01TEXT

訳あり令嬢は調香生活を満喫したい!~妹に婚約者を譲ったら悪友王子に求婚されて、香り改革を始めることに!?~ 1
Title

訳あり令嬢は調香生活を満喫したい!~妹に婚約者を譲ったら悪友王子に求婚されて、香り改革を始めることに!?~ 1

著者:花宵 イラスト:澄あゆみ

第一章 悪友王子に求婚された

 この温室とも、あと少しでお別れなのね……。
 結婚を半年後に控え、感傷に浸りながら大切に育ててきた花たちの世話をしていると、バタンと勢いよく扉を開ける音が耳に入った。
 振り返ると王都では珍しい銀髪を視界に捉える。
 そこには一つ年下の婚約者、リシャールの姿があった。学園帰りに寄ったようで、制服を着たまま額に汗を滲ませ、切羽詰まった顔をして立っている。
「すまない、ヴィオラ。君との婚約を解消させてもらえないだろうか」
 そう言ってリシャールは、頭を下げた。
 北の極寒地帯であるログワーツ領を治める伯爵子息の彼は、領民を大切にし、真面目で不器用ながらも優しい男
だった。きっと何か理由があるのだろう。
 まぁ、彼の背中からこちらを窺うように、ひょっこりと顔を出している妹マリエッタの姿を見れば、理由はなんとなく予想が付く。おそらく学園から一緒に帰ってきたのだろう。
「理由を聞かせてもらっても、よろしいかしら?」
「俺は……真実の愛を、見つけてしまったんだ」
「えーっとお相手は……その後ろにいる……」
「君の妹のマリエッタだ」
 正直またか、という感想が一番に思い浮かんでしまうくらいには慣れてしまったこの状況だけど、今回ばかりは感謝したい!
 だってマリエッタが代わりにログワーツ領へ嫁いでくれるなら、私はまだこの温室で大好きな花たちに囲まれて調香を楽しむことができるんだもの!
「お姉様、ごめんなさい! でも私、どうしてもリシャール様を諦められないの。真実の愛に目覚めてしまったの。私はきっと彼に出会うために生まれてきたの。そう思えるくらい、愛してしまったの」
 緑色の大きな瞳を潤ませ、泣きながら許しを請うマリエッタ。
 そんな庇護欲をそそる彼女の細い腰に手を添えて、隣で優しく支えるリシャール。
 二人の姿は、はたからみると仲のいい恋人同士にしか見えないだろう。
 そしてそれを見下ろす私の姿は、マリエッタをいじめて泣かせる悪女のようにでも映ってしまうのかもしれない。
 恨めしい、威圧感のある顔の作り!
 お父様譲りの私の顔は、凛々しいとか精悍とか、悲しいことに昔から女性には向いていない言葉で形容されることが多いのだ。
 安心して、マリエッタ。お姉ちゃんはまったく怒ってないのよ!
 むしろ、こちらがお礼を言いたいくらいだわ!
 でも『婚約を解消してくれてありがとう』なんて言っては、リシャールに失礼よね。
 さすがにここでは言えないわ。
 うちの家系は貴族の中では珍しく、両親も真実の愛で結ばれた方々だ。
 お母様を亡くしたあとも、後妻を迎えることなくお父様はお母様を愛し続けておられる。
 だから『真実の愛に目覚めた』と言えば、お父様は相手が誰であろうと耳を傾けてくれる。
 ただ心配なのは、これが初めてではないということ。妹はとても恋多き女性で、そうやっていつも『真実の愛に目覚めてしまった』と私の婚約者と恋に落ちる。
 残念なことに、その前に二回ほど目覚めた真実の愛はあまり長続きしなかった。
 マリエッタは昔から、少々飽きっぽいところがある。綺麗に着飾ることが大好きだったマリエッタは、私の持つドレスやアクセサリーに靴と、色んなものを欲しがってきた。
『おねえさまみたいに、わたしもきれいになりたい!』
 キラキラした瞳で、可愛い妹にそう言われたら悪い気はしない。
 それに私は成長が早くてすぐに裾が足りなくなった。どうせサイズが小さくなって着れなくなっていくものだし、彼女が望むままそれらをあげてきた。
 大事にしてくれるのならよかったのだけれど、マリエッタは自分のものになった瞬間、興味をなくしてしまうところがある。それは恋も一緒で、今までの婚約者とも、別れる際に色々いざこざがあって、後処理にお父様が手を焼いていたのよね。
 さすがに三度目ともなれば、間違いでしたではもうすまないだろう。
 お父様が修道院の資料を集めているのを私は見てしまった。
 次何か不祥事を起こそうものなら、マリエッタは修道院に送られてしまうかもしれない。
 結婚という牢獄から私を救ってくれる救世主様を、そんな目に遭わせるわけにはいかないわ。
「マリエッタ、ログワーツはとても寒いところなの。こことは違って生活も不便な点が多々あるわ。食事だって……」
「お姉様は私を諦めさせたいから、そのようなことを仰るのですか?」
 あちゃー、意地悪言ってると思われてしまった。
「違うわ、貴女に本当の覚悟があるのか確かめているのよ。何があっても、リシャールと一生を添い遂げる覚悟があるのね?」
「はい、もちろんです! 心からリシャール様をお慕いしています」
 マリエッタが力強く頷くと、薄い桃色をした絹のように滑らかな長髪が肩からさらりとこぼれ落ちる。
 どうやら妹の意思はとても固いようだ。マイナス面も考慮した上で、それでも一緒にいたいっていうのなら、これ以上水を差すのは野暮というもの。
「ヴィオラ、本当にすまない。誠に勝手な願いなのはわかっているが、俺は心からマリエッタを愛している。だからどうか、婚約を解消させてほしい」
 苦渋に顔を歪ませるリシャールの青い瞳の奥には、揺るぎない覚悟が垣間見える。それだけ本気なのだろう。逆に謝られすぎて少し気の毒になってきた。私は万々歳で歓迎なのに。
「わかったわ。愛し合う二人を引き裂くのはかわいそうだもの。私との婚約を解消して、マリエッタと新たに婚約するといいわ」
「ありがとう、お姉様! 私、リシャール様と幸せになるわ!」
「ヴィオラ、今までありがとう。マリエッタは俺が必ず幸せにするから、安心してくれ!」
「ええ、マリエッタ。今度こそ幸せになりなさい。リシャール、妹のこと頼んだわね」
「ああ、任せてくれ!」
 二人を笑顔で見送ったあと、母の大好きだったブルースターの花壇の前に腰を下ろし、花びらをそっと撫でる。
「お母様。マリエッタが幸せになれるように、どうか天国から見守っててくださいね」
 彼に嫁げば絶対に苦労することが目に見えてわかる、北の極寒地帯へ行かねばならない。
 それに加えて閉鎖的で独自の風習があるというログワーツでの生活は、とても過酷だと本で読んで勉強した。水の上級精霊ウンディーネ様の加護があるとはいえ、魔道具で便利な生活を送る王都に比べたら交通や流通も不便。
 他領との交易もしづらい場所での生活は、何かと苦労することが多いだろう。
 領地を立て直すために、ログワーツ伯爵家は格式高い家門との縁談を求めていた。
 しかしどこの家門も、そのような支援目的でマイナス条件の多い縁談を受けるはずがない。
 そこで手を挙げたのが、ヒルシュタイン公爵であるお父様だった。
 お父様はリシャールの誠実で優しい人柄を大変気に入っていた。
 二度も婚約を解消したいわく付きの私にはいい縁談なんて期待できるはずもなく、それならばせめて人柄のいい男性をと紹介してくれたのがリシャールだった。
 もちろん無理強いすることはなく、マイナス面もきちんと話してくださった上で、私がなるべく苦労しないよう、多額の持参金で支援して送り出してくださる予定だった。
 正直、結婚なんてしなくてもいいと思っていた。
 それでもこの婚約を受けたのは、『命の恩人である前ログワーツ伯爵の恩義に少しでも報いたい』というお父様の願いを叶えてあげたかったからだった。
 大した娯楽もない田舎の極寒地帯など、マリエッタは絶対に嫌がるのが目に見えていたし、可愛い妹をそんな過酷な環境に嫁がせたくもなかった。だからこうやって二人が相思相愛になって結ばれてくれたのは、もはや奇跡としか言いようがない。
 ぶっちゃけ花嫁が交代しようが、多額の持参金さえあれば向こうは問題ないだろう。
 そこに『真実の愛』の力が加われば、向かうところ敵なしに違いない!
 ありがとう、マリエッタ。真実の愛に目覚めてくれて!
 お姉ちゃんは、貴女の愛の行方を温かく見守っているからね。

    ❖ ❖ ❖

 数日後、私は郊外にある寂れた神殿を訪れた。
 石垣と木々に囲まれたこのラムール神殿は、閑散としていて来訪者も少ない。
 なるべく目立たないこの場所へ来た理由は一つ――誰の目にも付かないよう、リシャールとの婚約を正式に解消する手続きを行うためだ。
 九月も中旬になれば、少し冷えるわね。コートを羽織ってくればよかったかしら。
 馬車を降りて正門をくぐると、落ち葉の絨毯が完成していた。
 歩く度にザクザクと音がして、道と庭の区別すら付かない。
 奉られている精霊像まで落ち葉が積もっているし、このままではバチが当たりそうね。
 レクナード王国は精霊と共存して栄えてきた国。
 精霊はあらゆる天変地異を制御して世界の均衡を保ち、私たちがこの地に住めるよう環境を整え守ってくれている。このように蔑ろにしていい存在じゃないわけだけど、神官様がご高齢で手入れが行き届いていないのね。
「それならば……フェアラクール」
 植物魔法で積もる落ち葉たちに干渉し、道の左右に整列するよう命じる。
 綺麗になった精霊像と歩きやすくなった道を見て、ほっと一息ついた。
(リーフ、力を貸してくれてありがとう)
 温室で日向ぼっこをしているであろう大切な精霊の友達に、心の中で感謝を伝える。
 突然パチパチと拍手が聞こえて振り返ると、フロックコートに身を包んだリシャールが感心した様子でこちらを眺めていた。
「相変わらず見事な魔法だな。まるで落ち葉の舞を見ているかのようだった」
 まだ精霊と契約したことのないリシャールにとったら、珍しい光景だったのかもしれないけど、来てたんなら先に声をかけなさいよ!
 内心で軽く悪態をつきつつ、私は平静を装って声をかけた。
「貴方はいずれ伯爵から、ウンディーネ様との契約を引き継ぐのでしょう? そうすれば立派な水魔法を使えるようになるじゃない」
 魔法は精霊や精霊獣と契約した者だけが使える特別な力で、誰でも使えるわけじゃない。
 私みたいに波長の合う精霊と運良く巡り会って契約することもあれば、ログワーツ伯爵家のようにその地を治める領主に代々受け継がれる契約もある。
 その形は精霊と人間の関係性によって千差万別なのだ。
「あ、ああ……そう、だな……」
 なんでそんなに歯切れが悪いのかしら?
 まぁいいわ。誰かに見られても面倒だし、さっさとやるべきことを終わらせよう。
「行きましょう」
「ああ。苦労をかけてすまないな」
 目的を果たすべく、リシャールと共に神殿の中へと足を踏み入れた。
 このレクナード王国において、誓約とはとても重たい意味を持つ。神の前で誓った契約を一方的に破ることは許されないし、一度結んだ契約は両者の同意なく解消することもできない。
 まぁ実際のところ怖いのは神ではなく、誓約の時に交わす特別な魔法契約のほうだ。神殿には光属性の精霊と契約を交わした聖職者がいて、全ての誓約は光魔法の下で締結される。
 もし誓約を破ってしまえば、全精霊の加護を失ってしまう。
 それがどれほど怖いことかというと、いつ死んでもおかしくないレベルで危険なのだ。
 精霊に守ってもらえない=どこでいつ災害に巻き込まれてもおかしくない。竜巻、洪水、地震、落雷、火事など、死因は様々。常に自然災害に怯えながら死と隣り合わせの生活なんて嫌だ。
 婚約も誓約にあたるため、解消するには双方の同意の上でやらなければならない。
 いくら面倒でも、正規の手続きを踏んで解消しておく必要があるのだ。
 神官様の前で婚約解消の書類にサインをすませ、魔法契約が無事に解消されたのを見届ける。
 証拠の書類をきちんと受け取り、私とリシャールは晴れて赤の他人となった。
 まぁ、義理姉になる日も近いんだけどね。
「それじゃあ、リシャール。妹のこと頼んだわね」
「ああ、もちろんだ!」
 これからマリエッタと結婚式場の見学に行くようで、リシャールは足早に去っていった。
 一緒に神殿を出るところを誰かに見られても厄介だし、聖堂内を見学しながらゆっくり歩いて出口に向かう。するとなんとも嫌なタイミングで目の前の扉が開き、輝く金色の髪を靡かせた男の姿が目に入る。ラフな装いが板に付いたよく見知った人物との遭遇に、思わず顔がひきつる。
「あれれ、ヴィオ。こんなところで何をしてるんだい?」
 レクナード王国第二王子のアレクシス・レクナード。
 眉目秀麗で優しく温厚な王子様だと、世間からの評判はいい。しかしその実のらりくらりとしたこの自由人のアレクとは昔からの腐れ縁で、言わば悪友のような関係だった。
 だってなぜか、平民のふりして城下でこっそり買い物してる時に限ってよく会うのよね。
 向こうも平民のふりをしてるから、お互い身分を気にせず気楽に接しているうちにそうなった。
 首をかしげながらこちらの様子を窺うアレクは現に今も、とても王子と呼べる風貌ではない。
 なんとも神出鬼没な奴だった。
 彼の紫色の双眼がめざとくも私の持つ書類に向いていることに気付き、慌てて背中に隠す。
 三度目の婚約を解消しただなんて知られたら、色々面倒だわ!
「べ、別に。少しお祈りに来ただけよ」
「へぇー、神なんて信じてない君が? わざわざお祈りに?」
 くっ、痛いところをついてくるわね。
「そんなことより、アレク。貴方こそ、何してるのよ?」
 話題を逸らす作戦決行! しかし……アレクの好奇心旺盛さに勝てるはずもなかった。
「神官に用があってねー。それより、さっき何か隠したよね?」
「いえ、何も!」
「いいや、僕はしっかり見てたよ。白状しなよ」
 私より背の高いアレクは、ひょいっと長い手を伸ばして私が隠した紙をとってしまった。
「ちょっと、アレク! 返しなさい!」
「安心して、見たら返すよー? ふーむ、なになに……あれ、ヴィオ。また婚約解消したの?」
 あーもう! 面倒くさい男にばれてしまった。
 しばらく社交界もお休みして、悠々自適な調香ライフを送ろうとしてたのに!
「そうよ、わかったら返して」
「もしかして、また……例のあれ?」
「ええ、そうよ。今度は本当の真実の愛、らしいわ」
 今までの事情を知っているアレクも、さすがに三回目があることに驚いているようだ。
「僕思うんだけど、本当の真実の愛で結ばれているのはマリエッタ嬢と君なんじゃ……」
「何馬鹿なこと言ってるのよ」
「だってさ、マリエッタ嬢の君への執着やばくない? 普通、姉の婚約者を三回も奪う?」
「真実の愛とは、人を盲目にしてしまうのかしらね……」
 昔はすごく私に懐いてくれていたマリエッタ。どこに行くにも『お姉様と一緒がいいの!』って、そばにべっとりだったわね。
 少しずつ距離ができ始めたのは、私に婚約者ができてからだったかしら。
 マリエッタと遊んであげる時間が減って、寂しい思いをさせてしまったのかもしれない。
 いつの間にか婚約者とマリエッタが仲良くなっていて、それで『真実の愛に目覚めてしまったの、ごめんなさい』と謝られて。
 正直初恋もまだの私にとってみたら、そういう風に一途に誰かを想うことのできるマリエッタが少し羨ましかったわね。
「そっか、またフリーになっちゃったんだね。ヴィオ、かわいそうに……」
 よしよしと小さい子をあやすかのように、アレクは私の頭を撫でた。
 ヒールを履くと大抵の男性は私と同じか少し低くなってしまう。
 だから相手に気を遣って、一緒の時はなるべくヒールが低いものを選んでいた。けれど何も気にせず外出した先で、こうして子どものように頭を撫でられるなんて複雑な気分だわ。
「もともとお父様の願いを叶えてあげたくて引き受けた婚約だったし、マリエッタが幸せになってくれるならいいの」
「そうだったの? じゃあ、伯爵子息のことを好きだったわけじゃ……」
「ないない。私には真実の愛なんて見つからないと思うし、結婚なんて別にしなくてもいいわ」
 真実の愛に目覚めたマリエッタですら、そんなに長続きしなかったんだもの。
 まぁ、相手の男性にも色々問題があったみたいだし、仕方ないわよね。
「案外、近場にあったりするかもよ?」
「そうね。でも残念なことに、私の王子様は皆短命ですぐに枯れてしまうのよ。それでも刹那の時を懸命に生きる彼等の姿に、私は大いなる希望と勇気をもらっているわ」
 今まで生きてきた中で私が心を一番ときめかせた瞬間、それは初めて育てた花が咲いた瞬間だったわね。花の植え方をお母様が教えてくださって、今でも昨日のことのようにあの感動を思い出せる。そして枯れた時に味わった失恋の痛みも!
「本当に君は、植物にしか興味がないんだね」と、アレクが苦笑いをもらす。
「植物は偉大なのよ。煎じて飲めば美味しいし、抽出した精油には様々な恩恵があって香りもいいし、すりつぶせばお薬にだってなるのよ」
「将来の夢は田舎でスローライフだっけ? 中身は老婆だったり……」
「いいじゃない。のどかな場所でのんびり植物でも愛でながら暮らせたら最高ね。世界にはまだ珍しい花もたくさんあるし、新しい精油を作ってコレクションしていきたいわ」
「そうだヴィオ、また僕に香水作ってくれる?」
「ええ、いいわよ。アレク、私の作った香水すごく気に入ってくれてたからね」
「あれは本当に素晴らしかった。それに……君が僕のために作ってくれたものでもあったから、余計に嬉しかったんだよ」
「急にどうしたのよ、褒めても何もでないわよ?」
 調香が趣味の私はよく、花やハーブから抽出した精油をブレンドして、アロマクラフトを楽しんでいる。アレクの誕生日にオリジナルの香水をプレゼントしたら、すごく喜んでくれたんだよね。香りって好みが分かれるから、内心ドキドキしながら渡したの懐かしいな。
「それよりアレク、あんまりサボってるとこわーい兄上にまた怒られるわよ」
 第一王子のウィルフレッド様は、まぁ色々真面目で厳しいお方なのだ。
 自由人のアレクは、そんな兄上にひーひー言いながら公務を手伝っていた。
 アレクとの最初の出会いは、そんな怖いお兄様がきっかけだったのよね。
 八歳の頃――とあるパーティーの途中、人気のない裏庭でうずくまって地面に落書きをしている男の子と出会った。何を描いているのか気になって近付いても、彼は絵に夢中で気付かない。
 前に腰を下ろし『面白い絵ね。これは誰?』と声をかけて、ようやく男の子は顔を上げた。
 男の子は驚いた様子で紫色の目を丸くしたあと、口を尖らせて答えてくれた。
『怒った顔の兄上だよ。悪魔みたいに怖いんだ。夜中に遭遇したら、裸足で逃げちゃうよ』
 何があったのか聞くと、机に向かってばかりの兄に少しは身体を動かしてもらおうと、誕生日にボールをプレゼントしたらしい。すると『遊んでばかりいないで、お前も少しは勉強しろ』と怒られたようで、男の子はぶすっと頬を膨らませていた。
 当時兄や妹との関係に悩んでいた私には、そうして不満を露にするアレクに親近感がわいた。
『あ、ここで見たものは、内緒にしてくれる? じゃないと僕、また兄上に怒られちゃうよ』
『わかったわ。お互い、兄妹には苦労してるのね』
『君も、何か兄妹のことで悩みがあるの?』
『ここだけの話だけど、実はね……』
 私たちはお互いに、王家と公爵家というそれなりの身分の家庭に生まれてしまったものだから、迂闊に愚痴なんて言えやしない。さらに兄と妹がいる彼とは自然と馬が合って、その時は素直に胸の内を語ることができた。
 それからたまたま会った時に、この場だけの秘密の話として、お互いに兄妹の愚痴をこぼして雑談するようになったのよね。
「そうだった。早くこの書簡を神官に届けてこないと!」
 狼狽えるアレクを見て、「相変わらずね、早くいってらっしゃい」と私は笑いながら見送った。 
 ウィルフレッド様が見ていたら、廊下を走るなと怒りそうね。
 慌ただしく遠ざかっていく背中を眺めていたら、なぜか彼はピタッと足を止めた。
「そうだヴィオ。暇な時、第三回慰めパーティーでもしよう?」
 くるっとこちらを振り返って話しかけてくるアレクに、「別に悲しんでないわよ!」と条件反射で言葉を返す。
「それなら、婚約解消祝勝会?」
「まだそっちのほうがいいわね」
「わかった、じゃあそれで!」
 本当になんというか、慌ただしい人ね。でも、アレクのおかげて少し心が軽くなったわ。
 どうせ社交界では、腫れ物を扱うような同情の眼差しが寄せられるだけだろうし。
 私は別に悲しんでない。むしろ、喜んでいるのよって気持ちをわかってくれるのはきっと、アレクだけだろうしね。
「無事に終わりました」
 ラムール神殿から帰宅した私は、お父様の執務室を訪れていた。婚約解消の証明書を手渡すと、お父様は長い睫の奥で蜂蜜色の瞳を揺らし、くしゃりと顔を歪めた。
「ヴィオラ、毎回お前にばかり苦労をかけてすまないな」
「私は大丈夫です、お父様」
 今までお父様は、私に無理強いしたことは一度もない。婚約者候補を紹介する時もきちんと説明をしてくれたし、私が承諾した上で婚約を結んできた。
 もちろん解消する時も、私の意思をまず最初に尊重してくれた。神殿に足を運ぶことくらい、なんでもないのに。
「今はゆっくり休みなさい。お前が望むなら、ずっとここにいてもいいんだぞ」
「はい、ありがとうございます」
 社交界をお休みして悠々自適な調香生活! といきたいところだけど、家督を継ぐのはレイモンドお兄様だと決まっている。このまま結婚もせず私が公爵家に居座り続けたら、将来的にお兄様のご迷惑になるだろう。
 壁に飾られたお母様の肖像画を見て、胸の奥がズキンと痛む。
 私はお兄様に、取り返しのつかない傷を付けてしまったのだから……。
 優しいお父様の言葉に甘え続けるわけにはいかない。今のうちに自立して生活する方法を探す必要があるわね。
「マリエッタも、これで落ち着いてくれるといいんだがな……」
「もう結婚式の準備も進めてますし、きっと大丈夫ですよ」
 マリエッタとリシャールは私より一つ年下で、まだ学生だ。リシャールの卒業と同時に嫁ぐ予定で、その予定はそのままマリエッタに引き継がれた。
 結婚式まであと半年。短い準備期間だけど、本人は楽しそうに準備してるし大丈夫だろう。
「そうだな」と小さくため息を落とされたお父様は、どことなく元気がないように見える。
 それもそうよね。お母様を亡くしてからお父様は、男手一つで私たちを育ててくださった。
 ジークフリード・ヒルシュタイン――王国を守護する火の上級精霊イフリート様と契約した赤髪の英雄。通称【炎帝】と親しまれるお父様は、レクナード王国では子どもでも知っている有名人だ。
 今では王国騎士団の団長職を兼任しながら、ヒルシュタイン公爵領も治めておられる。領地はレイモンドお兄様が領主代理として補佐しているとはいえ、忙しいのは明白だ。
 それに加えてマリエッタが私の婚約者と真実の愛に目覚める度に、先方への謝罪と婚約者交代の説明に書類の準備に手続きまで。精神的にも肉体的にも負担がかかるはずだわ。
「お父様、お疲れですよね? 明日から遠征に向かわれるのに、顔色が……」
「最近、あまり眠れてなくてな」
「よかったらお父様専用に、安眠効果のあるアロマを調合しましょうか?」
「いいのか? ヴィオラの調合してくれるアロマグッズは効果抜群だからな!」
「喜んでもらえるなら何よりです。寝付きの悪さの他に、気になる症状はございますか?」
「そうだな、何かしてないと心が落ち着かなくてそわそわするんだ。それに、夜中に何度か目を覚ますことも多いな」
「わかりました。それらの緩和効果があるものを作ってきますね」
「ありがとう。助かるよ、ヴィオラ」
 大好きな調香でお父様の役に立てるなら、これほど嬉しいことはないわ!
 一旦部屋に戻り、外出着のワンピースを脱いでいつもの軽装に着替え、白衣を羽織る。
 特別な魔法布で作られたこの白衣や黒いタイツは耐久性に優れ、あらゆる外敵からの攻撃を弾いてくれる上に汚れにくい。ショートパンツとブーツを履けば、動きやすくて作業もしやすいから重宝してるのよね。
 お母様譲りの長いオリーブ色の髪を無造作に束ねていると、ノックがして扉が開く。
 こちらを見て血相を変えた侍女のミリアが、「私がやります!」と肩上で切り揃えられた茶髪を揺らしながら駆け寄ってきた。
「ありがとう、ミリア。でも別に凝った髪型にする必要ないわよ?」
「心得ておりますよ、お嬢様。作業仕様に凛々しく仕上げます!」
 軽装に着替えると、なぜかミリアは私を男装の麗人に仕立て上げようとするのよね。
 いかがでしょうかと澄んだ碧色の目を輝かせるミリアは案の定――。
「巷で話題のロマンス小説のヒーロー、オスカル様のように仕上げてみました! お嬢様の美しい金色の瞳と相まって、本当に素敵です!」
 鏡に映る自身の姿を見て思わず苦笑いがもれる。高い位置で一つに結い上げられた髪型は確かにシンプルなんだけど、なぜそこに寄せてくるのよ! 目の色が一緒だから?
 作業はしやすくなったし、まぁいいわ。ここで失言をしようものなら、ミリアは延々と私が納得するまでその素晴らしさを述べ続けるだろう。
 暇ならいくらでも付き合えるけど、今は時間が惜しい。お礼を言って私は部屋をあとにした。
 向かうのは最高級の癒し空間。調香専用の作業部屋が併設された私自慢の温室だ。
「ヴィオ、おかえりー!」
 もふもふの白い尻尾を左右に振りながら、短い前足をぴんと伸ばしてリーフがこちらに飛び付いてくる。頭を擦り寄せてくる可愛いこの白狐は、幼い頃に私と契約を交わしてくれた植物の精霊だ。
「ただいま、リーフ。さっきは力を貸してくれてありがとう」
「えへへ、ヴィオのやくにたてたならうれしい!」
 頭を撫でると、リーフは気持ちよさそうに翡翠色の目を細めた。
 今でこそこうして無邪気に笑ってくれるようになったけど、出会ったばかりの頃は傷だらけのボロボロ状態で庭に倒れていて、色々大変だったのよね。
 精霊は自然のものや、長年大事にされてきたものを核として生まれる。草花や鉱石、篝火や朝露、使い込まれた道具など、核の種類は様々で、それに応じた属性の精霊になる。
 普通なら精霊はその核となった宿り木の記憶を持っているけど、リーフは本来持つはずの記憶を持たず、名前さえも覚えていなかった。額にある木葉の紋様から何かの植物の精霊というのはわかったけれど、実際のところ未だに多くが謎に包まれているのよね。
 何もわからなくて怯えるこの子にリーフと名付けて、絵本を読み少しずつ言葉を教えてあげた。すると覚えたての言葉で、リーフは私と約束してくれた。
「だってぼくたちは、トモダチだもん!」
 たとえ何があってもずっと友達――『メイユールアミィ』だと。それが私たちが交わした大切な契約だ。
「そうね、いつもありがとう」
「ぼくもヴィオといっしょに、おそとにいけたらいいんだけどな……」
 記憶を失う前によほど怖い目に遭ったのか、リーフは未だに屋敷の外に出ることができない。しゅんと悲しそうに三角の耳を伏せてしまったリーフに、私は明るく声をかけた。
「無理しなくていいのよ。それよりリーフ、今からお父様へのプレゼントを作るの。よかったら手伝ってくれない?」
「うん、もちろん! なにをつくるの?」
「最近よく眠れないみたいで、癒し効果のあるアロマキャンドルを作ろうと思ってるの」
 説明をしながら私は奥の作業部屋に移動した。
 抱えていたリーフをそっと作業台の隅に下ろすと、彼は目を丸くして尋ねてくる。
「おとうさま、だいじ? しんぱい?」
 私以外の人間の前に姿を現さないリーフは、遠目にしか家族の姿を見たことがない。
 だから彼が興味を示してくれた時は、少しずつ家族のことを教えてあげている。
「ええ、大事よ。お父様は国を守るために戦う騎士様なの。もし凶悪な魔族と対峙しても皆を守れるように、いつまでも健康でいてほしいのよ」
「ヴィオのだいじなもの、ぼくもだいじにしたい。だからぼくもがんばる!」
「ありがとう、リーフ。とても心強いわ」
 リーフの祝福が得られるなら、効き目の心配はしなくてもよさそうね。
 お父様の寝付きの悪さと眠りの浅さは、不安からくる過度な興奮による心労が原因だと思う。
 ブレンドする精油は、優れた鎮静作用を持つベルガモット、さらにリラックス効果を促すラベンダー、疲労回復効果を期待できるローズウッドを使ってみよう。
「まぜるの、これでしょ?」
 ふわふわと目的の精油が宙を舞って、コトンと作業台に置かれた。
 どうやらリーフが魔法で取ってくれたようだ。
「よくわかったわね」
「ヴィオのさぎょう、いつもみてるから。いやしには、このかおりだよね!」
「なんて頼もしい助手なのかしら! ありがとう」
 可愛いリーフの頭をなでなでして、早速作業に移る。
 まずはビーカーに蜜蝋を入れて、温度を確認しながら丁寧に湯煎して溶かす。粗熱が取れたらリーフが取ってくれた精油をブレンドして、よくかきまぜながら香りを確認。
 最初に香るのは、ベルガモット。爽やかな柑橘系の香りで頭をすっきりさせて、ざわめく心を落ち着かせる。
 次に香るのは、ラベンダー。柔らかな印象を与えるフローラルな香りが、高いリラックス効果をもたらし安眠を促す。
 最後に香るのは、ローズウッド。バラに似た甘さと、ややスパイシーなウッディの甘く優しい香りが、強力な癒し効果で心の疲れを取ってくれるはずだ。
 調整が済んだら、芯をセットしておいたキャンドルホルダーに流し込む。
「よし、あとは冷まして固まるのを待つだけよ」
「うん! どうかヴィオのおもいが、おとうさまにとどきますように」
 リーフの祈りがキラキラと光になって、アロマキャンドルに降り注ぐ。幻想的で美しい光景に思わず目を奪われた。
「ありがとう、リーフ。冷ましている間にもう一つ、別のを作ってもいいかしら?」
「もちろん!」
 その日の夜、私は一週間分のアロマキャンドルをお父様にお渡しした。
 翌日、すっきりとした顔で朝食の席に現れたお父様を見て、思わずほっと胸を撫で下ろす。
「おはよう、ヴィオラ。昨日は久しぶりによく眠れたよ。ありがとう」
「お役に立てたのなら光栄です。お父様、よければこちらも遠征にお持ちください。疲労回復効果のあるアロマミストです」
 安全祈願のお守りと共にお渡しすると、お父様は目頭を押さえたあと、「ありがとう、ヴィオラ。ありがたく使わせてもらうよ」と優しく微笑んで受け取ってくださった。
 携帯用のアロマミストは時間的にキャンドルほど長持ちしないけれど、吹きかければその場で爽やかな香りを楽しめる。リーフの祝福が宿っているからその場で高いリフレッシュ効果を得ることができるはずだ。
 一週間後に遠征から帰ってきたお父様は、私の作ったアイテムをとても気に入ってくれたようで、新種の植物本を数冊、お土産に買ってきてくださった。
「ヴィオラ、よかったらまた……」と、それから追加の依頼を受けるようになった私は、毎回違う香りのアロマミストやアロマキャンドルを作って、お父様にお渡ししている。
 喜んでもらえて嬉しいっていうのはもちろんだけど、新たな香りの探求に没頭できる日々はとても楽しくて幸せ
だった。
 日中は調香、夜は読書に明け暮れて約二週間が経った頃、私はお父様にお土産としてもらった本を全て読み終えた。
「南部には、こんなに面白い植物があったのね!」
 感動の余韻に浸りながらソファから立ち上がり、大事な本を収納しようとギチギチに詰まった本棚とにらめっこする。植物関連の本はもちろん外せない。
 悩みながら背表紙を吟味し視線を移していくと、ある本たちが目に留まる。
「これはもう、私には必要ないわね」
 ログワーツの勉強に使った資料本を全て取り出し、新たな宝物たちを大事に本棚に差し込んだ。
 書庫に戻してきてもいいけど、手に入りづらくて集めるのに結構苦労したのよね。折角だからマリエッタに渡してこよう。
 極寒地帯での生活は過酷だし、事前知識は絶対にあったほうがいい。
 ついでに私が必要な知識をまとめたノートもつけておこう。役に立つといいわね。
 時間を確認すると、時計の針は夜の九時を指している。まだ起きているだろうと、一式を手にした私はマリエッタの部屋へ向かった。
「よかったらこれ、ログワーツの本なんだけど読んでみて。寒い場所での生活は色々大変だと思うから」
「はい、ありがとうございます!」
 素直に受け取ってくれてよかった。ほっと安堵の息をもらしていると、「それよりもお姉様! ちょうどよいところに!」と満面の笑みを浮かべたマリエッタに手首を掴まれ、部屋の中へ引きずりこまれた。
 何事かと視線を部屋に移すと、ベッドやソファにはドレスが広げられ、その上にはアクセサリーが散乱。床にはくしゃくしゃに丸められた紙がいくつも転がっている。
 テーブルの隅に渡した本を置いたマリエッタはソファのドレスを寄せ集め、急いで私のために席を空けてくれた。座るように促されて、ドレスの山が倒れてこないよう慎重に腰を下ろした。
「お姉様はどれがいいと思いますか?」
 ずずっと差し出されたのは、一冊のスケッチブック。
 受け取ってページをめくると、繊細なタッチで描かれたドレスのラフ画が目に入る。まるでプロのデザイナーが描いたかのような素晴らしい出来に、思わずページをめくる手が止まらない。
「まぁ、どれも素敵ね! これ全部、マリエッタが描いたの?」
「はい! ウェディングドレスがなかなか決まらなくて困ってたんです。お姉様、よかったらアドバイスもらえませんか?」
 昔からお絵描きが好きな子ではあったけど、ここまで腕が上がっていたなんて驚きだわ。
 マリエッタが悩んでいる時、大抵答えは出ている。こうして尋ねてくる時は、背中を押してもらいたい時なのよね。確かめるために、私はマリエッタに問いかけた。
「ちなみにリシャールは、どれがいいって言ってたの?」
「リシャール様は、これです」
 なるほど、華美な装飾は少なめ。清楚でシンプルなものを選んだのね。
 確かにマリエッタの可愛さを引き立ててくれそうではある。
 でもマリエッタの顔を見る限り、彼女の中でそのドレスは一番ではなかったのだろう。
「それじゃあマリエッタは、どれがいいと思うの?」
「私はこちらの……」
 恥ずかしそうに彼女が指差したのは、マーメイドラインのセクシーでエレガントな印象を受けるドレスだった。
 これは……着たいものと、似合うものが違う典型例じゃない!
 高身長で豊満な体型の私が可愛いプリンセスドレスが似合わないのと一緒で、小柄で華奢な体型のマリエッタには着こなすのが難しいドレスだわ。
「似合いません……よね。やはりリシャール様が選んでくださったほうが……」
「相手の好みに合わせすぎる必要はないわ。一生に一度の結婚式だもの、私はマリエッタが好きなドレスを着てほしい」
 マリエッタが一度目の婚約者セドリックと破局した腹立たしい理由を思い出して、思わず口にせずにはいられな
かった。
 相手の言いなりになって、好きな洋服も髪型もできない。明るかったマリエッタを自分好みの人形に仕立て上げようとしたあの糞野郎、今思い出してもムカつくわね。
「お姉様……そう、ですよね……でも……」
「どうしてこのドレスがいいって思ったの?」
「優雅で大人っぽいデザインに憧れてて、リシャール様にいつもとは違う私を見てほしいと思ったんです」
「だったらこのドレスのデザインを、一緒に工夫してみない? 例えば……」
 譲れない部分と変えてもいい部分を慎重に聞き出して、マリエッタに似合うようデザインを一緒に考えていく。
 まず絶対に変えるべきは、胸元のデザインだろう。
 デコルテが華奢なマリエッタには、胸元を強調したハートカットは正直悪手だ。
 それでもこのデザインを残しつつカバーするなら、レースのホルターネックあたりに変えてセクシーさを残しつつ、デコルテを自然に隠せればいいわね。
 さらにマーメイドラインを残しつつ、似合うようにするには……。
「ウエストを少し高い位置から切り替えて腰のラインを出しつつ、斜めにフリルを入れて……裾にもっとボリューム持たせるのはどう?」
 パラパラとスケッチブックをめくって、イメージに近いデザインを見せつつ提案してみる。
「確かに、素敵です! 一度描いてみます」
 意気揚々と引き出しから筆記具を取り出したマリエッタは、スケッチブックにラフを描き始める。彼女が握りしめている使い込まれた筆記具を見て、私は驚きを隠せなかった。
「まだ……使ってくれていたのね、そのマジックペン」
「はい! とても気に入ってるんです。お姉様が誕生日にくださった、大切なものですから」
 魔力を補充することで、繰り返し使える魔道具の筆記具、通称マジックペン。
 魔法のインクは思い描いた色に変化するから、お絵描きが好きなマリエッタにちょうどいいと思って贈ったのよね。飽きっぽいマリエッタが、まさか未だに持っていてくれたなんて。
「魔力の補充に持ってこなくなったから、てっきり飽きて使ってないのだと思ってたわ」
「そ、それは……! お姉様の手を煩わせたくなかったので、魔石で補充をしてたんです」
 私のところに持って来づらかったのね。マリエッタが私の婚約者と真実の愛に目覚める度に、確かに少し距離ができていたのは否めない。
「みずくさいじゃない。これからは、遠慮せずに持って来なさい」
 遠慮がちに「よろしいのですか?」と尋ねてくる彼女に、「もちろんよ」と私は笑顔で頷く。
 結局その日は夜遅くまでマリエッタに付き合って、ドレスのデザインを一緒に考えた。
 満足の一着が完成したようで、マリエッタはとても喜んでくれた。
 まるで幼い頃に戻ったかのようにたくさん話せて、とても楽しい夜だった。
「ヴィオ、ぼーっとしてどうしたの? みずたまりできてる」
 翌日、温室で水やりをしているとリーフが心配そうに尋ねてきた。
 どうやら一箇所に水を掛けすぎてしまったらしく、足元は大惨事だった。
「ああ! 根腐れしちゃうわ、どうしようリーフ!」
「ぼくにまかせて」
 リーフが水を被りすぎてしまった花の苗にツンと鼻先を付けると、祝福を受けた花の苗が光りだす。花の苗は地表にたまった水を吸収しながらぐんと成長し、美しい花を咲かせた。
「よかった、ありがとう。実はマリエッタが半年後には嫁いでいっちゃうんだって改めて思うと、唐突に寂しくなっちゃって……」
 しゃがんで土の様子を確認しながら、私はリーフに正直な気持ちを吐露した。
「マリエッタ、だいじ?」
「ええ、大事よ。マリエッタは私の可愛い妹なの。半年後には寒いところへ嫁いでしまうから、気軽に話すことさえできなくなると思うと昔の思い出が走馬灯のように……!」
 我が儘で気分屋なところはあったけど、それは早くにお母様を亡くして寂しかったのも少なからず影響していたと思う。
 私のあとを雛鳥のように付いてくるマリエッタは、とても可愛かったわね。その小さな手を握りしめて、お母様の分までこの可愛い妹が幸せになれるように守ると誓った。
 それは私の意志であり、目を逸らしてはいけない贖罪でもあった。
「ヴィオのきもち、かたちにしてマリエッタにつたえる! おとうさまみたいに、プレゼントは?」
「プレゼント……確かにそれはいい考えね! ありがとう、リーフ」
 気持ちを切り替えて、私はマリエッタへのプレゼントを作ることにした。
 冷えは女性の大敵っていうし、あっちに行っても役立つものを作ってみよう! 
 五か月後、マリエッタが旅立つ時に渡せるといいわね。
 
   ❖ ❖ ❖

 季節が冬へと移り変わったとある日の夕方。
 城下で美味しいと話題のカフェレストラン『ルチェ・アース』の特別席に、私は来ていた。
「ようこそ、第三回婚約解消祝勝会へ!」
 ここはアレクの経営する飲食店の一つで、私たちが秘密裏に会うときの密会場でもある。
 白い礼服に身を包み、珍しくきちんとした装いをしたアレクはどうやら公務帰りのようだ。
「今日はヴィオのために、当店自慢のスペシャルコースを用意してるよ。最後まで楽しんでいってね」
「それは楽しみね。ここの料理はとても美味しいから」
「そうでしょ、そうでしょ! もっと褒めてくれていいんだよ?」
「嫌よ、あんまり褒めると調子に乗るから」
「いいじゃない。ここには僕たちしかいないんだし! ヴィオのけちー」
「そんなこと言ってると、これあげないわよ?」
 アレク専用にブレンドした香水を、テーブルに置いてみせる。
「ごめん、僕が悪かった。君はスメルの女神だ! 略してスメミ!」
 やっぱりあげるのやめようかしら?
 香水を引っ込めようとすると、その手をがっしりと掴まれる。
「いや違う! 気高きフレグランスの調香師ヴィオラ様だった! あーヴィオラ様、どうか私めに貴女様の誉れ高きフレグランスをお与えください」
「しょうがないわね、はいどうぞ」
「ありがたき幸せ! 一生の家宝として飾っておきます!」
 アレクは受け取った香水をなぜか天に向かって掲げ始めた。
「いやいや、使ってよ。蒸発してなくなるわよ?」
「それはもったいない! このアレクシス・レクナード、最後の一滴まで無駄にせず使いきると約束いたします!」
 恭しく胸に手を当てたアレクは、そう言って頭を下げた。
「もう本当におおげさね」
「ヴィオ。君は自分の作るアイテムの素晴らしさをもう少し理解するべきだ。公に君と交流できたなら、僕はこれを社交界で流行らせて一大ムーブメントを起こす自信がある」
 アレクにそう言われると、なんだか本当にできちゃいそうな錯覚に陥るのが怖いわね。
『国をまとめるのは兄上に任せたー』と、早々に王位継承権を放棄することを公言していたアレクは、第二王子として公務をこなす一方で、経営者としての顔も持っている。
『社会勉強だよー』と言って、自分で立ち上げた商会を持っており、今やそれらはあらゆる分野に精通する大商会と呼ばれるほどに成長した。
 周りの人に助けられているだけだからと傲らない姿勢は多くの平民に称賛され、王族と平民を繋ぐ架け橋として絶大な支持を得ている。
 まぁその代わりに、悪徳商売を妨害された一部の新興貴族からの評判はすこぶる悪い。
 けれど社交界ではその悪評さえも逆に利用して、自分が王位を継ぐ器ではないってわざと周知させつつ、王太子である第一王子ウィルフレッド様を立てている策略家だったりする。
 たまに忘れそうになるけど、アレクって本当はすごい人なのよね。そんな人に私の作ったものを認めてもらえただけで嬉しいけれど、少し過大評価しすぎな気もするわ。
「素人がただ趣味の延長線で作ったものよ。アレクったら本当におおげさなんだから!」
「それくらい、人を引き付ける魅力を持ったアイテムだということだよ。ヴィオ、君は知ってるかい? 今、王国騎士団で人気になっているフレグランスの女神のことを」
「フレグランスの女神?」
「あれは確か、新人騎士たちの選抜試合があった時のこと。疲れ果てた新人騎士たちに、団長がどんな疲れも一瞬で吹き飛ぶ魔法のミストを吹き掛けたそうだ」
 団長っていうのはお父様のことよね。
 魔法のミストっていうのは、もしかして私が差し上げたもの、かしら?
「その結果、くたくたに疲れ果てていた新人騎士たちが、嘘みたいに元気になったらしい。楽園へ誘う極上の香りがする魔法のミストを求めて、彼等は団長にそれをどこで入手したのか詰めよった。すると団長はこう答えたらしい。『これはフレグランスの女神が、私のために作ってくれたものだ』と」
 お父様ー! 何誤解を招くようなことをなさっているのですか!
 でもリーフの祝福効果が付いているから、あながち間違いでもないのかもしれない。
 精霊の加護が宿ったアイテムの効果は抜群にいいし。
「フレグランスの女神って、間違いなくヴィオのことだよね? 僕は悔しいよ! 最初に君の香水の素晴らしさに気付いたのは僕だ! だから僕の手で、このアイテムの素晴らしさを世に伝えてあげたかったのにっ!」
「アレク、とりあえず落ち着いて。貴方が私の作った香水を、とても気に入ってくれているのはよくわかったから」
「市販されている香水は、どれも臭すぎて正直使えたものじゃない。社交場なんてひどいものだろう? ドギツイ匂いがひしめき合って、鼻が折れ曲がりそうだよ」
「それは私も思ってたわ。だから自分好みの香りを作ってるし」
「ヴィオが作ってくれた香水を使った時、僕は正直感動で震えたのを今でもよく覚えてるよ。柔らかで繊細で優しい香りが長続きする上に、時間で香りに変化が出るなんて思いもしなかった」
「私の作った香水は精油の揮発性を考慮して、長持ちするようにブレンドしてるからね」
 揮発性は高いほど蒸発しやすい。その性質を利用して、揮発性の高いものから低いものへと香りのタイミングに変化を付けることができる。
 つまり揮発性の異なる複数の精油をブレンドすることで、香りが層のように幅を持ち、時間の経過で香りの変化を楽しめるのだ。
 最初に香るのは揮発性の高いトップノート。付けてから長くて十分ほど香りが持続し、香水を印象付ける香りとなるけど長くは続かない。
 中核を担うのがミドルノート。付けてから長くて二時間ほど香りが持続する。調和して落ち着いた香りとなり、人前に出る時などはこの時がちょうどいいわね。
 最後に香るのがベースノート。付けてから二時間後以降、残り香として余韻を楽しむことができる。全体を調和させてほのかに香る縁の下の力持ちってとこかしら。
 市販されている香水は、ブレンドされておらず一つの香りだけのものが多い。
 しかもあまり薄められておらず、原液に近い。
 そのため香りがすごく濃いけれど、蒸発しやすいからすぐ匂いも飛んでしまう。
 だからお洒落に敏感なご婦人やご令嬢たちは、お化粧直しの度に香水を付け直していた。
「ヴィオ、このままでは皆の鼻はどんどん馬鹿になって正しく機能しなくなってしまう。それに、流行に乗るために無理して香水を付けて気分を悪くしている者もいると聞く。だからこのヴィオが作った香水を社交界で流行らせて、世界を変えよう! 皆の健康のために!」
 どうしよう、とてもじゃないが嫌だって言える雰囲気じゃないわ。
 いつも軽いノリのアレクが、実に真剣そのものだ。でも流行らせるなんて、そんな簡単にできることじゃない。けれどアレクになら、できてしまうのかもしれない。
 次々と画期的な魔道具を開発して人々の生活を便利にしてきたアレクの大商会は、これまでいくつもの流行を作り出している。
「具体的にどうするつもりなの?」
「そうだね、ヴィオ。女性ものの香水をいくつか用意してもらえないかな? できたらそれをまた僕に欲しいんだ」
「それは構わないけど、アレクにもやっと春がきそうなのね!」
「え……」
「だってプレゼントしたい女性がいるってことでしょ? もう隠さなくていいわよ! 最初から素直に言ってくれればよかったのに!」
 皆の健康のため! なんてそんな大義名分なくったって、友人の頼みならいくつだって香水くらい作ってあげるのに。アレクったら案外みずくさいのね。
「ちょっと、ヴィオ……何を勘違いして……」
「安心して。私が腕によりをかけて、女性の心を射止める香水を作ってあげるから!」
「あ、う、うん。それは助かるんだけど……」
「ほら、折角の料理が冷めちゃもったいないわ! 早く食べましょう!」
 アレクが何か言いたそうにしてたけど、私はわざと話題を変えた。
 今までアレクに浮いた話なんてなかったけど、いい相手ができたとなればこうやって一緒に食事を楽しむのも最後になるのかな。
 寂しいけど、それも仕方ないな。気持ちを切り替えて今を楽しもう!
 それにもし本当に香水で新たな流行を作れるのなら、それは自立への第一歩として大きな足掛かりになるだろう。趣味を仕事にできたら最高じゃない!
 美味しい料理に舌鼓を打って、第三回婚約解消祝勝会は幕を閉じた。

    ❖ ❖ ❖

 麗らかな春を迎え、マリエッタとリシャールの結婚式が行われる日がやってきた。ラピス大聖堂では二人の門出を祝福するように、高らかな鐘の音が鳴り響いている。
 結婚式が始まる前、私はマリエッタの控え室に来ていた。純白のウェディングドレスに身を包んで「いかがでしょうか?」とはにかむ彼女は、身内の贔屓目を抜きにしてもとても美しい!
「よく似合ってるわ! とても綺麗よ、マリエッタ。幸せになるのよ」
「はい、ありがとうございます! お姉様が一緒にデザインを考えてくださったおかげです!」
 満面の笑みを浮かべるマリエッタを見て、思わず胸の奥から熱いものが込み上げてくる。この姿、お母様にも見てほしかったわね。
 あふれ出そうになる涙を隠すために視線を窓のほうに移すと、結婚式には相応しくない花が飾られているのに気付いた。
「そちらのアレンジメント、お兄様がお祝いにくださったんです。雰囲気が昔と変わられていて、誰だか最初わかりませんでした」
「そ、そうなのね」
 お兄様が公爵領に行かれて十二年、一度も王都の屋敷にお帰りになったことはない。妹の結婚式だもの、次期公爵としてもちろん出席なさるわよね。
 それにしてもどうしてこんなものを……ガラスケースの中に飾られているのは、黄色いバラのアレンジメント。【薄らぐ愛】という花言葉を持つ黄色いバラは、結婚式の贈り物としては好まれる花ではない。
 花を毛嫌いされているお兄様は、きっとご存じなかったのよね。あらゆる矛盾を飲み込んで、無理やり自分にそう言い聞かせた。今日は晴れ晴れしい祝いの席だ、負の感情は相応しくない。
「お姉様? いかがなさいました?」
「い、いやーとても珍しい品種のバラだと思ってね! ほら見てて、もうすぐ色が変わるから」
 マリエッタにばれないように、私は色素を変換させる植物魔法をかける。
「(レジェ・ルージュ)」
 黄色からオレンジ色へと変化したバラを見て、「わぁ、すごいです!」とマリエッタは嬉しそうに目を輝かせる。
 マリエッタが花に詳しくなくてよかった。なんとか誤魔化せたけれど、胸の奥にチクリと痛みが走る。
 うまく笑顔を保てているだろうか。不安に飲み込まれそうになった時、ノックが鳴った。
「マリエッタ、そろそろ時間だ……っ!」
 迎えに来たリシャールがマリエッタを見て、はっと息を呑んだ。赤面して硬直している彼に、「マリエッタのこと、頼んだわね」と妹を託して私は控室をあとにした。
 助かったわね。ほっと安堵のため息をもらしつつ歩いていると、大聖堂へ続く回廊で不意に声をかけられた。
「家族ごっこは楽しいか?」
 壁に背を預け、眼鏡の奥からこちらを睨む男性を見て、動悸が激しくなる。子どもの頃の面影はあまりないが、後ろで結われたお父様譲りの赤い長髪で彼の正体がすぐにわかった。
「ご無沙汰しております、お兄様」
「貧乏領地に嫁ぎたくなくて妹を売ったんだろう? 相変わらずだな」
「ち、違います。私は……」
 震える喉を叱責して、なんとか声を絞り出す。
 そんな私を見て、お兄様は緑色の目を吊り上げ冷たく言い放った。
「一度壊したものは戻らない。お前がどれだけ取り繕おうと、犯した罪は消えない。ゆめゆめ忘れるなよ」
 冷たい鎖で心臓を激しく締め付けられるような痛みが走る。両足をくいで打ち込まれたかのように自由が利かなくなって、去っていくお兄様の背中をただ見ていることしかできなかった。
「ヴィオラ! しっかりするんだ、ヴィオラ!」
 顔を上げると、眉尻を下げて心配そうに私の顔を覗き込むお父様の姿があった。
 どうやら見られていたらしい。
「レイモンドの言うことは、気にする必要ない。さぁ、行こうか」
 お父様が一度でも私に憎悪を向けていれば、お兄様の気は少しくらい晴れたのかもしれない。
 けれど私には、故意に優しいお父様を傷付けることなんてできない。
「……はい、お父様」
 その時、舌打ちの音が聞こえた気がした。現実なのか幻聴なのかわからないけど、こうしてお父様が私を気にかけてくださることも、お兄様の逆鱗に触れる行為に違いない。
 やはりいつまでも甘えてるわけにはいかないわね。前を向いて、私は大聖堂へと向かった。
「マリエッタ、必ず君を幸せにすると誓おう」
 白いタキシードに身を包んだリシャールが、マリエッタを愛おしそうに見つめ誓いのキスを落とす。幸せそうな二人とは対照的に──。
「ヴィオラ様、かわいそうね……」とお祝いに来た令嬢たちから哀れみの視線を向けられ、正直私は居心地が悪い。まぁ、少しの我慢よ!
 今さら周囲の目を気にしたところで仕方ないし、大切な妹の門出の日だ。
 姉としてきちんとその幸せを見届けたい。
 それに扇子で周囲の強い香りを遮ってはいるけど、全てを防げるわけじゃない。
 遠巻きに見られるくらいでちょうどいいわ。
 無事に式を見届けたあとは、祝いの宴が開かれる。お色直しで主役のマリエッタとリシャールが退場していったあと、私は面倒くさい令嬢に声をかけられた。
「こちらにいらしたのね、ヴィオラ様」
 むわっと香ってくるエレガントな濃い花のエキスを、これでもかと凝縮させた強い匂い。
 この強烈な香りを好まれるご令嬢は一人しかいない。
「あらごきげんよう、イザベラ様。お忙しいところ妹の結婚式にご参列いただき、ありがとうございます」
 さりげなくパタパタと扇子を仰ぎ、強烈な匂いを別の方向へ逃がす。薄めて使えば上品なフリージアの香りはとてもいい香りだと思うのに、本当にもったいないわね。
「ご傷心中の貴女を励まそうと思って来ましたのよ。まーた妹君に婚約者を奪われたんですってね。一時は生涯を共にすると約束した方と妹君の晴れ姿なんて、本当は見たくないでしょう? おかわいそうに……」
 イザベラ・ブリトニア。ブリトニア公爵家の令嬢で、昔から何か事あるごとに私に悪い意味で絡んでこられるお方だ。
「いいえーそんなことありませんわ。妹が幸せになるなら、姉としては嬉しい限りですよ」
「そんな強がらなくてもよろしいのですよ。だって私だったら、もしロズが別の女性と結婚するだなんて言いだしたら耐えられませんことよ。まぁロズに限ってそんなことはないので、心配なんて微塵もしていませんけどね。私とロズは運命の赤い糸で……」
 あー始まってしまった。イザベラの自慢話が。
 婚約者のロズワルト様のことを喋り始めると、もう口が止まらないのよね。
 ペラペラとロズワルト様の魅力を語るイザベラに、口を挟む隙すらない。
 誰か、彼女を止めてくれないだろうか。
 そうだ、ご自慢の婚約者のロズワルト様なら止めてくれるはずだ。
 彼の行方を視線で探すと……別の女性と楽しそうに歓談している姿が目に入った。
 しかもよりにもよって、イザベラのコンプレックスを刺激しそうな明るい髪色の女性に。
 婚約者なら知ってるでしょ? イザベラが自身の暗い紺色の髪に劣等感を持ってることを!
 ちょっとイザベラ、貴女の後ろで自慢の婚約者が、他の女と楽しそうに会話を弾ませているわよ! って、つっこみたいけどつっこめない。
 いっそのこと、この扇子で思いっきり仰いで、匂いを全て飛ばして差し上げようかしら。
 流行に敏感なイザベラのこと、すぐにお化粧直しに香水を付けにいくはずだわ。
 だけどマリエッタの大事な結婚式で騒ぎを起こすわけにはいかない。ここはやはり我慢するしかないわね。
 内心ため息をつきつつ苦行に耐えていたら、イザベラが急にピタリと止まった。なぜか驚いたように、私の斜め後ろを見て固まっている。
「ヴィオ、こんな所にいたんだね」
 振り返ると、そこにいたのは王族としての正装に身を包むアレクだった。
「ブリトニア公爵令嬢、少し彼女を借りてもいいかな?」
「も、もちろんですわ、アレクシス殿下! そ、それでは失礼しますわ、ごきげんよう!」
 脱兎のごとく、イザベラは去っていった。そうだった、彼女は目上の方の前では、借りてきた猫のようになられるんだったわね。グッジョブよ、アレク!
「ごきげんよう、アレクシス殿下。妹の結婚式に参列していただき、ありがとうございます」
「ヴィオ、少し抜け出さない? 話があるんだ」
「ええ、構いませんよ。(ちょっと、アレク! こんな所で堂々と声をかけてくるなんてどうしちゃったのよ)」
 後半は、アレクにだけ聞こえるよう小声で話しかけた。
 私たちの関係は、あくまで秘密の関係だ。
 公の場で、アレクが私に話しかけてくることはないし、私も形式的な王族への挨拶を最初に交わすだけで、それ以後は人目のあるところで話しかけることはない。
「だってもう、忍ばなくてもいいでしょ? 君には今、婚約者もいないんだし」
「それはそうですが……」
「ならいいじゃない。ほら、いこう」
 そう言ってアレクは、楽しそうに私の手を掴んで歩きだした。
 今まで浮いた話のなかった第二王子の前代未聞の行動に、周囲からはざわめきが起こる。
 もしここで手を振り払おうものなら、大きな騒ぎになるだろう。
 結局そのまま大人しく従うしかなくて、好奇の眼差しを向けられながら会場をあとにした。
 人気のない裏庭まで来て、ようやくアレクは足を止める。
「ヴィオ、怒ってる?」
「別に怒ってはないけど、少し驚いたわ」
「ごめんね。でも僕はずっと、この時を待ってたんだ」
 急に真剣な面持ちになったアレク。彼の美しい紫色の双眼が、こちらを真っ直ぐに捉えている。
「いきなりどうしちゃったの?」
「ヴィオ。ずっと前から僕は、君のことが好きだったんだ」
 な、なんですってー!?
 突然の告白に、言葉が出てこない。
 アレクが私のことを好き? そんな馬鹿な、だって私たちは悪友じゃないか。
「アレク、香水を渡したい女性はどうしたのよ!」
「あれは妹にあげたんだ。ヴィオの香水を皆にアピールしてもらおうと思って」
「え、そ、そうだったんだ……」
「君の作ってくれたものだから、品質には自信があった。けれど妹はこだわりが強くて、本当に自分が気に入ったものしか使わないんだ。だからヴィオの香水を確実に使ってくれるかどうかの確証がなくて、あの時はまだ言えなかった」
「それで、どうだったの?」
「とても気に入ったみたいで、毎日使ってるよ」
「シルフィー様に認めてもらえたなんて、夢みたいだわ!」
 レクナード王国の流行の発信源といわれる、第一王女のシルフィー様。
 優れた審美眼の持ち主で、ドレスにしてもアクセサリーにしても、彼女が一度でも着たり身に着けたりしたものはとても人気が出る。
「それでヴィオ、僕と結婚してもらえないかな?」
 香水のことで浮かれてたけど、今はそんな場合ではなかった。
 アレクが私のことをそういう対象として好きだったなんて、微塵も思わなかった。
「あの、アレク。いつから私のことを……」
「もしかしたら一目惚れだったのかもしれない。なんの打算もなく普通に話しかけてくれて、くだらないことで一緒に笑ってくれたヴィオは、僕にとって特別だったんだ」
「それって友達として、でしょ? だったら別に結婚する必要はないじゃない。私は今の関係を壊したくないわ」
 婚約とか結婚とか愛が冷めたら終わる関係より、今みたいに楽しく過ごせる距離感のほうが、ライフスタイルが変わっても一生付き合っていける。
 余計な感情を付与させたら、いともたやすく壊れてしまいそうで怖かった。
「ヴィオ、目を逸らさないで。僕を見て」
 アレクの震える手が私の頬に触れ、視線を合わせられる。
 苦しそうに眉根を寄せ端整な顔を歪ませるアレクから、目を離せなかった。
 どうしてそんな眼差しを、私に向けるのよ。
「王位継承権を正式に放棄できたら、ヴィオにプロポーズしようと色々準備してたんだ。やっとの思いで父上に出された難題任務を終えて王都に帰ってきたら、君はすでに北の伯爵子息と婚約していて、心底悔しかった。これ以上、後悔したくないんだ。他の男と婚約する君の姿を、僕はもう見たくない……!」
 感じたのは確かな温度差だった。アレクが抱く思いと私が彼に抱く思いは、重なっていない。
 それでも私の失言が、彼を傷付けてしまったのだけはよくわかった。
 どうやらそれは、軽々しく否定していい想いじゃなかったらしい。
 頬に添えられた彼の震える手をぎゅっと掴んで、私は口を開いた。
「愛とか恋とか、よくわからない。余計な感情絡めていつか壊れるくらいなら、友達のままがいいって思ったのよ。そうしたら、いつまでも馬鹿なことして一緒に笑っていられるじゃない」
 真実の愛に目覚めたと、幸せそうに笑いあっていたマリエッタと過去の婚約者たちを思い出す。
 それでも彼等の関係は呆気なく壊れて幕を閉じた。そんな風に、私はアレクを失いたくない。
「じゃあヴィオは、僕のことが生理的に受け付けないから断ったわけじゃないんだね?」
「どんな聞き方したらそうなるのよ! なんとも思ってなかったら、普通に了承してるわよ」
「…………え、それってどういう意味? なんかおかしくない?」
「だって今までの婚約者のように互いに興味がない相手なら、私が調香三昧の生活してようが気にもしないでしょ? 最高じゃない!」
「……っ、くっ、あははは!」
 さっきまで泣きそうな顔してたくせに、アレクはいきなり腹を抱えて笑いだした。
「そこで笑うって、なんか失礼じゃなくて?」
「だって今までの婚約者は、ヴィオにとって特別ではなかったってことでしょ? それがわかっただけでも嬉しくて!」
 そんなことで喜ばれても、どうしていいかわからないじゃない。
「ねぇ、ヴィオ。君が昔、とても憧れていた領地があったよね?」
「シエルローゼンのこと?」
 王都の東にある自然豊かで古典的な街並みが魅力の静養地シエルローゼン。
 王家が所有する空中庭園から見下ろす絶景は息を呑むほど美しいらしい。
 空に咲くバラと例えられるこの地は、珍しい植物の群生地としても有名なのだ。
 めちゃくちゃそそられる! しかし空中庭園や珍しい植物の群生地は王家の私有地であるため一般開放はされておらず、特別な行事の時しか入れない。
「僕なら君をそこへ連れていける。なんならずっと住むことだってできる。難題任務をこなした報酬にもらったんだ。シエルローゼン公爵位を」
「王家の避暑地を、報酬にもらったの?」
「ヴィオを手に入れるために僕ができることなんて、これくらいしかないからさ」
 いやいやいや、普通そんなことできないってば!
 王位継承権を放棄する条件として、アレクは陛下にとある難題任務を与えられていた。
 それは三年以内に、貧困街として有名なアムール地方にあるスラム区画を改善させること。
 宝石鉱山の崩落事故を放置したまま、当時の悪徳領主は全財産を持って逃げ出したのは有名な話だ。復興もままならず鉱山はそのまま封鎖され、唯一の収入源を失ったアムール地方はスラムと化していた。
 そんな大変な領地を三年で改善するなんて、普通できることじゃない。王立アカデミーに籍だけ置いてその三年間、アレクはアムール地方で領主として復興に勤しみ、見事に任務を終えた。
 そんな大変な任務を成し遂げた報酬に、私が憧れていた土地をもらったなんて……ありえないでしょ!
「アレク、貴方はもっと自分のためにその報酬を使うべきだったわ!」
「だって無理やり手に入れるのは嫌だったんだ。ヴィオだって王命で僕との婚約を命じられても、嫌でしょ? この国の誓約って、重たいしさ」
 曲がりなりにも第二王子! 王命で交わした誓約なんて、死ぬまで一生逃げられないやつじゃないの。恐ろしい権力を振りかざされなくてよかったわ。
 まぁ、だからこうやって私の気持ちを尊重してくれているのよね。
「どうして、そこまでするのよ……」
「初めて婚約を解消したと教えてくれた時、気丈に振る舞うヴィオの肩が小刻みに震えていたんだ。抱き締めてその震えを止めてあげたいと思っても、当時の僕にはそんな資格も守り抜ける力もなくて、とても悔しかったのをよく覚えている。その時から僕は、君を守れる存在になりたいと思っていたんだ」
 アレクも昔、色々苦労してたわね。彼を王位に就けようと画策する新興貴族の集まり、通称貴族派に狙われたり、空白だった婚約者の座を狙って令嬢たちの激しいバトルがあったりと。
 もともと商会を立ち上げたのも、貴族派の資金源である悪徳商売を真っ向から潰すのが目的だったみたいだし。
 生活に欠かせない物資を違法に占有して高値で売り付ける彼等の傍らで、適正価格で広く行き渡るように販売するアレクの商会は平民から絶大な信頼と支持を得た。
 そうして貴族派の資金源を削いで社交界での影響力を落としていったのよね。
 片膝をついて忠誠を誓う騎士のように、アレクは私の手を優しくとった。
「だからヴィオ……君の隣に堂々といられる権利を、僕にくれないか? 調香を楽しめるように、全力でサポートするよ。資金は十分に貯めてきたし、スローライフもし放題さ! ラオの背に乗れば、空中庭園だって自由にいける。君が望むもの全て、頑張って揃えるから……!」
 ラオの背に乗ってって、精霊獣の私用は禁止されているのに、破る気満々じゃない。
 バレたらお父様にこってり絞られるわよ? いいの?
 紫色の瞳を潤ませながらこちらを見上げるアレクは、まるでご主人様のためならなんでもする忠犬のように見えた。
「気持ちはわかった。だからとりあえず立ってちょうだい!」
 傍目に見たら王子を跪かせるとんでもない悪女に見えそうだから、いた堪れない。
 私はアレクの手を両手で掴み、ぐっと引っ張ってその場に立たせた。
 顔の作りがマリエッタみたいに可愛かったらそうは見えないんだろうけども……私はお父様似だからどうしても、よく言えばクール、悪く言えば冷たい印象を与えてしまうのよ。
「隣にいたいならいればいいじゃない。婚約者って肩書きが欲しいならあげるわ。どうせ誰も欲しがらない不名誉な肩書きだし」
「いいの? 僕にとっては最高の名誉だよ!」
「ただし一つ条件があるの。まずは友達から、始めましょう? 心の準備をさせて。いきなり、その、関係性を大きく変えるのは……」
「もちろんだよ! ありがとう、ヴィオ」
 アレクは胸の内ポケットから小さな宝石箱を取り出すと、中から取り出した指輪を私の左手の薬指に嵌めた。うっとりとアメジストの嵌め込まれた指輪を眺めながら、彼は紫色の瞳を優しく細めてこう言った。
「あぁ、本当に夢みたいだ。ヴィオの指に僕の色が……」
 指輪と紅潮したアレクの顔を交互に見て、私は思った。
 独占欲、めちゃくちゃ強そう……アレク、性格変わった?