの関係ってやつだ。
 甘味が運ばれて来たのを約束通りやると、セラフィナは目を輝かせて嬉しそうに言った。
「ありがとうお兄ちゃん」
 俺の胸を、さわやかな風が駆け抜けたように思った。なんだと。ちょっとかわいいじゃねえか。
「無魔法・無価値・無能のセラフィナ」それが彼女の長い間のあだ名だった。言うまでもなく陰口である。
 魔法が使える人間と使えない人間の差は、遺伝的要素が強いということはわかってきているものの、ほとんど運と言っていい。だが魔法が使えるからといって、そいつ自身の人生が幸福であるとも限らない。圧倒的に少数である魔法使いの存在は、幼い頃から国にとっての保護対象となり、その人生は国に捧げられることになる。並の魔法使いであるこの俺も大抵似たようなものだ。
 貧乏人には家が与えられ、金持ちもまた、一定年齢になったら学園へ入学することが義務づけられ、大人になれば、軍人か研究か、国政に携わることになっていた。
 運良く魔法使いが産まれれば、その家は安泰だ。そうして強運に恵まれ続けたのがセラフィナの実家のセント・シャドウストーン家であり、現代においても一族全員が魔法使いだ。……たった一人を除いては。
 言わずもがな、我らがセラフィナである。だが彼女は、それでめげたりはしなかった。
 セラフィナと言えば、魔法使いの家の娘であるが無能力として生まれた役立たずだと長い間思われていた。だが女が持つ別の才覚により、兄たちを凌ぐ地位を手に入れた。即ち、彼女は美貌を持っていた。
 セラフィナはその美しさで多くの貴族の妾となり、最終的には皇帝の愛人にまで上りつめたのだ。
 そうして我らがぼんくら叔父上を見事操り、政治的介入をし、気に入らない家臣を気ままに処刑し、他国への侵略戦争を繰り返していた。だから嫌われて、恐れられていたのだ。
 疑問はある。
 俺を殺すに至ったのは、セラフィナが放った魔法によるものだ。防御さえ間に合わず、体が粉砕されるが如き痛みを覚え、俺は死んだ。ということはつまり、今から先、未来のどこかで、彼女は魔法を使えるようになるのだろう。
 だがその事実は、公にはされていなかった。俺でさえ知らなかったのだ。叔父上が知っていたかどうかも怪しい。
 セラフィナを再び盗み見る。彼女は俯いて、自分の指先を見つめていた。
 なぜこの子猫よりも弱そうな幼いセラフィナが、国中を震え上がらせるほどの悪女になったのか、残念ながらその答えを俺は持ち合わせていない。彼女と関わりを持ったのは、兄貴が死んでから俺と婚約し、そして解消するまでの数ヶ月だけであったし、その後は政治的対立もあり、互いに憎しと嫌い合っていた。
 思えば、兄貴が死んでからか? セラフィナがおかしくなったのは。
 普通に考えて、幼少期に婚約者が死ぬなんて衝撃が、少女に与える影響は計り知れないだろう。
 俺は別に兄貴が死んでも悲しまなかったし、わざわざ戦場に行って死ぬなんて阿呆だなとしか思っていなかった。だがセラフィナはどうだろう。政略結婚とは言え仮にも婚約者が死んだのだ。悲しみでとち狂ってしまったのかも知れない。
 そうか、と俺は思った。兄貴が死んで狂ったのなら、兄貴を死なさなければいいんじゃないのか。兄貴が死ぬのは戦場だ。だったら、理由をつけて、行かせなければいいのだ。
「なんだ、簡単なことじゃねえか」
 声に出すと、セラフィナは再び怯えたような表情になった。
 数日の間、セラフィナは俺たちの屋敷に滞在するとのことだった。時が戻る前の世界でもそうだったのだろうと思うが、思い出は一切なかった。かつての俺はセラフィナに興味などなかったからだ。
 不思議に思ったのは、彼女の家の使用人が一人も外泊に付いてこなかったということだった。
「お前ん家の従者どもはどこに隠れているんだ?」
 翌朝、兄貴のいない朝食の席で、感じた疑問をセラフィナ本人にぶつけると、栗色の瞳がぎこちなく向けられた。
「フィナは、いつも、一人で全部やってるの」
 またしても、聞き取るのがやっとくらいの小さな声だ。
「嘘つけ。普通、お前ん家ほどの名家なら、山ほどの世話係を付けさせるものだろ。特にガキなら、一人で身の回りの世話などできないはずだ」
「だって、フィナは魔法がつかえないんだもん、使用人をもらうケンリなんてないの」
「誰がそんなことを言うんだ」
「みんな」
 セラフィナは、消え入りそうな声でそれだけ言うと、小さな口でパンにかじりついた。
 よく見れば彼女の手は赤くひび割れていたし、服のリボンは不器用に結ばれている。俺を殺しに来たセラフィナはド派手な金髪をしていたが、まだ染められていない素朴な色の髪はお世辞にも綺麗とは言えず、ボサボサだ。どうして俺は気がつかなかったんだろう。もしや、幼いセラフィナは、家で虐げられ、挙げ句の果てに落ち目の家に厄介払いされたとんでもなく可哀想な娘なんじゃないのか。
 まあ、以前の俺が気がつかなかったとしても仕方がない。十三歳の頃の俺の興味と言えば、飯と女くらいなものだったから、九歳の少女など存在さえ気にも留めなかった。今の精神では、まあまあ周囲に目を向けられるくらいにはなってはいるが。
 セラフィナは、またしても目線を下に置いたままおどおどと言う。
「ショウ……さんは、どこにいるの」
「兄貴は親族連中の見送りだ。ついでに仕事もしてくんだろ、多分帰りは遅いと思うぜ」
 確かこの頃のショウは商人たちと手を組んで、いくつも商売をはじめるようになっていた。皇帝の息子が商売人のまねごとなど、兄貴の母親が知ったら嘆きそうなことだが、セラフィナは、ほっと息を吐いたように思えた。
 会ったばかりの冷徹な性格の男と婚約するなんて、確かに嫌なことなのかもしれない。
 しかし、セラフィナのなんとみすぼらしいことか。いつだって外見に気を使い、化粧も濃く服装も派手で、根拠不明の自信に満ちあふれていた女と同一人物とはとても思えない。なぜだか俺は、無性に腹が立った。
 俺にだって魔法くらいは使える。何せ死ぬ前は宮廷魔法使いをしていたのだから。
 俺がパチリと指を鳴らすと、セラフィナの服は整えられた。髪も梳かし、適当な髪型に仕上げてやる。精神力を主な糧としているせいか、魔力自体は、十三歳よりも成長しているようだ。暗い表情をしていたセラフィナは驚いたように俺を見た。
「従者ごっこだ」
 ふん、と鼻を鳴らしながら俺が言い訳のように言うと、察しが悪いのかセラフィナはぽかんと口を開けていた。花だって、花瓶が悪いと悪く見える。見た目が悪い奴と食事をする気になれなかっただけだ。
「ありがとう」
 小さく言うとセラフィナは、カップに入った紅茶に映して、自分の姿を確認しているようだった。
「後で風呂に入れよ。お前にメイドを付けるから、次からそいつに手伝ってもらえ」
 毎日こいつの世話をするのは面倒くさい。プロに任せた方がいいだろう。セラフィナは、目だけ俺に向けて泣きそうな表情になる。
「お風呂、のぞきに来ない……?」
「の、のぞくわけねえだろ!」
 何を言い出すのかと思えばありえないことで、正直びびって思わず叫んだ。いらぬ誤解を招きたくない。セラフィナに構うのは敵を観察する以上の意味はなく、兄貴は知らんが、俺はガキになど興味がないのだ。俺の叫びに驚いたのか、びくりと体を震わせたセラフィナは、それ以上何も言わなかった。
 沈黙の中で食事を終え、どうやって兄貴が戦場に行くのを阻止しようかと考えながら食後の茶を飲んでいると、セラフィナが窓の外に目をやっていることに気がついた。つられて目をやると、庭師の手によって整えられた庭がそこにある。
「花、好きか」
 過去の俺はセラフィナの相手など微塵も興味がなかったが、未来を知る今は、この娘を知ることを第一の課題と考えたのだ。
 セラフィナは小さく頷いた。
「じゃあ、見てみるか?」
 セラフィナは、今度は俺を見上げて頷いた。きっと喜ぶだろうと思ったが、その瞳は不安げに揺れただけだった。
 庭へ出ると、あろうことかセラフィナが手を繋いできた。ぎょっとしたが、嫌な気はしなかった。平素、女が勝手に体に触れてくるのは死ぬほど嫌なのだが、相手が幼すぎる子供であると、そうでもないらしい。
 驚くほど小さな手を、どの程度の力で握り返せばいいのかわからず、握られるまま庭を歩き回る。これが同じ歳の女を案内するのであればいい雰囲気の男女にもなっただろうが、相手は九歳児だ。そうして俺も十三歳だ。午前の健康散歩と言ったところだろうか。
 兄貴と違って花の種類など知らない俺は、ほとんど無言でセラフィナを案内したが、それでも彼女は楽しそうにしていた。
 ふとセラフィナが足を止めた。視線の先を追うと、枯れた大木がそこにある。疑問に思うのも無理はない。他の花たちがむせ返りそうなほど整理整頓されているのに比べ、あの木だけは黒く枯れており、異質な空気を放っていた。
「あれは兄貴の木だ」
「アニキノキ」
 繰り返すセラフィナに、意味が通じていない気もしたがそれ以上の説明をする気もなかった。
 あの木の前にショウはたびたび立って、物思いにふけるように、しばらく動かないということが過去の記憶の中にあった。その正確な理由を、俺は未だに知らない。
 他に相手をする人間がいないせいだろうか、午後になっても、セラフィナは俺の側を離れなかった。
 特に用事もないので拒みもしないが、九歳児相手に何を話せばいいのかわからない。セラフィナにしたって、ソファーで本を読む俺の横に、何をするでもなくちょこんと座っているだけだった。俺が本当にガキだったならまだ話も合ったかもしれないが、あいにく立派な大人なのだ。俺に子供はいないし、普段関わることもない。つまるところ子供というのは、俺にとって未知の存在だった。
「やりたいこととか、ないのかよ」
 耐えきれず声をかけると、セラフィナは目を丸くした。しかし何も答えず、大きな瞳が俺の言葉の意味を探るように、じっと見返してくるだけだ。
「なんでもいいぜ。食いたいもんとか、欲しいもんとかねえのかよ」
 長い沈黙の後で、セラフィナは、やはり消え入りそうな声で言った。
「……らない?」
「あ?」
 聞き返すと、先ほどよりも、わずかに声を大きくする。
「きらいにならない?」
「何が」
「フィナが、欲しいものを言っても、お兄ちゃんは、きらいにならない?」
 少なくないショックを受けた。今までセラフィナは、欲しいものを言ったら嫌われる場所で生活をしていたのだろうか。あの、欲しいものなら強引にでも手に入れる悪女セラフィナの幼少期が、これほどまでに悲惨であったと、誰が知っていただろうか。欲しいものを言ったくらいで嫌われていては、人類は誰しも孤独になってしまう。
「……なんねえよ」
 やっとの思いでそう言うと、あのね、と顔を赤らめ、内緒話をするように彼女は手を、俺の耳元に近付けて囁くように言った。
 ──お友達になってほしいの。
 滞在中、セラフィナは庭が気に入った様子だったので、たびたび伴って外に出ていた。実際のところ、本当に庭が好きだったかは知らないが、窓の外を見てそわそわしていることが多く、声をかけると頷くので、仕方がないから一緒に行った。よもや一人で外に行かせるわけにもいかない。どんな悪事を働くかわからないからだ。
 最低なことがあったのはそんな折りだ。
 セラフィナが手を繋いでくるのはいつものことだから慣れたもので、外で知り合いに見られるわけでもないからと俺も何も考えず、繋いだまま屋敷の中に戻った。瞬間だった。
「驚いた。使用人から聞いてはいたが、お前がそれほど面倒見がいいとはな」
「げえ」
 変な声が出た。玄関先で兄貴が眉根を寄せ、俺とセラフィナを物珍しそうに眺めていたのだ。
 だっていつもいないから、今日だっていないと思っていたんだ。どうやら書斎に引きこもっていただけだったらしい。
 何ひとつ悪いことなどしていないにも関わらず、兄貴の婚約者を連れ出したことに微妙な後ろめたさを覚え、加えて気恥ずかしさと気まずさで、俺は急いでセラフィナの手を離し、背中を押して兄貴の方へと歩かせた。勢い余って転びかけたセラフィナを兄貴が慌てて受け止め、不快そうに俺を見た。
「危ないだろう。どういうつもりだ?」
「別に」
 時が戻った今でさえ、兄貴と何を話していいのかよくわからない俺は、最低限の受け答えだけをした。兄貴はますます眉間に皺を寄せる。
「アーヴェル、私はときどきお前がわからなくなるよ」
 そんなの、俺だってわからねえよ。
 部屋に戻って一人になった時、兄貴とまともに話すのが、恐ろしいほど久しぶりであったことに気がついた。
 未来では兄貴は死人だったし、生きていた頃も、顔を合わせて会話など、数えるほどしか経験していなかったのだ。だが、今は、わずかながらも顔を合わせる回数が増えた。それもこれも、すべてがすべて、セラフィナが我が家にいるという事実によるものだった。
 俺はセラフィナをよく観察していたが、わからないことも多々あった。セラフィナに魔法を使える素振りはなく、一体いつから使えるようになったのかということも疑問のひとつではあるが、考えたところで答えは出ない。それよりももっと実際的なところに謎はあった。
 あるとき俺が、高いところにある物を取ろうとした時だ。いつだって俺の後ろをついてくるセラフィナもこの時側にいて、だが両手で頭を覆ってしゃがみこんだのだ。いくら鈍感な奴だってわかる、それは防御の体勢だった。
 俺は確かに屑であるが、女を殴ったことは一度もない。殴るような男に見えたのだろうかとほんの少しだけ傷ついた。
 だがこれだけではない。奇妙なことはまだあった。セラフィナの世話を任せている壮年のメイドが、ある日俺に話しかけてきた。
「アーヴェル坊ちゃま、セラフィナ様のことでご相談がございまして」
 ショウではなく俺に伝えに来たのは、セラフィナの世話を頼んだのが俺だったからという単純な理由だろう。
「なんだ、わがままに振り回されているのか」
 所詮あいつは悪女だからな。
「まさか! とても大人しくて可愛らしいお嬢様でいらっしゃいます。その、お伝えするかどうか迷ったのですが……」
 などとまどろっこしい前置きをした後で、彼女は言った。
「セラフィナ様の体に、痣がいくつかあるのです」
 意図がわからず聞き返した。
「はあ? 痣くらい誰にだってあるじゃねえか」
 特に子供だったら、あちこちぶつけるものだろう。俺の子供の頃だって、全身痣と切り傷だらけだった。わざわざ呼び止め、声を潜めて伝える話だろうか。新人メイドならともかく、ショウが子供の頃からいるであろうベテランメイドが深刻そうに話す内容とも思えない。
「本人は転んだとおっしゃっているのですが、そうは思えなくて」
「本人が転んだと言ってるなら、そうなんだろ。他に理由があるのかよ?」
 俺が言うと、メイドは何かを言いたそうに口を開きかけ、ゆっくりと首を横に振った。
「いえ……恐れ多いことで。ただ、彼女のことを気に留めていただけたらそれで良いのです」
「まあ、いいけどさ」
 俺ほど彼女を気に留めてる奴もいないが。メイドはそれ以上何も言わずに、引き下がっていった。
 ともあれ数日は穏やかに過ぎた。初日に魚を食ってやったせいか、セラフィナは俺に懐き、心を開かない娘をどうやって手懐けたのかと、兄貴に驚かれたほどだ。
 あまりみすぼらしい姿をした人間と一緒にいたくない俺は、毎日せっせと彼女の身支度を手伝った。元々外見がいいせいか、他の美少女が泣いて嫉妬しそうなほどセラフィナは可愛らしくなった。身内のひいき目も多少あることは否定しない。誰だって、自分が手を入れたものには愛着が沸くというものだ。
 俺はセラフィナと友人になったか? については、まあ多分そうだ。少なくとも、彼女が退屈しないように、相手にはなっていた。あくまで俺にだけだが、セラフィナは、時折小さく笑みを見せることもあった。
 だから兄貴がこう言ってきたのも、納得はできた。
「アーヴェル。お前がセラフィナを家まで送ってやれ」
 驚きはあったことはあった。それがたとえ、気難しい少女が俺に奇妙に懐いたからで、当主として忙しい兄貴の代わりという理由だけであったとしても、兄貴が俺に頼み事をするなんて過去に一度もなかったからだ。
 わかった、と頷くと、頼んだぞ、と兄貴は俺の肩を叩いた。俺の精神年齢は今の兄貴より上だが、それでも頼られたことについて、俺の胸はこそばゆくなった。
 いつも以上に無口なセラフィナの身支度を手伝い、早朝に出発し、馬車を乗り継ぎ、セント・シャドウストーンの地に着いたのは夜と言ってもいい時間帯だった。
 姓は単にシャドウストーン。その上に「聖なる」を付けて、セント・シャドウストーンとも名乗っている、お高くとまった連中だ。
 セラフィナの家族の話をすると、父親ロゼッタ、長兄クルーエル、次兄ジェイド、そして長女セラフィナがいる。セラフィナ以外、全員が魔法使いだ。母親は既に亡くなっている。男家族の中で無魔法。いかにセラフィナの肩身が狭かったか、これだけで推し量れるというものだ。
 屋敷の前に馬車をとめ、俯くセラフィナの手を引き歩かせつつ、俺も周囲を観察した。
 流石由緒正しき伝統あるシャドウストーン家は、他を寄せ付けぬ威厳と重厚さを放っていた。門構えだけでなく、その内面にもである。孤高の精神が、そのまま建物にも反映されているかのようだった。
 出迎えた使用人は、玄関先でセラフィナを見ると明らかに嫌そうな顔をして、無機質な声でこう告げた。
「あいにく旦那様は留守にされております。お嬢様はここで引き取ります。あなた様もお帰りくださいませ」
 握るセラフィナの手の力が、わずかに強まった瞬間、俺の中で微かな違和感が疼いた。
 これでいいんだろうか。
 セラフィナはなぜ悪女になったんだ? その明確な原因を知らないが、この家だって関係しているのは間違いない。疎外感と孤独が人間の精神に影響を及ぼすことくらい、俺だって知っていた。この家はおかしい。俺の家もまともとは言えないが、それでも常識はこの家よりはある。九歳の娘が婚約者の家からやっと帰って来たというのに、出迎えたのはたった一人の使用人で、それさえ彼女を敬うやまっていないのだ。
 いつまでもセラフィナの手を離せずにいる俺を不可解そうに見つめる使用人の奥から、一人の人物が現れたのはその時だった。
「なんだ、帰ったのか役立たず。二度と帰ってくるなと言ったものかと思ったが」
 背丈は俺よりも低く、顔立ちはセラフィナに似通っている少年だ。こいつのことは知っていた。
 ジェイド・シャドウストーン。
 後に南部総督となるクルーエル・シャドウストーンの弟であり、セラフィナの兄で、年は俺と同じだったはずだ。
 ジェイドは俺をちらりと見ると、馬鹿にしたように薄ら笑いを浮かべた。
「北壁のフェニクスか。随分と無能の娘をかわいがったようだ。穢れた成り上がり一族は、出来損ないだとしても権威を大事に扱うのか? 卑しいことだ」
 これほどまでに混じりけのない純度百パーセントの悪意を向けてくるとは、こいつはまず間違いなくくそ野郎に違いない。「北壁のフェニクス」とは、中央から北に追いやられた俺とショウを軽蔑する際、皇帝一家と区別するために使われる陰口だ。面と向かって言ってくるとはそれだけジェイドが子供であり、捻くれているということだろう。
「おいセラフィナ、突っ立ってないでさっさと来い! またかわいがってやるからな」
 そう言って、セラフィナの片腕を掴んで家の中へと引っ張った。
「いたっ」
 セラフィナがそう言った。
 セラフィナはそう言っただけだ。
 腕を引っ張られて、痛がっただけだ。そうして助けを求めるように、俺に向かって手を伸ばした。それだけだ。
 愕然とした。俺はとんだ間抜けだ。遅ればせながら、メイドが言わんとしていた意味を悟った。セラフィナの体にある痣は、何者かによって付けられたものだということに。
 ふつふつと、怒りが沸いた。
 この女を、誰だと思っているんだ? 俺の家の当主の、妻になる女だ。
 これはつまり、俺の家に対する侮辱だ。俺へ対する侮辱と同義だ。
 ここまで誇りをコケにされて引き下がったら、それこそ間抜けというものだ。
 ──バチンッ!
 俺が放った魔法はジェイドが防衛のために放った魔法とぶつかり合い、空中で炸裂し方向を変え、玄関の一部を破壊した。
「馬鹿め! いくら貴様に魔法が使えようとも、シャドウストーンの血に勝てるはずがないだろッ!」
 ジェイドが高笑いをした。それは悪女セラフィナの姿によく似ている。だが二度と、こういう笑い方をする奴に負けるつもりはなかった。
「馬鹿はお前だ、くそ野郎」
 俺は陽動と実動の、ふたつの魔法を放っていた。相手が浅はかな子供で良かった。派手な陽動に引っかかったジェイドは、隠れたもう一発に気がつかなかったらしい。腹に小さな爆発を食らったジェイドは後方へと吹っ飛び、壁に激突した。
 やはり俺の魔力は、本当に子供だった時よりも増しているようだ。とはいえ、ジェイドを殺す気はなかった。のろのろと体を起こしたジェイドは自分が攻撃を受けたことが信じられないかのように絶句して、唖然と目を見開いていた。
 思い知ったかクソガキめ。
 一方で俺は腕に、セラフィナをがっちりと抱きしめていた。小さな体温が震えている。
「セラフィナは連れて帰る」
 俺は、自分に言い聞かせるように言った。
「こいつは兄貴の婚約者で、もうほとんど俺の家の者だ。どうしたって、こっちの自由だろう!」
 それだけ言うと、セラフィナを抱え、乗ってきた馬車に再び乗り込んだ。
「お前ん家の兄貴に攻撃したけど、別にいいよな」
 セラフィナは、小さく頷いた。
 馬車に座ってもセラフィナは、俺の体にしがみついたまま、離れそうもない。それでいいと、俺も放っておいた。頭はひどく、混乱していた。
 以前の記憶だと、セラフィナを送りに行ったのは兄貴であったし、きっちりと返却して、俺たちの家に住むなんてこともなく、兄貴が死ぬまで、表面上、二人はそれなりに付き合いを続けていたように思う。
 だが俺はセラフィナを連れ帰ってしまった。どうなってしまうかはわからない。以前とはまるで、違う展開なのだから。
 でもいいだろう、と言い訳のように心の中で呟いた。
 セラフィナを悪女にせず真っ当に育て上げれば、俺の命は守られるし、叔父上も操られず、処刑された多くの奴らが救われるのだから。これは世のため、俺のためだ。
 セラフィナを伴って帰った時、兄貴が怒らなかったのは意外だった。苦笑を浮かべてはいたものの、俺が彼女の家の話を伝えると、納得したようだった。セラフィナの痣に気がついていたメイドの援護があったことも功を奏したのか、「お前がそう思ったなら、それでいいさ」とさえ言ったのだ。もしや、見た目が良くなったせいで、セラフィナへの態度が軟化したのかもしれない。あるいは少しのうぬぼれが許されるのならば、兄貴は俺を信頼したのだ。
 まあそれも、俺がシャドウストーンの屋敷の玄関を破壊して、ジェイドにちょっとした怪我をさせたことがばれるまでの短い間だったが。
 以前の兄弟関係は冷え切っていて、抱擁もなければ喧嘩もなく、ただ淡々とした空気が流れていただけだったから、兄貴がガチギレするとあれほど恐ろしくなるのだとは、いざその場になってみるまでまるで知らなかった。
 考えてもみろ、精神的には二十三歳の俺が、十八歳の青年に真面目に説教されているのだ、それも言い返す隙のないほどの完璧な正論で。泣けてくる。数時間に及ぶ説教の末、ため息と共に兄貴は言った。
「先方が自分たちの態度も悪かったと引き下がらなければ、大変な騒ぎになったところだ。彼らに感謝するんだな」
 感謝など、もう一度死んだってしたくない。
「でもあいつらおかしいだろ、魔法が使えないってだけで、セラフィナに虐待まがいのことをしてたんだ」
「私もそれは間違っているとは思うさ。だが手を出しては我々の立場が悪くなる一方だ。もっと広い視点で考えろ」
 ぐうの音も出ないほどの正論だ。ショウは更に言った。
「お前の処分は、二ヶ月の外出禁止だ。旅行も食事も遊びも、友人と会うのも禁止だ。それで手を打つことにした」
 俺も真摯な顔を取り繕つくろって、一応は頷いておいた。