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目の前の惨劇で前世を思い出したけど、あまりにも問題山積みでいっぱいいっぱいです。
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目の前の惨劇で前世を思い出したけど、あまりにも問題山積みでいっぱいいっぱいです。

著者:猫石 イラスト:茲助

序章 目の前の惨劇で前世を思い出す

 案内役の騎士によって視察のために立ち寄った南方辺境伯騎士団本部砦内の救護院。
 そこで私は動くことができなくなった。
 大きな声がし、腕が引かれ、差し入れとして持ってきた焼き菓子入りの籠が手から滑り落ち、足元に転がり散らばった。
 負傷者を見たことはあった。
 しかし、いま目の前に広がっているような惨状など見たことはなかった。
 付き添っていた侍女は、臭気に耐えられず小屋から飛び出した。
 私もここから逃げたい。
 そう思っているのに、足はわずかにも動かない。
(なぜ?)
 焦り、足元に視線を落とすが、物理的に縫い留められているわけではない。
 恐怖で動かないのだ。
(に、逃げなきゃ……)
 そう思って顔を上げると再び視界に入った光景に、頭から冷水を浴びたように血の気が引いた。
 熱気がこもった空間に充満する、黴(かび)と土埃と鉄の混ざった臭気。
 粗末な小屋の中に点在する灯は薄暗く、壁板の欠けた隙間から光が差し込んでいるが、部屋全体を照らすことはない。だが暗さに目が慣れれば現状は見えてくる。
 一目ではそれとわからないほど朽ちた筵(むしろ)が、朽ちた床材が混ざった土の上に広げられ、負傷兵が転がされるように横たわっている。
 傷ついた体を抱え、迫りくる死への恐怖に怯え、すすり泣き、うめく負傷兵達と、そんな彼らの間を、恐怖に青ざめながら上辺だけの慰めの言葉を繰り返す数名の隊員服を着た青年騎士。
 そんな異常な光景と、誰かの大声に、むせかえるほど臭気。
 すべてがぐちゃぐちゃに混ざり合い、無数の刃となって私に突き立てられた。
 ――ぐうっ。
 胃が捻り上げられた感覚に、酸っぱい物が喉元まで上がるが、反射的に口を押さえ、目を固く閉じて、なんとか飲み下す。
 目の前に倒れる負傷者はみんな、辺境伯騎士団の騎士であり、辺境の領地領民のために戦い、傷ついた方達なのだ。
 そんな彼らの前で、領主の妻が見苦しく嘔吐するわけにはいかない。
 そう思い、一度目は耐えた。けれど、何度も押し寄せる淀んだ空気と悪臭は、私の鼻の奥を、脳髄を、心の奥を、焼けた火箸のように強烈に乱暴に引っ掻き回す。
 こみあげる酸っぱい物を飲み下す、それでも繰り返しやってくる吐き気に耐え切れなくなった私は、救護院(ここ)で吐くわけにはいかないと、動かない足に力を込め、よろめきながらようやく小屋から飛び出した。
「……っ!」
 暗闇に慣れていた目には、陽の光は強烈な刺激となって私を襲い、繰り返し飲み下していた胃の中身が、再び口腔内に充満し、逃げ場のないものは鼻腔に逆流した。
 喉の奥、鼻の奥、目の奥、頭の奥。
 そして私の心臓の奥で、激しく金属を叩きならす熱が、音が、光が聞こえる。
 飛び込んでくる、情景、面影、音、光。
 涙があふれる。
 鼻水も噴き出す。
 我慢の限界だった。
 視界を失った中、肩に触れた木にもたれかかるように、私は膝をつくと、そのまま口を押さえた指の隙間からあふれた吐瀉物が、音を立てて飛び散った。
 朝食べた豪華な食事、もてなしとして出された菓子やお茶、それから胃液。
 何度もえずいて、吐き出して。胃が空っぽになってなお、鼻の奥に残る臭気に目を回し、そのまま自分の吐瀉物に倒れ込む……はずだった。
『貴女、看護師になったんでしょう? ここで逃げていいの?』
 鮮明に聞こえたその声に、頭の中が急に明るくなった。
 それを言ったのが誰なのか思い出す。
(先輩……?)
 目の前で起きた患者の急変に理解が追い付かず、医師や先輩からの指示通りにも動けなくて、情けなさからその場で泣いてしまい、もう辞めたいと言った自分を叱咤激励してくれた厳しくも優しい先輩の声。
 手放しかけた意識を手繰り寄せ、目を見開き、木の幹に手をついて、吐瀉物の上に倒れるのを押し止める。
『学校に実習に国試。ここまで頑張ったのに、簡単に投げ出していいの? 最初から完璧な人間なんていない、何もできなくてあたり前なの。自分ができることを最大限で頑張ればいいの。頑張った結果は後でちゃんとついてくるから、ここで投げ出さず、できることから頑張りなさい』
 今のように、先輩は何度も私を励まし、指導してくれた。
「できること……」
『ここで投げ出して後で死ぬほど後悔するくらいなら、今、踏ん張って頑張りなさい。貴女が頑張って掴んだこの仕事は何?』
「私の仕事は……」
 ロッカーに入ったVネックのスクラブに身を包むと、俄然(がぜん)仕事モードのスイッチが入る。そんな私の仕事、は。
「看護師……だった。そして今はこの辺境伯領の領主夫人……」
 ポケットの中に入れていた手巾(しゅきん)を取り出し、吐瀉物で汚れた口の周りを拭くと、震える足に力を入れ、立ち上がる。
 土で汚れたドレスの裾を翻し、惨劇が広がる小屋へ足を運ぶ。
「奥様いけません! お屋敷に戻りましょう!」
「辺境伯夫人! お待ちを!」
 私より先に小屋から飛び出した侍女と案内役の騎士が、真っ青な顔をして止めようとすがるが、その制止を振り切り進んだ。
 小屋の前に立った私は、手巾で鼻を押さえても遮ることのできない臭気に顔をしかめながら、奥へ進むと、次々と粗末な窓を閉ざしていた戸板を叩き外した。
 開いた窓から、明るい光が差し込み、柔らかな初夏の風に、臭気が薄らいでいく。

『頑張りなさい。自分のやれることを、全力で』

「はい、先輩」

 拳を握りしめ、私は吐き気に負けぬよう気を入れて声を上げた。
「このような状況は、領地領民のために戦ってくださった騎士様に申し訳が立ちません」
 扉のところで立ちすくんでいた私の侍女のアルジ・イーターと、傷ついた騎士の間で彷徨(さまよ)っていた青年騎士達に指示を出す。
「アルジ。申し訳ないけれど私に手を貸してちょうだい! 貴方は屋敷から、清潔なシーツや手巾をありったけと、私を手伝ってくれる人手を集めてきてちょうだい! 私から特別手当を出すと言いなさい。騎士の皆様も私がこれからやることを手伝ってくれる人手を集めてください! これは辺境伯夫人として私からの命令です!」

一章 過去の私と、前世の私。そして今の私。

 私の名前はネオン・テ・トーラ。
 トロピカナフィシュ王国の三大公家の一つであるテ・トーラ家の血を引く男が作った最初の子だった。
 過去に何度も王女が降嫁し、また娘が王家へ嫁いだこともある名門中の名門。開国よりこの国の司法を担ってきたテ・トーラ家の嫡男として生まれたその男は、王家と自分達以外を同じ人間と認識せず、使用人を虐げ、虫を握り殺し、花を踏み潰す残虐性を持ちながら、なぜか多くの衆目を集め、普通であれば咎(とが)められる粗相をしても微笑めば許される、周囲を魅了してやまない不思議な魅力を持った子供だったらしい。祖父母はそんな男が唯一無二に見えたようで、体面上は厳しく叱るものの、結局はむやみに甘やかした。
 そんな甘やかすだけの歪んだ愛情は、男の性質の悪さを増長させた。
 権力を笠に、賭博、酒、女などの刹那的享楽を愛し、努力を嫌い、悪を悪と思わない人の業を煮詰めたような男は、貴族の子が集まる学園でも勉学などせずやりたい放題をし、親の力で卒業すると王立騎士団に入団したが、寄宿舎生活の厳しさと窮屈さから三カ月持たず脱走した。
 祖父母はそんな男を怒りもせず、匿(かくま)い、息子の経歴に傷が付いたら可哀想だと在籍していた事実すら揉み消した。
 その後も、王宮外の各要所に就職しては、こんな仕事は俺がやる仕事じゃない、あの上司が生意気だと言っては逃げ、親に小遣いをせびって、ぶらぶら遊び歩く男に、流石に危機感を抱(いだ)いた祖父母が苦言を呈したが、散々甘やかされた男は反発し、公爵家を飛びだして王都の下町で遊び歩き、賭博場の借金取りから逃げ回っていた。
 同じ頃、男爵令嬢だった母は、互いに想い合った男爵家の次男と結婚し、庶民となって王都の下町で暮らしていた。
 子にも恵まれ幸せだった生活は、不運にも夫が馬車の暴走に巻き込まれたことで終了した。
 夫を失った母は、子と二人、夫の遺産で小さな家を買い、仕事をし、慎ましやかに暮らした。
 そんな母と男が出会ったのは、神のいたずらか、偶然だったのかはわからない。しかし子を抱えて慎ましく暮らしている母は、男にはいいカモに見えただろう。
 母を騙し、己の借金を払わせたうえ、母子の家に住み着いた。
 逃げ出した男に業を煮やした祖父母が男を見つけた時、母の胎には私がいた。
 常ならば、さんざん息子の悪事を揉み消してきた祖父母によって、母子もろとも消されていたのかもしれない。
 しかし、家族を持てば男の性質がしっかりするだろうと考えた祖父母は、母が元貴族であること、先に産んでいた異父兄も男に懐いていることから、父として、家長として自覚を促すためにもいいと判断し、二人を婚姻させた。
 母は私を産んだ後、さらに妹二人と公爵家の後継ぎとなる弟を産んだ。
 その結果、母の地位は盤石……になるはずもなく。元男爵令嬢という身分の低さ故、祖父母や親戚、家庭教師、使用人からも公爵夫人として認められず、立て続けの出産と虐(いじ)めに体を壊した。
 一方、元凶の男は、結婚を機に公爵家次期当主として遅すぎながらしぶしぶ教育を受け始めたのだが、自由のない生活と厳しい教育、寝込みがちな母が嫌になり、公爵家で行儀見習いとして働いていた、遠縁の子爵令嬢と恋愛関係になり、金を持って逃げ出した。
 ここでようやく男を見限った祖父母は、公爵家を次男に譲る決意をし、逃げ出した男を子爵令嬢と実家に金で押し付け縁を切ると、残された母にも婚姻関係無効を突きつけ、子供五人と共に公爵家を身一つで追い出した。
 私が八歳の頃の話だ。
 小銭だけ握らされ放逐された母は、五人の子の手を引き、市井に暮らしていた時に交流のあった友人を頼り、雨風が凌げるあばら家に住むと、細々と内職を始めた。
 病のために外で働くこともままならない母には、それが精いっぱいだった。
 そんな母を助けるため、異父兄は公爵家で身に着けた読み書きと作法を武器に大きな商家に執事見習いとして奉公に出て、私は母の友達の経営する宿屋兼酒場で雇ってもらい、毎日必死に働き、食べ物を買い、母を医者に診せ、妹達を庶民の通う学校に進ませた。
 生まれてから八歳まで、公爵令嬢として暮らしていた私には、そんな生活は辛かったが、周囲の優しい人に助けられ、私のことを大切に想ってくれる唯一無二の優しい人にも出逢い、幸せだと感じる余裕もできた。
 しかし、祖父母の所業で心に大きな傷を負ったのは確かだ。
 お貴族様は嫌い。
 男のような、祖父母のような、親戚達のような、人を人と思わない青い血の生き物は大嫌い。この先、何があっても関わり合うなんて真っ平御免。
 そう思いながら、このまま家族を守り、いつか想い合う人と夫婦になって、貧しくとも心穏やかに暮らしていくことを夢見て生きた十八歳の誕生日。
 いつものように宿屋兼酒場の奥で、久しぶりに逢える人を思い、浮足立ちながら働いていた私の目の前に現われた青い血の男に、再びすべてを奪われた。
 男の弟、現テ・トーラ公爵当主。
 彼は、従者に捕らえられた私を見下ろし、満足そうに笑って言った。
『テ・トーラ家のために、嫁に行け』
 政略結婚。
 叔父には、家を継ぐための男子しかいなかったために選ばれた。
 なぜ私達ばかり、奪われ、貪られ続けるのかと、絶望する中、豪華な馬車に担ぎ込まれ、公爵家に連れて行かれた。
 逃げる術はなかった。
 母や弟妹を盾に取られるとわかっていたからだ。
 それを逆手に取り、自分が嫁に行く代わりに月百万マキエ(一マキエ=一円。庶民の平均年収は約三百~五百万マキエ)をこれから二十年間、母への慰謝料と、父の子である弟妹へ養育費として支払うこと、金銭を渡す時以外は決して接触せず、公爵家の都合に巻き込まないことを条件に、公爵令嬢に戻り、政略結婚を受け入れると提案した。
 当主は他の妹弟にも利用価値を求めたかったのか私の提案に一瞬躊躇(ちゅうちょ)したが、弟妹が『公爵家の宝石』ではないためこれを了承、魔導司法士を入れて、違えることのできない正式な魔導契約を結んだ。
 契約に従い、私は半年ほど公爵家の領地の屋敷で公爵令嬢としての教育とマナーを叩き込まれた後、顔も知らない辺境伯卿のもとへ嫁いだ。
 南方辺境伯当主ラスボラ・ヘテロ・モルファ卿。
 王都の聖堂で行われた婚姻の儀で初めて見たその人は、緩やかに波打つ夕暮れの色の髪を背中で一つにまとめ、夜の闇を凝(こご)ったような澄んだ漆黒の瞳の嵌(はま)った切れ長の目元で前を見据える、長身にしっかりと鍛えられた体躯の美丈夫だった。
 貴族の、しかも武勲に優れた辺境伯とは、どれほど苛烈な人だろうと思ったが、婚姻の儀式の後、公爵家に戻り分厚いヴェールと重たいウエディングドレスに身を包んだ私を、辺境伯領へ向かう馬車へエスコートする仕草は武骨ではあるが大変優しく、貴族にはこんな人間もいるのかと思ったくらいだ。
 しかしその後、辺境伯領の教会で結婚式を終え、披露の宴も行われないまま辺境伯家の屋敷に身を寄せた夜。
 辺境伯家の侍女達によって隅々まで磨かれ、肌が透けて見える薄く繊細な夜着を身に着け大きなベッドに座らされていた私に、やって来た旦那様は、何の感情もない冷たい視線で、その言葉を淡々と突き付けた。
「ネオン嬢。私は辺境伯として様々な政的・商的利点があること以外、この結婚に興味はない。死と隣り合わせで生きる騎士に、愛や恋などといった浮ついたモノは不必要と思っている。したがって君を愛することは絶対にない。
 幸い、辺境伯領は王都から馬車で一週間と距離的にも離れている。王都で暮らす夫人の様なしがらみもないだろう。君には、辺境伯夫人としての執務と、避けることのできない夜会などの最低限の社交、それ以上は求めない。
 勿論お飾りの君を抱くこともない。後継は分家から優秀な子をもらうつもりなので不要、故に君を抱くつもりもない。
 しかし、このような辺境まで嫁いでくれた君に感謝しているのは確かだ。そのため、辺境伯夫人として毎月給与を支給しよう。その額内であれば、子を作ること以外は好きにしてくれ。我が家名を名乗って、遊びまわったりしないのであれば、王都に戻ってもかまわない。それらが守られている間は公爵家と結んだ契約は守る。私からは以上だ。君から何か要望はあるか?」
 あまりの物言いにあっけにとられた私は、しかしすぐ理解し、笑いが漏れた。
 目の前の人も、所詮、青い血の生き物だと理解した。
 夫となった辺境伯は、国王陛下の『国の政と武、王都と辺境の絆を盤石にするために婚姻をせよ』という御言葉で決まった結婚で白い結婚を貫くと言い、政略結婚の際たる証となる、双方の血を引く後継を産むことが最大の使命と言い聞かされた私に、彼は王命に背くと言ったのだ。
「そう、ですか」
 私は自身を落ち着けるために深呼吸をしてから問うた。
「婚姻の儀は終わっていますので、旦那様と呼ばせていただきます。旦那様にお尋ねします。この結婚は『三公爵家と三辺境伯家が婚姻を結ぶことで、政と武、国をより盤石にするため』に結ばれたものだと伺っておりますが?」
「その通りだ」
 問いかけた私に、彼は何の感情もなく言った。
「他家は要望に従い、公爵家側が辺境伯家から婿、または嫁を取る形を取ったが当家は公爵家に見合う未婚の者が私しかいなかった。だが私は婚姻をするつもりがなかったため、一度お断りをした。それで決着したと思ったところ、再度陛下とテ・トーラ閣下より、君を辺境へ嫁がせたいと打診があった。そう言われれば仕方がない。だから君を娶(めと)った。これで約束は果たしたと思っている」
 言葉通り娶ったのだから文句はないだろうということらしい。本気でそう思っているらしき旦那様は、陛下の言葉の真意にお気づきでないのかもしれない。
 その言動と態度がいっそ潔く、私は笑った。
 もしかしたらとも思ったが、彼も青い血の生き物で、ならば私も妥協や遠慮はする必要がない。
 背を伸ばし旦那様に向き合った私は、お礼と、一つのお願いをした。
「正直にお話ししてくださってありがとうございます。私も望まない形での婚姻でしたので、お申し出は大変にありがたいですわ。ご命令通り、辺境伯夫人として求められる仕事と社交のみ、しっかり行わせていただきます。
 それから、私の要望を聞いてくださるとのこと。それにつきまして心より感謝申し上げます。要望はただ一つ。旦那様と婚姻関係にある間は、王都に暮らす実の家族を、テ・トーラ家を含むすべての害悪から守っていただきたい。それだけでございます」
「テ・トーラ家から? それは君の実家ではないのか? あぁいや、話さなくていい。そんなことで良いのなら、約束しよう」
 私の提案にやや面食らったような顔をした旦那様は、どうやら本当に私には興味がないようで、私の複雑な環境は御存じないらしい。
 しかし彼は頷いてくれた。そのことに私は喜んだ。
「ありがとうございます。大変心強いですわ。ただ口約束ですと不安ですので、明日にでも魔導契約を結ばせてください。その方が互いに安心できますでしょう? それから、白い結婚を貫くのであれば、私がこの寝室で眠るのもおかしな話ですので、本日より別室で休ませていただきます。明日からはお互い気を使わぬよう……そうですね、家令から、この敷地内に離れがあると聞きましたので、そちらに移ろうと思うのですが、よろしいですか?」
 私の提案に、旦那様は少し眉を上げた。
「それは構わないが、君は、それでいいのか?」
「それで、とは?」
「嫁いだというのに、白い結婚を了承し、離れに住むなど……」
(何をいまさら? 言い出したのは貴方だというのに)
 自分からあれだけのことを言っておいて、そんな心配?をする旦那様に、少々呆れたものの、淑女教育の賜物ともいえる貴族的笑みを浮かべて返す。
「白い結婚ですもの、その方がお互い、気が楽でしょう?」
「確かにそうだな。では家令に言って不自由のないよう使用人を……」
 その言葉に、私はいいえと返す。
「離れで暮らすお飾りの妻に使用人は不要です。食料品なども旦那様から頂く給金で購入いたします。ただ、流石に一人で買い物には行けませんから、辺境伯家に出入りしている商会とやり取りをすることをお許しください」
 私は元々市井育ちだ。家事は一通りできるし、見ず知らずの使用人が傍にいるなど煩わしいだけだ。それに『初夜もお情けも受けられず離れに引き込まれたお飾りの奥様』などといびられるのは御免だ。
 しかし旦那様は躊躇してみせた。
「君は公爵令嬢だろう? 食事に着替えに湯浴み。使用人の手助けなく生活するなど無理だろう」
「……あぁ」
 そういえば私は、公爵令嬢という触れ込みだった。
 その点を心配できるあたり、彼が真に冷たい人間ではないかもと思いはしたが、同時に、本当に私に興味がなく、誰かが行ったであろう身元調査書にも目を通していないのだと気がついた。
 いくら公爵家相手とはいえ、政略結婚の相手など瑕疵(かし)がないか調べるだろうに迂闊なことだと思い、そんな残念な旦那様の貴族として致命的な迂闊さを憎み切れないなとも思う。
「詳しくは契約を結ぶ時に説明いたしますが、夜会など正式な社交の場合の支度以外は、一通りのことができますのでご遠慮します」
「そう、なのか?」
「はい。それでは旦那様、夜も更けて参りましたし、本日はお互い疲れも溜まっていますでしょう? これにて失礼いたします。おやすみなさいませ」
 ベッドから立ち上がり、呆然と立つ旦那様の隣をすり抜けると、傍にあった厚手のガウンを身に着け寝室を出た。
 その後は外で控えていた侍女に申し付け、客室を借りることができぐっすりと眠った。
 翌朝は、真っ青な顔の侍女頭の手で身支度がされ、食堂に案内されると、遅れてやってきた旦那様と、二人でとるのは最初で最後になる予定の朝食を食べ、執務室へ移動し、止める家令と侍女頭の立会いの下、辺境伯家の分家筋に当たる魔導司法士を入れ、互いに事細かに条件を出し、何度も確認をしたうえで契約書を作り、連名でサインをした。
 その後は、明らかに動揺している家令や侍女頭が、それでも丁寧に離れで暮らすための手配をしてくれ、その日のうちに居を移すことができた。
 ただし、女主人が一人で暮らすのは流石にやめてほしいと家令と侍女長に懇願され、最低限の譲歩として、専従の執事と侍女、それからハウスメイドが通いでやって来ることを了承し、離れでの自由気ままな暮らしが始まった。
 心配したいじめなどはなく、庭師の好々爺(こうこうや)やメイド、侍女達と仲良くお茶をし、花を愛でる穏やかな引きこもり生活は思った以上に快適だった。
 けれど結婚から三カ月をすぎた今日、家令と侍女長が突然やってきて『辺境伯夫人として一度、辺境騎士団を視察してみては?』と言われたのだ。
 お飾りとはいえ女主人なのだし、辺境伯夫人としての仕事は契約にもあったため了承すると、侍女長が用意した大量の焼き菓子の入った籠を手に、侍女のアルジを伴い騎士団へ向かった。
 砦に到着すると、出迎えてくれた案内係の第三番隊副隊長の後について、砦内を見学をした。
 ここまでは、よくある仮面夫婦の貴族様のお話である。
 しかし、なぜこんなところにあばら家が? と興味本位で覗き込んだのが、第三辺境騎士団の一小隊が壊滅状態で運び込まれた名ばかりの救護室であり、その中の惨劇を目にし、嘔吐と共に前世の記憶が戻るなんて思ってなかった。
 私の前世。
 それは!
 看護師!
 ただし期待しないでもらいたい!
 国内外のドラマで見るような、ER(救急治療室)やICU(集中治療室)、急性期病棟など、一刻を争う重症患者を前に、日々観察と看護ケアを行ったり、D‒MAT(災害派遣医療チーム)などの、怒号飛び交う場所で医師の指示をうけ確実に仕事をこなす、一般人が想像するいわゆる『看護師』などではなく。
「生活と趣味のためだけに看護師やってま~す」
 と豪語しながら、日々の喧騒とは全くかけ離れた穏やかな職場で、時間の流れに沿って仕事をするだけの、お気楽看護師だったのだ。
 あぁ、先輩。よく言っていましたね。
 看護師として『若いうちは急性期病棟をしっかりと経験しておきなさい』と。
(あの時『へっぽこの私には無理です、事故起こしちゃいますから絶対行かないです』って笑って逃げてごめんなさい。今、猛烈に反省しています。あぁでも、こんなに大勢の負傷者に、専門的な知識どころか、教科書の内容すら覚えていない私が、必要と思える医療物品が存在すらしない世界で、一体何ができるかしら?)
 そう考えながら、目の前の惨劇に立ち向かうことになったのである。