01TEXT

八彩国の後宮物語~退屈仙皇帝と本好き姫~ 2
Title

八彩国の後宮物語~退屈仙皇帝と本好き姫~ 2

著者:富士とまと イラスト:森野きこり

プロローグ

『マオへ
 動物の本を読んだの。呂国にいる山羊は黒いんだけど、他の国には白い山羊がいるんだって!
 それで、なんとその白い山羊は紙を食べるらしいの! 紙だよ、紙! 
 びっくりだよね。紙って食べられるんだって初めて知ったの。美味しいのかなぁ。どんな味なのかなぁ。気になるよね。』
 マオのくすくすという笑い声に、レンジュが反応した。
「おい、何読んでるんだ?」
 レンジュが手元の本に手を伸ばすと、見られないようにと慌ててマオが本を閉じた。
「ん? なんか、歯形が付いてなかったか? なんで本に歯形なんてついてるんだ?」
 マオが耐えきれずに、声をあげて笑った。
「あははは、やっぱり歯形だよね。どう見ても歯形! 兄さんにも歯形に見えたんだから勘違いでもなんでもなく……あははは。やっぱり、面白いよね。大好き。面白くて、大好きだ」
 レンジュが眉をひそめる。
「なんだよ、そんなに面白い本なのか? 見せてくれ」
 レンジュがさらに本に手を伸ばすと、マオは服の中に鈴華との交換日記を隠した。
「ねぇ兄さん、兄さんは仙皇帝宮から逃げ出したけど、僕は逃げないよ」
 マオがにこりと笑うと、レンジュが困った顔をする。
「……逃げた……と言われればその通りだ。俺には退屈な日々がずっとこの先も続くのが耐えられなかった。マオ、お前も無理することはないんだ。また俺が交代してやる。もしくは跡継ぎを作ってやる」
 レンジュから飛び出した言葉にマオは目を丸くした。
「跡継ぎ? さんざん結婚から逃げてた兄さんが、跡継ぎを作るって……!」
 レンジュがにやりと笑った。
「結婚さえしちまえば、仙皇帝宮に連れてこられるからな。百年でも二百年でも時間をかけて口説き落とすさ。あいつ、どうせ俺の顔見るより本を読みたいって言うだろうからな」
 レンジュの言葉に、マオが焦った声を出す。
「ほ、本って、まさか鈴華? 冗談じゃない。鈴華は後宮の仙皇帝妃候補じゃないですかっ! 鈴華を口説く権利は、仙皇帝じゃない兄さんにはないでしょうっ!」
「仙皇帝が妃を迎えれば問題ないだろ。あー、今いるのは朱国スカーレットと、金国のエカテリーナと藤国の犀衣
だったか。ああ、代替わりした銀国の姫がもうすぐ来るんだっけ? 珊国と蒼国と碧国は相変わらず不在だが、仙皇帝が後宮に顔を出せばすぐにでもやってくるだろ?」
 マオが嫌な顔を見せる。
「鈴華の気持ちはどうなるんですか」
「あー、鈴華の気持ち? 鈴華は、スカーレットやエカテリーナに仙皇帝妃になってもらいたいみたいだぞ? で、自分を侍女として連れてってくれって言ってる。鈴華の気持ちを尊重するなら、どっちかと結婚したらどうだ?」
 レンジュの言葉に、マオがさらに嫌な顔になった。
「僕は……」
 マオが服の上から鈴華との交換日記を押さえた。
「兄さん、僕は兄さんが知らない鈴華のこと知ってるから」
 マオはそのまま部屋を出ていった。
「……んー、こんな遅くまで執務室にいるから仕事をしてるのかと思ったら……読書だったか。最近よく本を読むよなぁ」
 マオの机の上に残された本を手に取る。
「この本……確か鈴華が持ってきてほしいって言ってたやつだな。明日持って行ってやるか」
「苗子~! どうしようどうしようどうしようっ!」
「どうなさったのですか?」
 頭をぶんぶんと振りながら苗子に必死の形相で訴えると、苗子が落ち着いた声で返事をする。
「お茶会に持っていくお菓子が思い浮かばないのよぉ」
 涙目になりながら訴えてるのに、苗子はすんっと表情を消した。
「確か、昨日、本を読んで何がいいか考えたいから行儀作法の時間を読書の時間に変えてくれと頼まれた記憶ですけど……」
 あ、はい。そうです。
 歩き方とか座り方とか苗子に指導してもらう時間を、お茶会に持っていくお菓子を決めるのに本を読んで調べたいと言って図書室に行かせてもらいました。
「読んだのよ? お菓子の本を……ね。ほ、本当よ?」
 苗子が私を疑いの目で見ている。
 ううう、綺麗な顔してるのに、ちょっと胸はないけど、綺麗な顔してるんだから、もう少し笑顔を見せればすごくもてると思うの。笑顔、笑顔が大事よ、苗子! 
 さらりと、前に垂れてきた髪を、苗子が指で払った。
 あ、意外と苗子の手ってごつごつしてる。もしかしたら下働きから成りあがったのかしら? 
 気になって思わず手を伸ばして苗子の手を取る。
「リ、鈴華様?」
 苗子が慌てた。
「苗子って、大きな手をしてるのね?」
 自分の手と合わせて比べると、指の関節が一つ分くらい長い。
 苗子がさっと私の手から逃れるように手を引っ込めると体の後ろに隠してしまった。
「あ、あの、鈴華様……その……」
 うっすらと頬を染め、動揺を見せる苗子。
 あ、やっちゃった。これ、コンプレックスだ。胸が小さいのを気にしてるのと同じように、手が大きいのも気にしてるんだ。男の人みたいと気にしてるのかも。
「私、苗子の手、好きだわ!」
「え? ええ?」
 苗子が真っ赤になった。
「私の乳母の手に似てる。ああ、ごめんなさい、乳母に似てるなんて言われたらいやよね?」
 くっ。また失言! おばさんみたいな手って言ったようなもんじゃないのっ! 
「わ、私の手はほら、こんなんよ? 色は白いけど、なんだかスラっとしてなくてぷにっとしてるし、それにペンだこが目立つでしょう?」
 あははと笑って見せると、苗子は隠していた手を出して私の手を取った。
 両手で私の右手を、優しく取る。
「私は、鈴華様の手、好きですよ」
 苗子が、綺麗な顔でにこりと笑った。うわっ。めちゃくちゃ綺麗っ。
 ぼぼぼっと、顔が赤くなる。
 手が好きとか、初めて言われたけど……。これ、言われたほうは恥ずかしすぎるよっ! 
 苗子は私のドキドキする気持ちを知らず、飛び切りの笑顔のまま言葉を続けた。
「それで、鈴華様はどのようなお菓子の本をご覧になったのですか? よろしければタイトルを教えていただけませんか?」
 手を持たれているので、逃げ出すこともできない。
「お、お菓子……『お菓子の国のアリアッテ』……」
 苗子が口角をあげた。それはもう、不自然なほどに。もう笑顔だけど笑顔じゃないっ!
 怖いよぉ。ドキドキの意味合いも違ってくる。
「私の記憶によれば『お菓子の国のアリアッテ』は小説だったと思いますが……?」
 そうなんだよ。お菓子ってタイトルにあったから、お菓子に関する本なんだと思って手に取って読み始めたら、小説だったの。それも、出だしのつかみが秀逸で。ついつい引き込まれ……。
「続編のタイトルは確か『天空の国のアリアッテ』でしたっけ?」
「え? 続編があるの? 早速仙皇帝宮の地下図書館からレンジュに取ってきてもらわないと。レンジュ、レン
ジュー、レンジュはどこ~」
 天井に向かって声をかけてみる。
「鈴華様」
 苗子の地を這うような低い声に、ガタリと天井で物音がした。
 くっ、あれは、いるけど苗子が怖くて出てこないつもりねっ! 裏切り者! レンジュの裏切り
者ぉぉぉぉぉぉっ! 
「お茶会に持っていくお菓子はもうよろしいのですか?」
 あ、そうだった。今は本よりお菓子だ。
「どうしよう、苗子ぃ! せっかくスカーレット様とエカテリーナ様と三人でお茶会するのに……変なお菓子持っていって嫌われたらどうしよう。せっかくお友達になれたのに……」
 思えば私、呂国では社交とは遠ざかっていたからお茶会も経験不足なんだよね。
「お二方とも、その程度のことで鈴華様をお嫌いになるようなことはないと思います」
「そ、そうよね! 二人ともとてもいい人だもの! お菓子が気に入らないわ! なんて悪役令嬢のようにたったそれだけのことで友達を辞めるようなことしないわよね!」
 そうよ! スカーレット様はもう「何の嫌がらせのつもり?」なんて言わないと思うし。
 エカテリーナ様だって鳥の丸焼き文化がある国なんだもの。国によっていろいろな食文化があることは知ってるよね? ふふ、鳥の食べ比べは楽しかったなぁ。
「……鈴華様の奇行に慣れておいでのお二人が今更どのようなお菓子を持っていったとしても嫌うわけがないですわ……」
 思い出に浸っている私の後ろで苗子が何かをぼそりとつぶやいた。
「何か言った?」
「あ、いえ、今回のお茶会は、金の宮に招かれるということでしたので、金国の色……栗を使ったお菓子をご用意されてはいかがでしょうか?」
 苗子の言葉にうるっとなる。
「ありがとう! 苗子! ちゃんと考えてくれて! 大好きぃ!」
 思わず苗子に飛びつきぎゅっと抱きしめる。
「鈴華様ぁっ!」
 苗子が焦った声を出している。と、思ったら、天井からストンとレンジュが下りてきて、私の首根っこをつかんでべりっと苗子から引き離した。
「抱き着くなら、俺にしておけ」
 ほれと、レンジュが両腕を広げてにこりと笑った。
「レ、レンジュに抱き着くわけないでしょうっ! この裏切り者!」
 ふるふると指を突き出す。
「は? 裏切り者?」
 そうよっ! 名前を呼んだとき、いたのに来てくれなかったじゃないのよっ! 苗子から守ってくれなかったくせに! 
「裏切りっていうのはこういうことだよ」
 レンジュは広げていた両手を前に出して私をぎゅっと抱きしめた。
 は? えーっと、どういうこと? 
 レンジュの大きくてたくましい腕に抱きしめられ、混乱する頭を必死で働かせる。
 私を抱きしめることの何が裏切り行為なの?
 いや、何がじゃない。誰に対して裏切っているの?
 私を抱きしめるのが私に対する裏切り? それは違うよね。抱きしめてはだめなんて約束なんてしてない。
 じゃあ、レンジュ自身? 自分で自分を裏切るなんて言わないよね?
 ……あと、この部屋にいるのは、苗子だ。
 私を抱きしめることが苗子に対して裏切り行為ってことは……!
「あー、やっぱり、レンジュと苗子って結婚するの? ねぇ、結婚するの?」
 私のあげた声に驚いてレンジュが慌てて体を離した。
「はぁ? なんで俺が苗子と結婚することになってんだ?」
「え? 違うの? 隠さなくてもいいんだけど!」
 レンジュに詰め寄る。
「隠してない、ってか、ありえないから、物理的に無理だろ」
 首をかしげる。苗子を見る。
 物理的?
 苗子がすっと視線を落とした。
「あー! レンジュ、宦官だってこと気にしてるの? 生えるんでしょ? なら問題ないよね?」
「生えねぇよっ! 生えたら困るじゃねぇか! 宦官だから後宮にいても問題ないのに、生えたら困るだろうっ!」
 ……あ。
「そっか、生えないんだ……」
「何、心底残念そうな顔してんだ! まさか……お前、苗子を……」
 はっ! そうだ。私が残念がってる場合じゃない。
「苗子、大丈夫よ! 生えなくたって結婚したっていいと思うの! 世継ぎの問題がなければ、あ、あと戸籍? 法律? 的に許されてるなら、結婚してもいいと思うっ。問題ないよ!」
 苗子の顔が真っ赤になった。
「あー、だめだ、だめだ、苗子、お前、だめだからなっ!」
「ちょっとレンジュ、苗子のこと遊びだったの?」
「いや待て、なんで俺が苗子と遊んだことになってんだよ!」
 あれ?
「遊びじゃなく本気なら、結婚したらいいんじゃない?」
 首をかしげると、レンジュが私の顎に手を当てて上を向ける。
 視線の先にレンジュの顔があった。
「なぁ、この距離なら俺の顔、見えるか?」
 レンジュの顔が私の頭一つ分ほどの距離まで近づいた。
 レンジュの瞳に私の姿が映っているのが見えるくらいの近さ。なんて綺麗な目をしているんだろう。
「俺が好きなのは、苗子じゃない。俺は、鈴華、お前が」
「レンジュッそこまでです」
 苗子が私の腕を引いてレンジュから距離を取らせた。
「今の仙皇帝は誰だかお忘れですか?」
 苗子の表情は見えないけれど声にいら立ちを感じる。
「すまん。『天空の国のアリアッテ』取ってくる」
 レンジュが苗子に小さく謝ってから私の顔を見た。
「レンジュ大好きっ!」
 感激のあまり抱き着こうとしたら、レンジュに首根っこをつかまれて遠ざけられた。
 何よぅ。そりゃ私のような本の妖怪に抱き着かれたら迷惑かもしれないけど、そんな首根っこをつかんでぽいってすることはないと思うの。
 レンジュがしゅたっと飛び上がっていつものように天井裏へと姿を消してから、調理場へお菓子の指示を出しに行く。
「栗はあるかしら?」
 栗の季節からは少しずれている。
「ありますよ。甘く煮て瓶詰にした栗が」
「ちょうどいいわ! お菓子を作ってほしいので。えーっと、栗を使ったお菓子と言えば……」
 ふと、マオの顔が思い浮かんだ。
 この栗はマオの金色の瞳みたい。
 あ、だとしたら……。夜空みたいなお菓子がいいかも。
 って、間に合う? 今からで間に合う? 
「大丈夫ですよ。大豆と違いますから。大豆は一晩水につけておかないといけませんけど」
 そうなんだ。知らなかった。本をたくさん読んでるくせに、知らないことがいっぱいある。
「私、本を読んでても身近な食べ物のことすら知らないのね……勉強になったわ」
 本を読むだけでは知ることができなかったことを、目の前にいる人から教えて貰える。
 ……私、どうして呂国にいるときにはお茶会にも行かずにずっと引きこもって本を読んで過ごしていたのだろう。人と接することで、本を読んでも知らなかったことを知ることができるのに。
 これから……、もっと人と話をしてみようか。呂国に帰ったら……。いや、帰らないよっ! 
「私は仙皇帝宮に行くんだから!」
 その地下にあるという世界中の本が入っている巨大図書館へ行って本を読むんだから! 
「鈴華様、仙皇帝宮へ行くというのは……、もしかして本気でございますか?」
 料理長がびっくりした顔をする。
 あれ? 知らなかった? ……そうか、苗子には宣言してあるけど、他の使用人に誰彼かまわず言っているわけじゃなかったかも。
 仙皇帝妃に選ばれた人に侍女として連れてってもらうんだというのが私の目標ってこと。
 ……万能侍女になるためには料理も少しはできたほうがいいのかな? 
 うーん……? と、首をかしげると、料理長が尋ねづらそうに口を開いた。
「もしかして、豹龍様へ贈り物として鈴華様考案のお菓子を贈るおつもりでしょうか?」
 へ? 豹龍って誰? 
「お任せください。鈴華様が仙皇帝妃になれますよう、全力で協力させていただきます」
「兄が仙皇帝宮で料理人をしておりますので、手紙を出してみます」
「鈴華様、豹龍様へお菓子を送られるならば、いつでも仰ってください」
 あ! 豹龍って、仙皇帝様の名前か! いやいや、待て待て。
「私、仙皇帝妃になりたいなんて言ってないわよね?」
 にこにこ顔の料理長が訳知り顔で頷いた。
「もちろん、わかっておりますよ。自信が持てないので、公言なさるつもりはないのですね?」
 はい? 何の自信? っていうか、なりたくないんであって公言しないわけじゃないよっ!
「鈴華様、終わりましたら、昨日の分も含めてしっかり練習いたしましょうか?」
 苗子が現れた。ひぃっ、た、助けて。苗子のマナー教室という、鬼の特訓時間が!
「わ、私、その……」
 料理長とお菓子の相談を……。た、助けて料理長……と、すがるような視線を向けたのに。
 料理長はまた訳知り顔で頷く。
「苗子さんに任せていれば、自信が持てるようになりますよ。大丈夫です」
 と笑って送り出された。だからぁ、自信ってなに? 料理長、助けてくれないの?
「さぁ、鈴華様。今日は歩く練習、座る練習の他に、図書室で本を取るしぐさや本を読むしぐさの勉強をいたしま
しょうか。美しい立ち振る舞いはどのような行動をとるときにも必要です」
「え? いいの? 図書室に行っていいの?」
 苗子、優しい! 
 と、思っていたときもありました……。
 目の前に本があるのに! 本を取ったり開いたりするだけで、一行も読めない! 
「鈴華様、また背中が曲がって本に顔が近づいていらっしゃいます!」
 だって、視力が悪いんだから、読めないんだもん。
「鈴華様、目を細めて怖い顔になっております!」
 だって、目を細めないと見えないんだもん。
「鈴華様、文字を指で追わない!」
「鈴華様、パラパラとめくらない!」
「鈴華様、立ったまま本を読まない!」
「鈴華様、何冊も本を積み上げない!」
 ぎゃーっ! 苗子は鬼だぁぁぁぁ! 
 三時間にも及ぶ特訓が終わり、昼食までの短い時間に、クスノキまで向かう。
 椅子を置いて、その上に立ちちょっと背伸びをして枝の上に手を伸ばす。
「あった、あった」
 手に触れた本を手に取ると部屋に持って帰る時間も待ち遠しくページを開く。
 マオと私の交換日記。週に一回くらい往復すればいいかな? と思っていたら、毎日のようにマオは返事をしてくれる。
『鈴華へ
 呂国にいる山羊は黒いんだね。知らなかったよ。
 そういえば、どこかの国の歌に、黒山羊と白山羊が出てくるものがあったような気がする。
 その歌を作った人は、どちらの山羊も見たことがあったんだろうか? 
 鈴華のおかげで、新しく音楽を楽しめそうだ。いろいろ考えながら歌を聴くと新しい発見があるかもしれないね。』
「うわー、マオすごい!」
 音楽なんて興味がなかったけど、歌には歌詞があり、歌詞は文字にすることができる。文字にすれば本になる。新しい発見だ。歌詞がない音楽も楽譜がある。楽譜は本になる。
「……音楽を聴きたいかも……」
 きっと、楽譜を見ながら音楽を聴けば新しい発見があるんだろう。いや、楽譜の読み方を教えてもらうところからかな? 音楽にも物語があると何かの本で読んだことがある。
 小説を元に歌劇を作ることがあるとは知ってたけど。元になる小説がなくても音楽には物語があるのかも? 気になる。
 交換日記を閉じて、胸に抱え込み、マオの顔を思い浮かべる。
 今まで音楽を楽しんだことがなかったのに、今は音楽を聴きたいと思っているなんて、マオのおかげだ。マオと知り合って、マオと交換日記ができて。この感謝の気持ちをマオに伝えたい。
 会いたいな、マオに。この感動を直接伝えたい。
 はっと、気が付いて笑いが漏れる。
 人に会いたいって思うことが不思議だ。
 呂国にいたころは、人に会うよりも部屋にこもって本を読んでいたいと思っていたのに。
 今、こうして無性にマオに会いたいし、午後からのお茶会でスカーレット様とエカテリーナ様に会うのがとても楽しみで……。
 ふと、視線をあげて後宮の中央にそびえたつ仙皇帝宮を見上げる。
「あそこでも、会いたいと思う人と出会えるのだろうか……」
 地下図書館に行きたいと思っていたけれど。
 年を取らないあの場所には、どんな人たちがいるんだろう。
「仙皇帝……豹龍様はどんな人なんだろう……」
 相変わらず、わかっているのは性別と仙皇帝の位についてから三十年間後宮には顔を見せてないということ。
 仙皇帝宮は時が止まる場所。
 三十年間時が止まる場所で過ごしていれば、十五歳で仙皇帝となれば姿は十五歳のままだし、五十歳で位につけば五十歳のままだ。
「いくつくらいなんだろうなぁ。何色の髪で、何色の目をして、何を考えているんだろう……」
 仙皇帝に関して詳細に書かれた本は見たことないんだよね。だから仙皇帝に関しては謎ばかり。
「耳がロバみたいだったりして?」
「誰の耳がロバなの?」
 声が上から降ってきた。見上げれば、いつの間にか木の枝にマオが腰かけている。
「マオっ!」
 椅子の上に乗ると、木の葉で隠れていたマオの顔が見える。
 マオが手を伸ばすので、交換日記がほしいのかと両手で日記を差し出す。
 マオは、私が伸ばした手をつかんで、そのまま私を引き上げた。
「うわっ」
 すごい力。男の人は力が強いっていうけど、本当なんだ。
「会いたかった」
 一人で寝そべればくつろげる太い木の枝とはいえ、二人でいるには狭い。
 マオは、木の幹を背に座り直し、私をその前に座らせた。
 向かい合って顔を見ながら話ができたらいいんだろうけれど、それだけのスペースはない。
 まるで、馬に二人でまたがっているような格好で座っている。
「鈴華……」
 名前を呼ばれたので、上半身をひねって後ろを見る。
「あ……」
 マオの顔が目の前にあった。息のかかるほど近くに。
「ち、ち、近すぎるよね、ごめん」
 マオの謝罪に首をかしげる。
「え? これくらい近いとはっきり顔が見えていいなぁと思ったんだけど、なんで謝るの?」
 なぜかマオが顔を赤くする。
「マオ、目の下にクマがあるわ……」
 手を伸ばしてマオの目の下に触れた。
 マオが焦ったように小さくうっと声を漏らす。様子が変。
「あ、まさか、この疲れた顔を見られたくなくて、近いって言ったの? そうなんでしょ?」
 マオが顔をそらそうとしたので、両手でマオの顔を挟んでこちらを向かせる。
「無理してるんじゃない? ちゃんと休んでる? 休めないの?」
 マオの顔がさらに赤くなった。
「もしかして、仙皇帝様が休ませてくれないの?」
「え?」
「ひどいわ! 仙皇帝っ! いくら仙皇帝宮にいれば死なないからって、疲れないわけじゃないのにっ! 仙皇帝様ってそんな人だったのね。軽蔑する」
 マオが首を横に振る。
「いや、あの、鈴華、僕は……いや、あの、仙皇帝様は決してそんなひどい人ではなくて……」
「何言ってるの、こんなにマオは疲れた顔をしてるのよ? 寝不足なんじゃない? それとも、周りで働く人にこき使われてるの? 心配だわ……。マオに何かあったら……」
 マオがふっと嬉しそうに目を細める。
 うわー、なんて綺麗な笑顔なんだろう。あまりの美しさに思わずどきどきと心臓が高鳴る。
「僕の心配をしてくれてありがとう。でも、本当に大丈夫だから」
「本当? でも、何かあったら言ってね。仙皇帝様に、抗議の手紙を出すから。どうせ呂国の姫は仙皇帝妃に選ばれることなんてないんだもの。嫌われたってかまわないわ。任せて!」
 マオの顔から手を離して、胸をどんと叩くと、ぐらりと揺れた。
 むおっ! 落ちるっ! 
 バランスを崩して枝から落下しそうになった私を、マオが両腕で支えてくれた。
 私の後ろから、マオが両腕をまわして体を包むように支えてくれる。
「あは、ありがとう、マオ」
 マオが、私の肩に顔を乗せた。マオの髪が私のほほをかすめてくすぐったい。
 視界の端にマオの黒髪が映る。呂国の色、黒。
「好きだなぁ……」
 ぼそりとつぶやきが漏れ、マオがびくりと体を揺らす。
「私、マオの髪の色、大好き」
 そっと手を伸ばしてマオの頭を撫でる。
「うん……」
「それから、マオと交換日記を読むのがとても楽しみで、マオの話も大好き」
 懐に入れた交換日記をポンと叩く。
「僕は……全部だ。鈴華の全部が好きだ」
 マオの手に力が入った。
「わ、私の全部? 本の妖怪って言われるくらい本ばかり読んでる私でも?」
「食べられるのかなと紙をかじってみる鈴華も好きだよ」 
「な、なんで知ってるの? 試しにかじってみたなんて書かなかったのにっ!」
「歯形がついてた」
 顔が赤くなる。ぎゃー! 私の馬鹿。かじるなら別の紙にすればよかった!
「恥ずかしがることないよ。そんな鈴華も好きだから」
 と、マオが慰めの言葉をくれる。
「ありがとうマオ。でも、恥ずかしいものは恥ずかしいの! だから、みんなに内緒にしてね! 苗子もレンジュもスカーレット様もエカテリーナ様も、私が紙をかじったことを知ってもマオのように嫌いになったりしないって言うと思うけど……。
「え? 僕のように……?」
「うん。友達ってそういうものだよね? 多少変なことしても許してくれるっていうか……」
「と、友達……?」
「あー、苗子は立場的には友達とは違うけど、私にとっては、その、友達みたいというか……」
 マオがはぁーと大きなため息をついた。
「……そっか、友達、うん。……まだ早かったんだ」
「早い? 何が?」
「いや、なんでもないよ。で、兄さんのことはどう思ってるのかな?」
 マオはお兄さんのことが気になるんだ。
「えーっと、レンジュは……」
 ふと、今日は呼んでも出てこなかったことを思い出した。
「嫌いだわ!」
「え?」
「だって、今日ね、レンジュを呼んだのに無視するのよ? ひどくない?」
 マオが驚いた顔をして何かをつぶやいた。
「もしかしたら……僕に気を遣って? 兄さんが?」
「え?」
「あ、いや。なんでもない。その、兄さんを呼んだ理由はなんだったの?」
「えっと、苗子から守ってほしくて? ……いや、あの、苗子の説教から逃げたくて? ……あれ? ……わ、悪いのは私かな?」
 言葉にしてみたら、全然レンジュは悪くなかった。
「どうしよう、私、裏切り者だって言っちゃった……傷つけちゃったかな……」
 肩を落とすと、マオが優しい声を出す。
「兄さんはそんなことで傷つくことはないと思うよ。裏切り者なんて鈴華が本気で思ってるわけじゃないって知ってると思うし。そのとき、兄さんはどんな顔してたの?」
 どんな顔してたっけ? 距離があって表情までよく見えなかったんだよね。
「あ、裏切りっていうのはこういうことだよって両手を広げて、それから私を抱きしめたんだ」
 ぐっと私のお腹にまわしたマオの手に力が入った。
「それは、確かに裏切り者だね」
 低い声が届く。怒気を含んでるように聞こえる。
「仙皇帝の仕事を減らして自由時間を増やす、仕事を減らすには仕事を兄さんに振る、仕事はよくわかっているから問題がない、兄さんは仕事が増えて自由時間が減る。そうすれば一石二鳥」
「あ、そうだ、私仙皇帝様に抗議の手紙を書くって言ったわよね? マオを休ませてって」
 でもそれって間違ってたんだ。仙皇帝も仕事を減らさないといけないくらい働いてるってことだよね。仙皇帝様自身が一番大変なのかも……仙皇帝様、自由な時間がないくらい働いてたんだ。もしかして、後宮に顔を出せないのも、忙しすぎるからなのかな? 
 マオが私の肩に乗せた顔をぐりぐりと動かす。
「僕は、こうして休んでるよ……でもそろそろ戻らないと」
 マオが名残惜しそうに私をクスノキから降ろした。
 遠くから私を呼ぶ声が聞こえてきたので、マオは姿を消した。
 レンジュもそうだけど、マオも忍者っぽい。もしかしたらレンジュと同じ部署で働いてたりするのかもしれない。他の姫様の連絡係とか? 今、里帰りしていていない姫様の連絡係だから別の仕事を今は任されてるとか? 
 いや、マオは宦官じゃないよね? 

◆◆ ◆◆ ◆◆ ◆◆

「こ、これはなんですの?」
 金の宮の庭にある東屋、いやガゼボが今日のお茶会の場所だ。
「ちょっと、鈴華、聞いてる? これはなんですの?」
 ぽんっと肩を叩かれた。スカーレット様が、私をあきれた顔で見ている。
 その隣で、エカテリーナ様が小首をかしげていた。
「ああ、ごめんね。あまりにも花が綺麗だったから見とれてた。あれはなんという花?」
 庭の一角に、緑の葉の中に黄色い花が、まるで水玉模様のように咲いていてとても綺麗だ。
 まぁ、水玉模様に見えるのは、目が悪いから花の形がしっかり見えないからだけど。なんだか絵画のように見えて緑と黄色のバランスがとても美しい。
「ああ、あれは紅花ね。朱国にもたくさん咲いているわ」
 スカーレット様の言葉が理解できなくて、止まる。
「えっと、もしかして名前が紅だからですか? 黄色い花なのに?」
 仙人の住まう仙山。不思議な力を持つ仙皇帝がこの世界の中心だ。仙山を中心として世界は八つに分かれている。
 それぞれの色を特徴とした八つの国だ。仙皇帝宮の周りには円状の後宮があり、それぞれの特徴を持つ中庭が広
がっている。
 スカーレット様は赤い朱国の姫。その庭は赤い土を使ったレンガが敷かれたり、真っ赤なバラが咲いていたりとても華やかだ。
 エカテリーナ様は黄色の金国の姫。光を浴びると金色に輝く砂に、黄色い実をつける木がいろいろ植えられている。
「……あの花、紅花はねぇ、朱国の花なのよ。今は黄色いけれどぉ、そのうち赤くなるんですって。スカーレット様が今日のためにくださったのよぉ」
「ああ、なるほど。黄色でもあり、赤でもある。仲良しの証の花なんですね!」
 にこりと笑うと、スカーレット様が照れたように早口になった。
「そ、それで鈴華の持ってきたこれは何なのよっ! さすがにこんなに黒一色のものを持ってくるとは思わなかったわ。本当に食べられるの?」
 テーブルの中央にお土産として出した黒い塊。まだ長方形の型に入ったままだ。
 金の宮の侍女に用意してもらったお皿の上に逆さまにして型から中身を取り出す。
「まぁ、まぁ、これは……」
 エカテリーナ様が嬉しそうにほほ笑んだ。
「なるほど、呂国の色と金国の色を施したお菓子なのね」
 スカーレット様が感心したように声を漏らした。
「はい、そうなんです。夜空に輝く星をイメージしたんです。黒い羊羹に砕いた栗を星に見立てて使っています! えっと、あの、その……」
 エカテリーナ様がうんと頷いた。
「鈴華様と、私とのぉ、仲良しの証のお菓子ですねぇ」
「はいっ! 仲良くしてくださいっ、これからもっ!」
 思いが伝わるのは嬉しい。
 毒見が終わった後、スカーレット様が栗入り羊羹を口に運んだ。
「甘っ。これはずいぶん甘いお菓子ね。チョコと違った優しい風味ね。この柔らかさは、生チョコよりもしっとりしていて好きだわ」
「ほ、本当?」
「スカーレット様の言葉が本当か、確かめてあげますわ」
 と言いながら、エカテリーナ様も栗入り羊羹を食べた。
「まぁ、……本当に甘いわぁ。でも花びらの砂糖漬けのような強烈な甘さではなく上品ねぇ。それに舌触りもとてもなめらかだわ。栗がいいアクセントになっていますわねぇ。おいしいわぁ」
「ほ、本当ですか?」
 そこまで言ってスカーレット様はふと苗子を見た。
「口に合わないときは、皿に出されたものを残せば済むのよ。おなかがいっぱいでと言っておけばいいの。それが社交というもの。相手の言葉を本当かと尋ねるなんてマナー違反よ?」
 苗子がこくんこくんと三度頷く。
「苗子も、マナー教育大変ねぇ」 
「ありがとうございますスカーレット様」
 それからすぐに、スカーレット様の前のお皿。それからエカテリーナ様の前のお皿が空になった。
「うふふ、お代わりをいただいてもよろしいかしらぁ?」
 苗子が切り分けた栗入り羊羹をエカテリーナ様のお皿の上に追加で乗せた。
 それから、少し苦めに入れた紅茶をいただきながら、おしゃべりに興じる。
 お茶をお代わりするとき、ふと天使の時間とどこかの国で呼ばれる時間が訪れた。
 まぁつまり、シーンと静まり返った時間というか、なぜか皆口を閉じた時間。
 口を開くこともなく三人で紅花を眺めた。
 さぁーっと頬を撫でる風が吹いてきた。
 ああ、後宮にも風が吹くんだ。確か結界というのがあったんだよね。それぞれの庭を虫や鳥などの生き物は行き来できない。人は行き来できる。……風は? 風に運ばれる花粉は? 
 わからないことがいっぱいだ。
 風が吹かなければ、こんなことを考えることもなかった。外でお茶をしなければ風にも気が付かなかった。部屋にこもって本を読んでいたら気が付かないことが世の中にはたくさんある……。
 スカーレット様とエカテリーナ様の顔を見る。
 こうして、お友達とお茶をする時間が、こんなにも幸せな気持ちにさせてくれるってことも……。本を読んだだけではわからないままだった。
「間違っていたわよね」
 スカーレット様が、胸元からメモの束を取り出した。あれは! 女の兵法書!
「お茶会での注意点がいくつも書いてあるけれど」
 パラパラとスカーレット様がメモの束、つまり、本をめくり始める。
 ずりずりと、椅子をスカーレット様のほうへとずらしていき、ひょいっと上半身を伸ばしてメモを覗き込む。ス
カーレット様は、ぱたりと閉じて胸元にしまった。
「鈴華っ、何度言ったらわかるの? これは朱国の姫だけに伝わるメモなの。他国の者が見てよいものではありません」
 うう、知ってるけど。
「……ちょっとだけって言いそうな顔してますよね?」
「顔だけで言いたいことがわかるなんて、すごい! さすが友達だよね!」
 ぷっと、噴き出す声が聞こえてきた。
「ふふふ、私にもわかりましたわよぉ。友達ですからぁ。くすくす」
 エカテリーナ様だ。
「えへ、ありがとう」
「それはそうと、スカーレット様、先ほどの紙の束はなんなのですかぁ?」
 エカテリーゼ様の言葉に、スカーレット様がもう一度取り出してパラりとめくり、書いてあることを読み上げた。
「お茶会の心得一、相手に出されたものは必ず一口は手を付けること。手を付けずにいれば『朱国の姫は我が国の出したものに毒が入っていると疑っている、それはきっと朱国が毒を入れる国に違いない』と風評を流される危険がある。相手から出されたものを残さずきれいに食べてはいけない。『あら、朱国の方は普段どのようなものをお召し上がりになっているのかしら?』と暗に『ろくなものを食べてないのね』と馬鹿にされることになる。手土産にするものは朱国の色のものにすること。手土産を粗雑に扱う国で敵意を見分けることができる。相手の国の色の手土産は……と、まぁ、このようなことが歴代の朱国の姫によって書き記されたメモの束ですわ」
 うおおお、お茶会怖いっ! 
「あらまぁ、もしかして、過去にそのようなことがあったのかしら? 後宮のことはわかりませんが、金国の社交界でも似たような話は聞きますわよぉ」
 え? そうなの? 怖いって思ったのは私だけ? エカテリーナ様平然としてるよ。
「過去の姫が本当にそのような経験をしたかは今ではわかりませんわ。私もこれを読んで疑心暗鬼になって……あのときは嫌がらせをされたと思い込んでしまいましたから」
 ああ、キビタキっていう鳥の死骸が朱国の庭に落ちてたときね。あれ結局毒の木の実を食べて死んでしまっただけだったんだよね。
「そして、朱国は火の国。気性が激しいのも特徴なの。やられたらやり返せというね……。だから、まぁ……余計に敵視してしまって見えていなかった部分があったのかもしれません」
 スカーレット様が胸元にメモの束を戻す。
「私は気が強いんだけど、妹は気が弱くてとても激しい戦いの場では耐えられないだろうと思ってたのよ。だから、八年も後宮に居続けたけど……。これなら妹と交代してもよさそうだわ」
 スカーレット様の言葉に、目に涙がたまる。
 妹と交代するって……。それはつまり……。
「せっかく友達になれたのに……いなくなっちゃうの?」
「すぐにではありませんわ。あと一年ほどね。二十五歳になる前には交代すると父に手紙を書きます。その間に見合い相手を見繕ってもらって、妹の準備も整えておいてもらわないといけませんもの」
 一年……。引き留めたい。でも、それはできない。
 だって、スカーレット様の話からすると、後宮で妹がいじめられないように、自分ができるだけ長く後宮にとどまるようにしてたんだよね。本当なら、結婚適齢期……行き遅れなんて言われないうちに後宮を去りたかったかもしれないのに。……あれ? でも……。
「他の姫のように、里帰りと称して後宮にいないこともできたんじゃ?」
 スカーレット様が首をかしげた。
「あら、敵前逃亡が許されるような甘い国ではありませんのよ?」
 うひゃ。朱国すごい。
「まぁ、私個人としては、国に顔を出すたびに、家族が泣くからあまり顔を出したくなかったのよ。辛い思いをさせてすまない、私のためにごめんなさいお姉さまみたいな感じで……」
 あら、優しい家族。うん、だからこそ、妹を守りたいっていう思いが育ったんでしょうね。
「ふふ、妹の心配はなくなりましたが、別の心配ができたわ、こんなにマナーも常識も知らないと、仙皇帝妃になって苦労しそうよね」
 ん? よく聞き取れない。スカーレット様何を言ったの?
「残りの一年、私は全力を出して鈴華を鍛えたいと思いますわ」
「え? えっと?」
 突然のスカーレット様の宣言に、首をかしげる。
「仙皇帝宮を目指すのでしょう?」
 スカーレット様の言葉をつなげて考えると。
「スカーレット様は残りの一年で仙皇帝妃になるために全力で頑張って、それで私を侍女として連れて行ってくれるってことですね!」
 スカーレット様が、苗子を振り返った。
「はぁ? どうしたら、こう都合のいい解釈になるの?」
 苗子が小さく首を振る。
「スカーレット様に鈴華様のマナー教育に全力でご協力いただけることに感謝いたします」
「え? 全力って私の教育のことなの?」
 どういうことかわからないんだけどと、エカテリーナ様に顔を向けると、笑顔だ。
「うふふ、スカーレット様のお気持ちはわかりましたわぁ。私にも協力させてくださいませ」
「え? エカテリーナ様も、スカーレット様が仙皇帝妃になるのを応援してくれるの?」
 エカテリーナ様が首を横に振った。
「私が得意なのは、芸術方面なのよぉ。特に楽器。淑女のたしなみとして楽器の御指南をさせていただきますわぁ」
 え? どゆこと? 
「スカーレット様、よろしいですかぁ?」
「ええ。エカテリーナ。あなたもそのときには一緒に行きますか?」
 スカーレット様が仙皇帝宮を見上げた。
「まぁ、それもいいかもしれませんわねぇ……。若いままでいられるなら婚期も気にせずに過ごせますよねぇ」
 エカテリーナ様も仙皇帝宮を見上げた。
「もしかして、スカーレット様の侍女としてエカテリーナ様もついていこうっていう話?」
 スカーレット様が私の頭に載せた顔隠しの布をつけたピンを取り外した。
 布は上にあげていて、顔は隠してはいなかったのだけれど。
「まずはいついかなるときも顔を隠さなくとも目つきが悪くならない訓練でもしましょうか?」
「え、無理、無理だよ」
 ぱたぱたと手を動かして取り上げられた布に手を伸ばす。
「お預かりいたします」
 苗子がスカーレット様から布を受け取った。
 ううう、裏切り者! 苗子はどっちの味方なの! 黒の宮の女官だよねぇっ! 
「私、友達の鈴華ともっと一緒にいたくなったのよ。妹と交代する前に何とか仙皇帝宮に入ることができれば……私も婚期は気にしなくてよくなるの」
 いや、仙皇帝妃になった婚期もなにも、結婚して入るんだよね? 意味がわからないよ? 
「せっかくこんなにかわいらしいんですもの。仙皇帝様も鈴華の顔を見ればきっと気に入ってくださるわよぉ」
 あれ? エカテリーナ様、ちょっとおかしなことを言ってますよ? 
 私が気に入られる? 
「ねぇ、鈴華、鈴華が仙皇帝妃になったら、侍女として私を連れて行ってくれますわよね?」
「私も何年かお世話になるわぁ。いえ、違うわねぇ、お世話をするわぁ」
 え? ちょっと、どうして?
「わ、私が仙皇帝妃に選ばれるわけないじゃないっ! 呂国よ? 歴史上一度も選ばれなかった呂国の姫よ? で
もって、国も私も仙皇帝妃を目指したことなんてないのにっ!」
 スカーレット様がふっと息を吐き出す。
「ふふ、半分冗談よ。いくら私たちが仙皇帝妃を目指すなんて言っても、肝心の仙皇帝様に結婚する気がなければなりようがないんだから」
「そうですわよねぇ。前仙皇帝様も五十年結婚しませんでしたし、現仙皇帝様も、妃を持たないまま三十年経ちましたものぉ」
 ほっと息を吐き出す。
「なんだ、冗談だったんだ。よかった~」
 苗子のように厳しい教育係が増えたら、本読む時間がますますなくなっちゃうところだった!
 ほっと息を吐き出すと、スカーレット様が笑った。いや、笑っているけど笑ってない……。
「あら、半分冗談と言ったんですわ。マナーを身につけることは仙皇帝妃にならなくとも無駄になることではありません。呂国に戻ってからも社交はするでしょう? そのときに役に立つわよ」
 呂国に戻ってから、社交? 
 ここに来る前と同じように部屋にこもって本ばかり読んでいる自分が想像できないことに驚く。
 あ、私……。呂国に戻ってからも、本以外のことからいろいろなことを知りたい……。
 スカーレット様やエカテリーナ様のような友達が欲しい。……社交かぁ。
 そっか。二人は呂国に戻ってからの私のことも考えてくれてるんだ……。
「私、頑張る!」

◆◆ ◆◆ ◆◆ ◆◆

 楽しかったお茶会の後半は今後のスケジュール立てをして終わった。
 スカーレット様が私に教えてくれるのは、社交における会話術だ。
 それからエカテリーナ様は楽器などの音楽。
 ……あとね、私も教えてもらうだけじゃなくて、代わりに教えてあげることになったの。
 何をかというと……、雑学? 本を読んでなるほどと思ったことを話したり、おすすめの本を教えてあげたり、物語を詠じたり。……って、結局、何の話をしたらいいの? 
「鈴華様、何にお悩みになっているかわかりませんが、食事中に上の空なのは料理を作った者たちへも失礼にあたります」
 苗子の言葉にハッとする。
 いつの間に、私は食卓についてたのか! 悩みすぎて記憶が飛んでいる。
 テーブルの上には、鶏肉のトマト煮。
「こちらの鶏肉は、赤の宮から分けていただいたトマト、金の宮から分けていただいたオリーブオイルと、そして呂国の醤油を使っております」
 料理長の説明に改めて鶏肉に視線を落とす。赤と黄と黒……朱国と金国と呂国の料理。
「他には何を使っているの?」
 私の質問に、料理長が口を開く。
「砂糖とすりおろした玉ねぎです」
 そっか。普通に呂国の食材だったか。
 と思ったのが表情に出たのか、料理長が補足説明をしてくれた。
「砂糖は呂国で主に使われる黒砂糖ではなく、銀国で作られた白砂糖を使っております。玉ねぎも、今回は甘味の強い藤国の紫玉ねぎを使いました」
「そうなのね! ってことは、この料理は、赤と黄と黒と白と紫……五つの国が手をとりあった料理ってことね! 素敵っ!」
 料理長が嬉しそうに顔をほころばせた。
「付け合わせのブロッコリーは翠の宮、クワイは碧の宮、そしてデザートの桃は珊の宮からそれぞれ融通していただきました」
 すべての国が手を取り合って出来上がった食卓!
「素敵ね……」
 金国は食糧不足を解消するためにどうしても仙皇帝の祝福がほしくて仙皇帝妃を出すことに必死になっていた。
 けれど、朱国の協力で赤レンガで街道を整備することで流通を発達すること、そして食糧が豊富な呂国が食糧を売ることで解決できそうだ。金国は金の産出量が多く金銭的な問題もないのだ。
 ……こうしてお互いの国が協力し合うことで、仙皇帝の祝福を奪い合うようなことをしなくてもどの国も豊かになるといいのに。
 そうすれば……よ、仙皇帝妃が決まるまで後宮に各国から一人ずつ姫を置くなんてことも必要なくなるよね? 
 あ、でもこんなきっかけでもない限り、私はスカーレット様やエカテリーナ様と会えなかっただろうから、その点ではいいよね? 交流の場としては最適なのかも? 
 となれば、別に国から一人ずつ交流するという形でなくてもいいと思うけれど。あ、でも後宮であるという点では問題があるのかなぁ? 
 むむ? 結婚する気がないなら後宮も必要ないんだから、いっそのこと結婚する気になるまで後宮は交流の場として開放するとかそういうわけにいかないのかな? 
「ふわぁ、おいしい」
 考え事をしながらも、料理を口に入れた途端に意識が現実に引き戻された。
「すごくお肉が柔らかいのね。それからソースが甘くておいしい」
 もちろん甘いだけではない。玉ねぎの甘さと砂糖の甘さとトマトの酸味。フルーティーな香りはトマトが出してるのだろうか? 醤油の旨味もちゃんと感じる。全体をまろやかにまとめているのは、オリーブオイルなんだろうか。ごま油のような特徴的な香りはしない。すっと時折新しい畳のようなさわやかな香りを感じるけれど、他の食材の香りに溶け込んでいく。
 はぁー、幸せ。後宮生活最高よね。ここに来なければこんな素敵な料理は食べられなかったんだから。呂国でも食べられたらいいのに。
 もっと他の国同士の交流が生まれて、品物の流通が盛んになればいいのに……。
「ご馳走様でした。とてもおいしかったわ!」
 満面の笑みで料理長にお礼を言う。
「いえ、こちらこそ。新しい食材を使った新しい料理、鈴華様がいらっしゃってからさらに料理するのが楽しくなりました」
 料理長にお礼を言われちゃった。
 黒の宮で働く人たちいい人すぎるよねぇ。……私が来た当初は多少ぎすぎすした感じがあった者たちも、今で
は――。
「お食事のあとはお風呂でございます。本日は湯船に柚子を浮かべました!」
「御髪の手入れをさせていただきます」
「マッサージは私にお任せください!」
 部屋に戻るなり、使用人たちに取り囲まれる。
 私、スカーレット様とエカテリーナ様に教えることを考えないといけないのよっ! そんな二時間も三時間もかけて肌の手入れとかしてもらっていたら、本を読む時間がっ! 
 あ、そうだ。
「楓を呼んでちょうだい!」
 マッサージ用寝台にうつぶせで寝転びながら、お願いするとすぐに楓がやってきた。
 今年十三歳になる下働きだった子だけど、今は私の専属司書だ。
「楓、三の本棚に並んだ本のタイトルを順に読み上げてくれる?」
「はい」
 すぐに楓は図書室の本棚に並んだ本のタイトルをそらんじる。
 楓の特技は、瞬間記憶って能力だ。二秒間意識して眺めた景色を細かく記憶できるという能力。
 本棚の本は、仙皇帝宮の地下図書倉庫から毎月千冊ずつ入れ替えてもらうことになっている。
 つまり、手元には残らない! 読み返したいときに自由に読み返せないし、あの本なんだったっけな? という程度の記憶では探せない。そこで楓様なのだ!
 覚えておいてもらえば楓に朗読してもらえるのよ。
 本棚に並んだ本のタイトルどころか、本が入れ替わるまでになるべくたくさんの本の中身も記憶してもらってるところ。
 楓が続けるタイトルを聞きながら、気になったタイトルが出てきたらストップをかける。
「どんな内容? 目次を教えて」
「はい、まずは大きく第一章から第五章まであります。第一章が……」
 ふむ。いまいちピンとこない。
「ありがとう、この本はいいわ。もう一度タイトルをお願い」
 楓がまた順に記憶を頼りにタイトルを読み上げていく。順調に進んでいたのに、急に止まった。
「どうしたの?」
「申し訳ありません、その……読めない文字……が……」
「そう、紙に書いてみてもらえる?」
 楓が紙に読めない文字のタイトルを書いて、見せてくれた。
「あら、これは金国の文字? 朱国の本が並んだ棚にどうして混じっていたのかしら?」
 私の肩をもみもみしていた侍女の手が止まる。
「ああ、これは紅花の本みたいですね。紅と入っていたので朱国の本だと思われたのかもしれませんね」
 私の肩をもんでいる侍女は金髪で、すぐに金国の者だとわかる容姿をしている。……黒の宮で働くなんて嫌だと
言っていた人だよね。今では金国の姫をお救いくださってありがとうございますとずいぶん熱心に仕事をしてくれている。
「なるほど……って、紅花? 紅花は金国の花ではないよね? 黄色い花だけれど、時間が経つと赤くなるって話を今日聞いたわ。……金国が本にしたのはどうしてかしら?」
 気になる。
「楓、その本を読むわ。準備しておいて」
「はい、鈴華様! ……その……鈴華様は金国の文字も読めるのですか?」
「ん? ああ、多少はね。知らない単語は辞書を引かなければわからないけれど。紅花という単語も知らなかったわ。私もまだまだね」
 楓がふっと息をのむ。
「すごいです……」
「すごくないわよ。まだ一ページに二つ三つはわからない単語が出てくるのよ。もっとすらすら本を読めるようになりたいけれど、どうしても単語を辞書で引きながらだとスピードが落ちちゃって……。でも、ここにいる間は金国の本も気軽に読めるから、後宮を出るころには辞書なしでも読めるようになりそうよ。朱国と藤国は呂国と似たところがあるからすぐに読めるようになったのだけど。金国の文字が読めるようになれば、銀国と碧国もほとんど読めるよ。あとは珊国と蒼国の言葉は、まだ半分もわからないわ。一冊読むのに、十倍くらい時間がかかっちゃうの」
 私の背中をもんでいた侍女が手を止めた。
「や、八つのすべての国の言葉が話せるんですか?」
「違う違う、文字を読むだけ、単語を見て意味はわかっても、発音はわからないのよ。本を読みながら覚えただけだからね」
 ああ、なんだそっか、全然すごくないじゃんってがっかりされたかな。
 せっかく珍しく褒めてもらえそうだったんだけど。
「本を読みながら……というのは、誰か教師がついて覚えたというわけではなく……?」
「そう。独学。他国と交流するときには、共通言語でしょう? 今私たちが使っている言葉。共通言語はどの国でも第二言語として学ぶじゃない?」
 そう、後宮で使われている言葉は共通言語と呼ばれるものだ。王侯貴族は当たり前に学ぶし、他国と取引のある商人なども身につけている。
 もちろん、後宮では下働きに至るまでみな共通言語で話をしている。もしかしたら採用基準とか就職試験とかに共通言語が話せることっていうのがあるのかもしれない。
「だから、呂国の言葉の辞書はなくても、どの国の言語も共通言語の辞書は手に入るのよ。ありがたいわ。辞書さえあれば、珊国の言語で書かれた本も読めちゃうんだもん」
 足をもんでいる侍女も手を止めた。
「自国と共通言語を理解していれば、他国の言葉が読める必要がないのでは……?」
「通訳でなくとも、その国の文字が読める者が一人いれば解決しますよね」
「だから、学者でもない限り第三言語や第四言語を学ぶなど聞いたことが……」
「国同士の対話は共通言語で行うことになってますし、契約書なども共通言語で作りますよね」
「私、金国出身だから呂国の言葉はわからないけれど、呂国出身の者が共通言語に訳して教えてくれるから何も困ったことはなかったわ。だから覚えようという気にもならなくて」
 まぁ、日常生活では私も困ったことがなかったけどね。
 あるとき、知ってしまったのよ! 原典で読む喜びを! 
「ですが、仙皇帝様はすべての国の言語に通じているという話を聞いたことが……」
「鈴華様が八か国語堪能であるなら……」
「やはり、鈴華様は妃にふさわしいお方」
「美しく心優しくさらに智にもたけているとなれば……」
 侍女たちが止めていた手を再び動かしながらぼそぼそと話をしている。よく聞こえないので私に話しかけているわけではないのだろう。
 その日は本を読む時間も取れずに就寝。
 というか、マッサージが気持ち良すぎて寝てた。起きたら次の日だった。
 次の日、いろいろやるべきことをこなして、やっと訪れた読書の時間。
 楓が、昨日お願いしておいた金国の言葉で書かれた紅花の本を準備して図書室で待っていた。
 あら? 楓用に用意した卓の上には文字の練習をした紙が置かれている。
 ファルアベックと呼ばれる金国の文字の基本だ。
 もしかして記憶したものを書き出すときに即座に書けるように練習しているのかな? 
 楓ったら、私のためにそんな努力もしてくれるなんて! 瞬間記憶だけでも十分ありがたいというのに! 
「こちらが、昨日の本と金国の辞書になります。あと、朱国の植物図鑑もありましたのでこちらに用意しました」
 くっ、どこまでもできる専用司書だわ! 
「ありがとう、楓。楓がいてくれてよかった!」
 思わず抱きしめちゃうっ。
「リ、鈴華様っ!」
 焦った声が聞こえた。
 コンコンコンとノックの音に、楓を開放する。誰? 大事な読書の時間に?
「鈴華様、カティアです。少しよろしいでしょうか?」
 ほっ。苗子が呼びに来たわけじゃなかった。
「え、ええ、何かしら?」
 入室の許可を取ると、カティアが私の前まで歩いてきて読もうとしていた本に視線を落とす。
「今日は金国の文字で書かれた本を読むことで間違いありませんか?」
「ええ、そうよ」
 カティアは意を決したように、口を開いた。
「でしたら、私にお手伝いさせてください」
「手伝い? 読書の?」
 どういうこと? 
「金国の言葉でしたら、なんでもお答えできるかと思います」
 と、カティアは辞書に視線を移動する。
 そういうことか! 辞書の代わりにわからない単語の意味を教えてくれるってことね? 
 確かに辞書を引く時間が短縮されて読書のスピードが上がるかもしれない。
「じゃあ、お願いするわ」
 一ページ目に早速わからない単語があり、指をさして確認する。
「ケモーネ、耕すという意味です」
 ケモーネと金国の単語を発音してから意味を教えてくれる。
「バリューネ、畝を作るという意味です」
 へー。ケモーネとバリューネ。
「この同じ文字が二つ並んでいるところは伸ばして発音するのね」
 カティアが頷いた。単語を見て意味がわかればいいと思っていたけれど、こうして発音を聞くと新しい発見があって楽しいかも。
「カティア、ここなんだけど、赤子に手伝ってもらわないとって意味でしょ? 赤ちゃんまで働かせるってことはないよね?」
 単語の意味はわかるけれど、伝えたいことがわからない。
「アブーナ、シュルハパッチ、モノル、猫の手も借りたいという意味です。金国では猫の手ではなく赤子にも手伝ってもらいたいと表現します」
 へー、そうなんだ。 知らなかった。
 私、今までこういう慣用句はどこまで理解して読んでいたんだろう? 国によって言い回しが違う。単語さえわかればいいってもんじゃない。
「カティアっ!」
 顔をあげてカティアの顔を見る。
「ありがとう! これからも金国の本を読むときにいろいろ教えてくれる?」
 カティアの手を取りお願いする。
「ええ、もちろんでございます。文字が読めるだけでなく発音を覚えて話せるようになれば、ますます仙皇帝妃へと近づきますし、作戦通りで……」
 もちろんでございますのあと、口の中でもごもごと何かを言っているけれど、聞こえないよ。
 言いにくいこと? 教える代わりに何かお願いでもあるのかな? 
「あの、鈴華様」
 遠慮がちに楓が口を開く。
「辞書を用意してもらってもいいですか?」
「どうぞ、使って」
 金国の言葉はカティアが教えてくれるので今日は必要ない。
「他の国の辞書もお願いします。私、辞書を記憶して、人間辞書になりますっ!」
 楓の言葉に、ごーんと頭を打たれた。に、人間辞書ですってぇ? 
「あの、もちろん、カティアさんのように聞けばすぐに答えられるわけではなくて、覚えた記憶から探さないといけないので辞書を引くのと同じくらいの時間はかかってしまうんですけど」
 それは前にも聞いた。絵のように本のページを記憶するだけだから内容はその絵を思い出しながら読まないとわからないと。辞書も、丸っとすべて頭に複製を作るようなもので、複製を使って調べる作業は必要ってことだよね。
 それでも、調べたいことがあるときに、すぐに調べる手段があるのってすごくない? 
「楓ぇん!」
 再びぎゅっと抱きしめたくなったけれど、卓を挟んだ向こう側にいるためそれは叶わず。ちぇ。
 もう、ずっとずっと一緒に楓といられたらいいのにっ! 呂国に連れて帰りたい。
 でも、ずっと仙山にいたら、山を下りると病にかかりやすいって話を聞いたのについてきてなんて安易に言えないよ。……ならば、私がずっとここにいればいいのでは? 
 後宮って年齢制限あったんだっけ? さすがに三十歳になったら出ていけとかあるのかな? 
 あとでレンジュに確認してみよう。
「楓、ありがとう。辞書はあとで用意してもらうね。でも無理しないでね?」
 楓が首を横に振った。
「いくら記憶してもまるっきり文字が読めないままでは頼まれた本を探すことができません。鈴華様のように八か国すべての文字を読めるように、頑張りますっ」
「いや、だから、私は満足に読めないからね? 辞書を記憶してもらったらきっと楓に質問しまくるわよ? あ、でも……後宮の使用人って、いろいろな国の出身者が混じっていたわよね? カティアのように他の国の出身者に読書の時間に協力してもらおうかしら?」
 うーんと首をかしげる。
「はい、もちろん、声をかけます。きっと皆、鈴華様が八か国語を堪能にお話しになるように協力は惜しまないと思います!」
「堪能に話せるようにはならないとは思うけれど、原文ですらすら本を読めるようになったら嬉しいわ。ぜひお願いね」
 そもそも呂国でも社交をさぼっていたので、会話はうまくないから。堪能に話せるなんて、無理じゃない? でもまぁ、文字じゃなく音として言葉が理解できれば、目が見えなくなっても本を朗読してもらえばいいんだもんね。老後の楽しみのために後宮にいる間にたくさん他国の言葉に触れよう。
 金国の紅花の本を読み終わる。
「ねぇ、カティアはこの紅花の話は知っていた?」
 カティアが首を横に振る。後ろから一緒に本を読んでいたカティアに尋ねる。
「いいえ。知りませんでした。黄色から赤に変わる花の話も聞いたことがないので、栽培されているところはないのではないでしょうか」
「じゃあ、エカテリーナ様もご存じないわよね?」
 明日の私が先生役の黒の宮でする勉強会は紅花の話をしよう。
 次は何の本を読もうかなと思ったら、食事の時間になって苗子が図書室に呼びに来た。
 もうっ、一食くらい抜いたって死にはしないのにぃ。本が読みたいよ! 
「鈴華様、食事を抜いて本を読むようなことは許可するわけにはまいりません」
「え? 苗子、なんで私が一日食事抜きで本を読み続けたいと思ってることがわかったの?」
 あきれた顔で私を見る苗子。
 はっ。話題を変えよう。くわばらくわばら。
「ちょっとお願いがあるんだけど、金国からちょっと貰ってきてもらいたいものがあるの。たくさんはいらないんだけど、もらえたら調理室に持って行って洗っておいてもらえる?」
 苗子に頼むと、すぐに手配を始めてくれた。よし。ごまかせた。
 昼食を食べ終わって、金国から届いたら明日持っていくお菓子の試作品を作ってもらって。
 食後部屋に戻ってから天井を見る。
「レンジュ、レンジュ~!」
 声をかけるけれど天井から降りてこない。
 あれ? おかしいな? 
「レンジュー、おーい」
 も一度天井に向かって呼びかけていると、苗子が部屋に入ってきた。
「レンジュに御用ですか? 呼んでまいりましょうか?」
「呼ぶ? どこにいるか苗子は知ってるの?」
「仙皇帝宮にいるかと」
「え? そうなの? ……って、そっか。行ったり来たりするんだっけか」
 なんだか、いつも呼べば居たし、呼ばなくても居たから、呼んでも姿を見せないのって……。
 ちょっと寂しい。
「鈴華様?」
 家族以外の誰かに会えないことを寂しいと思うなんて、不思議な感じだ。
 婚約者にだって、会えなくて寂しいと思ったことなんて一度だってなかったのに。
 どうして、レンジュと会えないことが寂しいんだろう。ああ、違う。スカーレット様と会えなくなるのも寂しいし、エカテリーナ様と会えなくなるのも寂しい。
 ここを出ていけば……。
「苗子……私、苗子のこと好きなの」
「え? あ、えっと、鈴華様?」
 苗子の顔を見る。苗子がとても動揺している。なんでよ。いつも苗子好きって言ってるよね? あれ? 口には出してなかったっけ? 
「私ね、こんな気持ちになったの初めてで……」
 苗子の手を取る。
「リ、リ、鈴華様、そ、その、いくら、あの、私は男ではないとはいえ、あのっ」
 ん? 男とか女とか関係ないよね? 
「誰かと会えなくなるのを寂しく思い、別れるときを想像しただけで胸がギューッとなるの、初めてなの」
 家族とはまた会えるし二度と会えない別れだなんて思わないけど……。
「えっと、あの、鈴華様?」
 心配そうな苗子の声。あれ、変だな。涙が出てきた。
 そのまま、苗子に抱き着いた。
「私、ここを出たら苗子ともお別れでしょう? まだ、お別れじゃないのに。ここを出ていったらもう苗子に会えないんだと思ったら、悲しくなっちゃって……」
 苗子の手が、私の背に回ってそっと抱きしめてくれる。大事な宝物を抱えるように優しい手だ。
「鈴華様……」
 楓もそうだけど、一緒に呂国に行ってとは言えない。
 そして、仙山には自由に出入りすることはできない。後宮を辞して次の姫に交代したら、もう二度と私はここに来ることができないだろう。一生の別れになるのだ。
「不思議ですね……」
 苗子が静かな声で言葉を発する。
「何人もの姫様にお仕えいたしましたが、私も、鈴華様との別れを想像すると、いつも以上に別れが寂しく感じます……」
 そんなこと言われたら、もっと悲しくなっちゃうよ。
 別れたくないよ。二度と会えない別れなんていやだよ。
「馬鹿な子ほどかわいいといいますが……」
 へ? 
「手がかかって、教育しがいのある鈴華様が、愛おしいです」
 苗子から体を離して顔を見る。
「わ、私、馬鹿だと思われた?」
 苗子がくすっと笑った。それから、仙皇帝宮のある方へと視線を向ける。
「……あの場所で、鈴華様と共に過ごしたい」
 仙皇帝宮で。
「苗子……仙皇帝宮にきっと行くわ」
「鈴華様」
 苗子の手を取る。
「一緒に侍女になって働きましょう!」
「そっちじゃないっ!」
 ぐっと手を握ると、すぐに否定された。な、なんでぇ~?
 
 明日のためのお菓子の試作が完成したというので、試食用にと苗子が部屋に運んできた。
「せっかくなのでお茶にしましょう」
 苗子がにこりと微笑み、卓の上に、竹で編まれた蓋つきの器を載せる。
 茶器にお茶が注がれ、香ばしい香りがふわっと鼻に触れた。
「ああ、今日は黒豆茶なのね。本に書いてあったけれど、黒豆茶はイソフラボンという女性にとってとても良い効果のある成分が含まれているんですって。女性らしくなるとかなんとか。苗子も一緒に飲みましょう」
 苗子がちょっと変な表情を見せる。
 うっ、もしかして、胸が小さいのを遠回しに揶揄したと思われた? 
「ち、違うの、別に女性らしさが足りないから苗子に飲ませようとかそういう意味ではっ」
 苗子の表情がゆがむ。うわー! 口が滑ったぁ。
「ミャ、苗子、嫌いにならないでね?」
 ふっと苗子が笑う。
「本当に、鈴華様はかわいいですね」
 かわいい? 言われ慣れない言葉に驚いている私を見て苗子が笑った。
 って、待て待て。馬鹿な子ほどかわいいってあれだ。また、馬鹿って言われたようなものだ!
 ぬぅ。うっかり喜んじゃうところだったわ。苗子め! 
「早速いただきましょうか。改良点があればもう一度試作してもらわないといけないですので」
 苗子が話題を変えるように卓の上に置かれた竹籠の蓋を取った。
「うわぁ! かわいい!」
 思った以上にかわいいお菓子が籠の中に入っていた。
 もち米の饅頭やお団子なんだけど、とても美しい黄色。
「なんだ? ずいぶん明るい色の食いもんだな」
 ひょいっと私の後ろから手が伸びて、団子が目の前から消えた。
「なるほど、甘いもち米の菓子か。あっさりしているがうまいな」
 振り返ると、レンジュが串を口にくわえている。
 団子が食べられたっ! 
「こっちはなんだ?」
 抗議しようと思ったら、再び手が伸びて今度は饅頭が器から消える。
「レンジュっ! それ、私のっ!」
 レンジュが空いてる手で私の頭をぽんっと撫でた。いや、押さえつけた? ん? 
「わりぃ。まだあるんだろ? 苗子悪いが持ってきてくれ。あ、俺の分もよろしく!」
 よろしくじゃないっ! まだ食べる気なの? 
 恨めし気に睨みつけると、レンジュはテーブルを挟んで私の正面に腰かけた。
「そうふくれっ面するなよ、かわいい顔が台無しだぞ?」
 レンジュが花の形をしたお菓子を持ち上げて私の口元に持ってくる。
「ほら、口開けろ」
 言われなくたって、これは私のお菓子なんだからっ! 
 大きな口を開け、レンジュの持つもち米のお菓子にかぶりつく。
 ふわっ。美味しい。
 もちもちで、つぶしてないもち米なのでこのつぶつぶ感もたまらない。中にはこし餡が入っている。色付けに使ったものは、癖もなくて少しふわりと香ばしいような香りがするくらいで食べやすい。ふむふむ、これはいいわね。
 もう一口、ぱくり。美味しい、美味しい。もう一口、ぱくり。
「お前は、俺の手まで食べるつもりか?」
 あれ? いつの間に? 
 つんっと鼻の頭をつつかれた。
「って、そもそもレンジュが私のお菓子を食べちゃうから、物足りなくなったんでしょ!」
 鼻を押さえて抗議する。
「いや、でも手まで食べようとするなよっ」
 がしっとレンジュの手を両手でつかむ。
「手で饅頭つかんで食べたら、最後は手についたのなめるわよね? 普通に、手に餡子とかきな粉とかついてるの、なめるわよね? 塩とか砂糖とか、なめるでしょ?」
 レンジュが青ざめる。
「いや、普通か? それ、普通か? 自分の手はなめることはあっても……いや、違う、姫だろ? 呂国の姫がお菓子をつまんだ手をなめるなんて……っていうか、そもそも手づかみで食べるなんて……」
 ほら、やっぱり、顔を近づけてみれば、レンジュの手に餡子がっ! 
「ちょ、苗子、助けてって、苗子がいないっ!」
 ふふふー。苗子に助けを求めても無駄よ。
 レンジュが自由なほうの手で私の頭を押しのける。
「あんまり、挑発するなっ! っていうか、男の手をなめようとするなっ!」
 挑発? 
「あ、俺をなめるなよ! って怒らせちゃうってこと? ……男の人ってなめた真似するなとかよく言うけど、そんなに人にお菓子食べさせる人多いの?」
「お、お前、それマジで言ってるのか?」
「あ、そうじゃないわ! だいたいレンジュは男じゃないじゃないのっ! 宦官でしょ? じゃ、問題ないじゃないっ!」
「鈴華、俺だってな、理性にも限界があるんだ。もてあそぶなよっ。助けてくれ、苗子~!」
 ドンっと、大量のもち米の生菓子がテーブルの上に現れた。
 ぱっと、レンジュの手を離す。手についた餡子に未練はない。
「何をしてたんですか、一体……」
 苗子があきれ顔をしている。
 レンジュがいつの間にか、苗子の後ろに隠れた。だから、半分体が出てるって。
 改めて三人でお茶を飲むことに。
「というわけでな、しばらく仙皇帝の仕事を手伝うことになったから今までのようにずっと居られなくなった」
 ……というわけでと前置きしたけど、その前に何も話をしてない。何がというわけなのか。
「だから、呼んでも来なかったのね」
 レンジュが五つ目の饅頭を口に入れてにやりと笑った。
「呼んだのか、俺を。そんなに会いたかったか?」
「聞きたいことがあったのよ」
「……聞き流すのかよ、まあいい。聞きたいことってなんだ?」
 レンジュが片肘をついた。
「仙皇帝宮って女人禁制でしょ? 女人禁制じゃなくなるのは仙皇帝妃が決まったらなのよね?」
 レンジュがうんと頷く。
「まぁそうだな。女人禁制のままじゃ仙皇帝妃も入れないからな。結界は解かれる」
「え? 結界があるから女は入れないの? じゃあ、結界が解かれた後は、女も出入り自由になるとか?」
 レンジュが首を横に振った。
「いや、仙皇帝妃の身の回りの世話をする者、侍女や下働き、そうだな後々は乳母に子守りや教師……と必要に応じて女の身でも入ることはできるようになるぞ」
「うーん、侍女以外にもチャンスはあるのか……教師の座を目指してみるか? いや、でもそもそも……仙皇帝様が結婚しなけりゃ全くチャンスはないよねぇ……」
 レンジュが串に刺さった団子を手に取り私の顔の前に突き出した。
 差し出されたら食べるよ。
 パクリ。
「お前は本当に飽きないな。やっぱ、俺の嫁になれ。そうしたら結界は無効になる」
 ん?
「それって、宦官の嫁は宦官と同じ立場になるってこと? 女だけど女じゃないみたいな? そんなことあるの? そこのところ詳しくっ!」
 テーブルの上に身を乗り出したら、レンジュが身を引いた。
「いや、そうじゃない。っていうか、嫁になるっていうなら教えてやる。俺の秘密を全部な。知りたいか?」
「レンジュの秘密? ……えーっと、別に知りたくは、ない、かな?」
 ぶはっと、苗子が噴き出した。
「あはは、レンジュ、興味も持たれてないと……あははは、はは、鈴華様が何枚も上手で、くふふははは」
 そうだ。苗子は笑い出したら止まらないタイプだった。
「で、聞きたいことはそれだけか?」
 レンジュが大きなため息をついた。
「まだ聞きたいこと聞いてなかった!」
「は? じゃあ何が聞きたいんだ?」
「後宮って、年齢制限あるの? 三十歳になったら出ていかなくちゃいけないとかさ」
 レンジュが首をかしげた。
「そういやぁ、聞いたことがないな」
「じゃあ、年齢制限はないってことよね? 年取っておばあちゃんになっても、死ぬまで後宮にいてもいいってことよね?」
 レンジュが苗子を見た。
「いや、後宮ってそんなところだっけ?」
「ってことは、仙皇帝様が結婚する気がなくてずっと妃を持たないほうが、私は居座れるってことでしょ? これは、ぜひとも妃を選ばずにずっと独身を貫いてほしいっ!」
 レンジュが再び苗子を見た。
「なぁ苗子、仙皇帝が後宮の姫に独身でいてほしいと望まれるなんてありえないよな?」
 苗子があきれ顔をする。
「誰かさん……いえ、前仙皇帝陛下が五十年独身を貫いたので、同じように今回も結婚しないでほしいと思われることもあるのでは? むしろ、誰かさん……前仙皇帝陛下が妃を持たなかった五十年に慣れてしまって、どこかの国が祝福されるよりはどの国も祝福されないままでかまわないと思われているかもしれませんね?」
「何を言っているんだ苗子。お前も知ってるだろう? 妃の出身国を優遇すればたちまち仙皇帝は牢獄行きだと。私利私欲で動けばすぐに罰が下る」
 苗子とレンジュの会話に思わず声が漏れる。
「え? 仙皇帝様が牢獄行き? どういうこと?」
 しまったとばかりにレンジュが口を閉じた。
「いや、まぁ、あれだ。仙皇帝といえども、好き勝手はできないってことだ。ほら、例えば辞めたいときにすぐに辞められないのもその一つ」
「そっか、辞めるために前仙皇帝様は独身だったんだよね? 今は何をしてるんだろう」
 レンジュがちょっと早口になった。
「さ、さぁな。案外仙皇帝にこき使われて、仙皇帝宮で仕事してるかもな。じゃ、俺は行く!」
 レンジュが机の上にあった残りの饅頭や団子の乗った皿を持って天井裏へと姿を消す。
「マオにもあげてね!」
 と声をかければ、すぐに返事があった。
「ああもちろん。と、用事があれば苗子に言って呼び出してくれ。もし、急を要することがあれば鈴を鳴らしてくれ」
 鈴? そういえばやたらとでかい鈴を渡されたっけ。どこにしまったか忘れちゃったよ。
 苗子に頼めば呼んでもらえるならそれでいいかな? 
 ……それよりも。
「ねぇ、苗子、今の話は黙っていなければならないわよね」
「え? 何をです?」
「仙皇帝妃を輩出した国が祝福を受けるわけじゃないということ……」
 祝福を受ければ、国が豊かになり、国民が幸せに暮らせると信じて必死に仙皇帝妃を目指して努力していた人もいるのに。祝福なんてないなんて、そんなこと言えるわけがない。
 国からのプレッシャーで壊れてしまいそうだったエカテリーナ様の心を思う。
 スカーレット様の持っていた歴代朱国の姫たちの苦悩も……全部、意味がないものだったなんて、そんなの。
「鈴華様、先ほどのレンジュの話ですが……、仙皇帝陛下が私利私欲で動くことがない……つまり妃の国を特別扱いすることはないというのは真実ですが、またもう一つの真実もあります」
 もう一つの真実? 
「仙皇帝陛下と皇帝妃殿下が親しければたくさんの話をなさいます。当然、出身国の話もするでしょう。妃は国に残した家族や友人の手紙のやり取りもするでしょう。手紙の内容を陛下に伝えることもあるでしょう。何とかしてくれと妃が求めずとも、問題があれば対応しなければならないのが陛下です。他の国よりも知る機会が多くなるため自ずと対応が早くなる、そのため大事に至る前に対策が取られる」
「それって、優遇することはないけれど……寵愛を受けると、会話が増えて結果的に国の助けになるってこと?」
 苗子が頷いた。
「人々はそれを寵愛を受ければ国が祝福されると言ったのでしょう」
 ほっと、息を吐き出す。苗子の言うことが本当であれば、妃になることも、妃になろうと努力することも無駄じゃなかったってわかるから。
「ですが、逆もあります。国のことを顧みず、自らの快楽にのみおぼれる妃であれば」
 苗子の言葉の先を私は口にした。
「なるほど! 仙皇帝様の怒りを買うと国が亡ぶというような話につながるのね。妃が愚かでは国のためにならず祝福が得られないから……」
 ん? 待てよ? 
「ねぇ、苗子、そう考えたら、若くてかわいい姫よりも、賢くてある程度の年齢の姫とかのほうが妃にふさわしかったりしない?」
 首をかしげる。
「仙皇帝様にも女性の好みがありますので、一概にどうとは言えませんが……」
 苗子がふふふと笑う。
「賢くてある程度の年齢の姫が妃になればと私も思っております。ええ、ぜひ、妃になられるのを楽しみにしております」
 苗子はまるで具体的に誰かのことを思い浮かべているような様子だ。
「あ! スカーレット様ね! 賢いし、ある程度の年齢だし、それに国のこともちゃんと考えてて、家族思いだから、完璧じゃない?」
「は?」
「そっかぁ、苗子はスカーレット様が妃になればいいと思ってたのね!」
「違っ」
「一緒に応援しましょう! あ、それで、私と苗子を侍女として連れてってって頼もう?」
「鈴華様っ、誤解して」
 苗子の手を取る。
「一緒に仙皇帝宮に行けば、ずっと苗子と一緒にいられるんだね、嬉しいっ。大好きな苗子と一緒にいられるなんて、夢みたいっ」
 苗子が顔を赤くした。
「私の身では、仙皇帝宮で侍女としては働けません」
「え? なんで?」
「鈴華様が妃になり私を望んでくだされば……いえ、なんでもございません。失礼いたします」
 苗子が、綺麗なお辞儀をして部屋を出ていった。
 どういうことだろう? 侍女として働けない? 苗子の身では? 
「身分? 仙皇帝妃の侍女は高位貴族の出じゃないとだめとか? 私が妃になって望めば?」
 いや、私が妃になることは万に一つもない。
 夜、寝台に横になって天井を見上げる。
「レンジュ……」
 小さな声で名前を読んでみるけど、天井にレンジュの気配は感じない。
 ……呼べばいつでも会えたのに。これからは、あまり会えないのか。
 いくら、仙皇帝宮から呼んでもらうことができると言っても、仙皇帝様の仕事の手伝いをすると言っていた。ちょっとしたことで呼ぶわけにはいかないだろう。
「苗子……」
 私がここを出れば……呂国に帰るにしろ、仙皇帝宮にスカーレット様の侍女でいけるようになるにしろ、お別れなのか。
 料理長もカティアも楓も……黒の宮のみんなと……。
「やだなぁ……みんな一緒にいたいなぁ」
 もやもやと胸の中がかき回される。
 眠れなくて、月明りを頼りに交換日記に気持ちを書き綴った。
『マオへ
 レンジュは仙皇帝陛下の仕事の手伝いを始めたみたいなの。会えなくなって改めて気が付いたんだけど、私レンジュのことが好きなんだって。会えなくなって寂しいって。
 それでね、いろいろ考えちゃって……。どうしたら、一緒にいられるかなって。
 でね、やっぱり私、ずっと後宮にいようかなと思って。年齢制限ないらしいから。
 追い出されるとしたら、仙皇帝妃が決まったときでしょ? だから、このままずっと仙皇帝陛下には結婚しないでいてもらいたいなぁ。そうしたら、私はずっと後宮に居座れる! 
 後宮にいる限り、頻繁ではないにしてもレンジュには会えるよね。
 それに、苗子とも一緒にいられるし、他の黒の宮で働く人とも別れずに済む。
 本当に、私、レンジュも苗子も料理長も楓もみんなみんな大好きになってたって気が付いたの。
 もちろんマオのことも大好き。
 マオと会って話がしたいけれど、こうして交換日記で話ができるから、寂しくはないよ。
 いつも日記が楽しみなの。でも、いつかは堂々と一緒にお茶をのんだりできたらいいのにな。』
 次の日は朝から忙しかった。黒の宮での初めてのお茶会だ。
 交換日記を置きに行って、朝ごはんを食べて、出すお菓子の最終チェックして、苗子のお茶会でのマナーレッスンして、それから侍女になったときのための服の選び方講座を受けつつの着替え。
 それから、部屋の最終チェック。
 調度品は大丈夫なのか、用意する茶器などに問題はないか。席の並びは大丈夫なのか。
 くおお、たった二人招くだけだというのに、とても大変! 
 席には上座や下座があるんだけど、これが国によって違うのは本で読んだから知ってる。
 けど、実際は知っていればどうにでもなるものじゃなかったのだ。日が当たるか当たらないかとかも重要だったり、後宮の配置も考慮しなくてはならなかったり……。
 と、そうこうしながら何とか準備を整え、約束の時間ぴったりに二人がやってきた。
「ふふ、今日はとても楽しみでしたの」
「よくおいでくださいましたスカーレット様」
「そんなにかしこまらなくてもぉ、大丈夫よぉ」
 エカテリーナ様の言葉に緊張がほぐれる。
「こちらへどうぞ」
 準備した部屋へと案内する。
「じゃあ、えっと、今日は私が先生役で、雑学を披露するということだったんで、用意したものがあるんです」
 と合図を出すと竹で編んだ蓋つきの器が、運ばれてきた。それぞれの前に置かれる。
「まぁ、何かしらぁ?」
 蓋を取ると、中にはもち米でできた甘いお菓子が並んでいる。
「まぁ、綺麗だわ! とても鮮やかな黄色をしているのねぇ。金国の色だわぁ」
 うんと頷いた。
「金国の色でもあり、朱国の色でもあるんです!」
 エカテリーナ様が喜んでくれたのでどや顔をして見せる。
「朱国の色? どう見ても黄色よね? 中にイチゴでも入れてあるのかしら?」
 いいえと、首を横に振る。そして私は自分の前に置かれた竹の器の蓋を開けた。
 二人に出した物には、団子が二つ刺さった串が二本入っているだけだけれど、私の器の中には花が添えられている。
 それを手に取り二人に見せた。
「紅花?」
 スカーレット様はすぐに何かわかったようだ。
「はい、そうなんです。紅花です。実はこの団子の黄色は、紅花の花で色付けたものです」
「まぁ、そうなのぉ? 紅花って、紅色の染色に使われる花ではないのぉ?」
 スカーレット様が頷いて教えてくれる。
「紅花は、染色に使われます。私が今着ているドレスも紅花により染色されたものです」
 スカーレット様は、鮮やかな真っ赤なドレスを着ている。
「ずいぶん高そうですよね?」
 値段の話をするのはマナー違反なので、みんなが息をのむ音が聞こえてきた。
「あ、いくらしたとかそういう下世話な話がしたいわけじゃなくて。本に書いてあったんです。鮮やかな赤色に染めるためには、布の量の何十倍もの紅花を使って、何度も染めていかなければならないって。紅花が貴重な上に手間もかかるって書いてあって……」
 スカーレット様がうんと頷いた。
「そうなの。紅花で染めた布は朱国ではとても人気があるのだけれどここまで赤く染めるには大変だと聞いているわ」
 そう言って、スカーレット様はポケットからハンカチを取り出した。
「色の違いがわかるかしら?」
 ハンカチも赤いけれど、スカーレット様のドレスと比較してしまうと少し日に焼けて色が落ちたような色に見える。呂国の黒も黒の深さで格が違ってくるけれど、それと同じなのだろう。
「実際見ると、違うものですねぇ」
「赤いドレスで集まると、値段の違いがすぐにわかってしまうから困ったものよ。他の色の服を身に着ければいいけれど、ドレスコードが赤なんていじわるなお茶会を催す者もいて……」
 エカテリーナ様がその話を聞いておかしそうに笑う。
「あらまぁ、どこの国でもあるのねぇ。女同士のマウントの取り合いってぇ。ドレスの色の違いで格の違いを見せつけるんですの?」
 スカーレット様がふぅとため息をつく。
「高位貴族はより深みのある赤いドレスを着るために散財し、領地を荒らすことがあるほどよ。下位貴族は下手に赤すぎるドレスを着てしまえば生意気だといじめられたりもするのよ」
 う、うわ、怖っ。
「もう少し紅花が採れるようになればいいのだけれど。なかなか栽培が難しいみたいで……」
 スカーレット様の言葉を聞いてエカテリーナ様が首をかしげた。
「栽培が難しいのですか? いただいた紅花は金の宮の庭で問題なく育っているようですけどぉ、何か注意点とかあったんですかぁ?」
「そういえば、そうだったわ。栽培が難しいのをすっかり頭から抜けていたわ……。紅花は黄色い花でもあるからと、それだけで贈ってしまって……ごめんなさい。もし枯らしてしまっても気にしないでと、庭師には伝えてもらえる?」
 あれ? おかしいな……。
「私が読んだ紅花に関する本には、育てにくいなんて書いてなかったと思います」
 スカーレット様が首をかしげた。
「そんなはずはないわ。紅花の需要は高いので積極的に栽培しようという者も多いけれどなかなか収穫が増えない状態ですから」
 ポンっと手を打つ。
「あ、もしかしたら、土が違うから、金国では栽培しやすいのかもしれませんね」
 後宮の中庭は土の色を見れば、どこから別の宮の庭に入ったのかわかるほど違う。
 金国の土は光の加減で金に光っているように見えるくらい黄色っぽい。
 朱国の土は、赤っぽい。レンガを作るのに適した土らしい。呂国は黒っぽい土。栄養がたっぷりの自慢の土だ。
「栽培しやすい土? 金国では栽培しやすいというのは本当なの?」
 スカーレット様がエカテリーナ様を見た。
「聞いたことがないですぅ。紅花も初めて見ましたし。鈴華様は何の本を読んだんですかぁ?」
「苗子、楓に持ってきてもらうように伝えてもらえる? 紅花の金国の本と言えばわかるから」
 私の言葉に、スカーレット様が尋ねた。
「金国の本? 紅花に関するものがあるの?」
「はい。まぁ、本というよりは個人の日記のようなものでしたけど……。朱国で紅花で染めた布が高く売れると知った人が、一攫千金を狙って紅花染めに挑戦した記録」
 というか、もしかしたら本当に日記なのかもしれない。
 仙皇帝宮の地下図書館には、世界中のあらゆる本があると言っていた。
 ……個人の日記も、その個人の手を離れると本として地下図書館に入るの? ……読む立場からすれば嬉しいけど、書いた人からすると……。うん、深く考えないようにしよう。
「え? 紅花染めを? 方法は秘匿されているけれど……紅花染めができるようになったの?」
 スカーレット様が少し青ざめた。
「いいえ。結局やり方がわからないまま十年が過ぎて諦めたみたいです」
 と、そこまで話をしたところで楓が本を持ってきてくれた。
「ほら、この本です」
 パラパラとめくっていく。
「なんて書いてあるの?」
 スカーレット様が身を乗り出して本を覗き込んだが、金国の文字で書かれているため読めないようだ。
「これ、二百年ほど前の本なので、紅花染めには成功しないままだったみたいですし、誰かが研究を引き継いだということも書かれてません」
 パラパラとページをめくって最後のページを指し示す。エカテリーナ様が目を通して頷く。
「あら……なるほどですわねぇ。金国は二百年前も食べる物に困るような国だったんですねぇ……。花なんて作るなと、畑があるなら穀物を作れと命じられたとありますねぇ……それで一攫千金の夢は諦めたんですねぇ」
 スカーレット様がほっと胸を撫でおろす。
「よかった。秘伝の紅花染めの方法が秘伝でなくなってしまったら、それで生計を立てている者たちが困るところでした」
 スカーレット様の言葉に笑みが漏れる。
「国民の生活を考えてるスカーレット様好き」
 スカーレット様のほほが染まる。
「と、当然でしょ! 王家に生まれた者は国民の生活を考えるのが当たり前でしょ!」
 そうだよね。……私は本を読むことばかり考えていた。そう考えたらひどい姫だ。
 恥ずかしい。きっと、スカーレット様のような人が仙皇帝妃にふさわしいんだろうな。ますます応援したくなる。
「それで、この本に紅花の栽培についてぇ、いろいろ書いてあったのねぇ?」
「あ、はい……。いえ、そうじゃないですね。栽培に関してはほとんど何も書かれてないんですよ。つまりそれって、なかなか芽が出ないとか枯れてしまったとか、今年は収穫が半分以下だとかそういうことが何も起きなかったっていうことじゃないですか?」
 エカテリーナ様がなるほどと本を見た。
「十年で栽培の苦労話がなかったということはぁ、そういうことかもしれませんわねぇ」
「書いてあるのは、染める実験を繰り返していることなんですよ。花を乾燥させたり、つぶしたり、粉にしたり、何日も茹でたり、いろいろとしてみたそうなんですけど、黄色に染まってしまうって。赤い花を使っても黄色くなって赤くならないと、何度も嘆いてました」
 人の失敗を笑ってはいけないけれど、その様子が実に面白可笑しく書かれていた。
「黄色? それなら黄色い染め物に使えるということ?」
「いえ、それが、黄色には染まるけれどすぐに色が抜けてしまって染め物としては使えなかったそうなんですよ。色を定着する方法もいくつか試してみたものの、途中でそこまでの手間をかけても、他に黄色く染める方法はたくさんあり金にならないと気が付いて、赤色に染める研究に戻るんですよ。本当に、面白いですよ」
 スカーレット様が真剣な声音でエカテリーナ様に尋ねる。
「金国で紅花を栽培してもらうことはできないかしら? 赤の道が出来て流通が盛んになれば、輸送にかかる費用を差し引いてもお互いの国に益があるかもしれません」
 エカテリーナ様がうーんと眉根を寄せた。
「食糧の作付面積を減らして紅花栽培に切り替えるのは、難しいと思うわぁ。いくら、食糧を輸入できるようになるからといってもぉ、国で作る食糧を減らすわけには」
 そうだよねぇ。
 もし、他の国に頼り切りになってしまったら、その他の国が凶作だったときに、一番初めに飢えるのは食糧を輸入に頼り切っていた国だ。他国に回す余裕があればこその輸出なのだから。
 うーん、せっかく金国と朱国が互いにメリットがある取引が出来そうなのに、食糧問題かぁ。
「あ、でも待って、これこれ、見て」
 本を持ち上げて、記憶を頼りにパラパラとめくる。
「ほら、ここ。研究を始めて三年目。資金が底をつき、食うに困り始めてからの記録」
 エカテリーナ様が目で文字を追い出した。
「え? お腹がすきすぎて、紅花を食べたの?」
「はい。紅花って食べられるらしいです。毒もないってこの本のおかげで知ることができたんですよ! 黄色く染まることも」
 スカーレット様が黄色く色づけたもち米で作った団子に視線を向けた。
「ああ、これ……紅花で色を付けたと言っていましたわね」
「はい。今回は、色付けに使っただけですけど、その本によると、花も葉も食べられるそうなんですよ。しかも、食うに困って紅花ばかり食べていたのに健康だったっていうんで、栄養もあるんでしょうね。味に関しては何も書いてなかったので、食べてみないとわからないんですけど」
 どんな味なんだろう。
 とりあえず、色付けに使ったお菓子は、不快感を感じる臭いも味もしない。というか、紅花の臭いや味はどんなの? という特徴的なものをあまり感じない。味もあっさりしているのかもしれない。
「食べられて……栄養もあり、育てやすく……、紅花染めの原料になり……」
 エカテリーナ様が小刻みに震える手で本のページをめくっている。
「あ、そうだ! 種からは油がとれるらしいんです! 菜種油やごま油みたいに! 種ができたら、少し分けてもらえないですか?」
 スカーレット様でもエカテリーナ様でもどちらでもいいんでと言おうとしたら、エカテリーナ様が勢いよく椅子から立ち上がった。
「スカーレット様! 金国で紅花の栽培することになったら、紅花染めの材料となる部分……花なのか種なのか根なのか葉なのかわかりませんが、朱国で買い取っていただけますか? お値段などの詳細は相談するということで」
 スカーレット様が優雅に立ち上がった。
「ええ、もちろんですわ。朱国の土が紅花栽培に適していないというのが本当であれば、増産しようとしてもあまり期待できないということですから。栽培に適した金国から輸入できるのであれば願ったり叶ったりですわ。国内で消費できない紅花染めの布は他国に売ることもできるでしょうし」
「ほ、ほしいです! 紅花染めの鮮やかな赤い布!」
 はいっと手をあげる。
 呂国では赤は魔除けの色とされている。祭事に、鮮やかな赤い布は欠かせないのだ。
 私の言葉に、スカーレット様が大きく頷いた。
「エカテリーナ様、早速父に手紙を書きますわ」
「まだ、どうなるかわかりませんが、私も父に手紙を出しますわねぇ。それからぁ、早速本当に食べられるのか、油がとれるのか、実験してみようかと思いますの。乾燥して保存しても食糧となるのかなど、試してみなければならないことはたくさんありますわぁ」
 エカテリーナ様が、私を見た。
「この本、お借りしてもよろしいですかぁ?」
「えっと、その本は仙皇帝陛下よりお借りしたものなので……写本をすぐに作らせ、それをお届けしましょうか?」
 本の又貸しはだめ。借りたものを返すまでは私に全責任がある。
「いいんですか?」
 うんと頷くと、エカテリーナ様が私の手を取った。
「ありがとうございますぅ、鈴華様……。鈴華様のおかげで、新しい産業を興すことができるかもしれませんわぁ」
 深々とエカテリーナ様が頭を下げる。
「え? あの、私のおかげとかじゃないですよ、紅花をエカテリーナ様に贈ったのはスカーレット様ですし、このお菓子を作るために紅花の花をくださったのはエカテリーナ様でしょう? それに、えっと……」
 スカーレット様とエカテリーナ様が私に感謝しているのがわかる。
 感謝されて嬉しい。私が本で得た知識が役に立つのが嬉しい。本の妖怪……悪い妖怪じゃなくて人の役に立つ妖怪になれそうだ。
 でもね、でも、良い妖怪になれるのは……。
「私のほうこそ、二人には感謝しかないです。こうして、私の話を聞く時間を作ってくださったのが、本当に嬉しくて。確かに本を読むのはとても楽しくて大好きなんですけど……」
 ここ数日のことを思い返してみる。
「何を話そうかなと考えて、二人が退屈しない話って何だろうと本を探して、楽しんでもらえるかなって不安になったり、楽しんでもらえたら嬉しいなって期待したり……。本を読みながらも、ここの話をしようとか考えながら読むとまた違った楽しみがあって……」
 どうしよう。胸にぎゅっと何かが込み上げてきた。
 本の妖怪。それは決して褒め言葉なんかじゃなかった。
 本ばかり読んで何の役に立つのか。もっと姫としてするべきことがあるだろう。話が合わないからお友達にはなれない。不気味な女なんだから婚約は続けられない。何が楽しいのか。変わり者。変人。家族がかわいそう。婚約者がかわいそう。近づきたくない。いないほうがいい――。
 本当は、本を読むことに少し罪悪感を覚えることもあった。ごめんなさいって気持ちと、人と関わりたくないという逃げる気持ちと……。いろいろ考えることを放棄して、本を読んでいた。
 私は悪い子だ。自分のことしか考えられないのだから。役立たずというのも本当のことで。
「私……私……」
 ボロボロと涙が落ちる。
「鈴華、ちょっと何泣いてるのっ!」
 スカーレット様が、先ほど見せてくれた赤いハンカチで私の涙をぬぐった。
「私ぃ……本を読んでばかりで、役立たずでできそこないの……姫でぇ……そんな私が、誰かの、役に……役に立てたって思ったら……私……ひふっ」
 止まらない。涙が。
 二人への感謝の言葉を伝えたいのに、言葉がうまく出てこない。
 伸びてきた手にぎゅっと抱きしめられた。柔らかくて暖かい。
「私もよぉ……。仙皇帝妃になれと言われたけど、仙皇帝妃になれそうもなかったからぁ……役立たずだと言われてたのよぉ……だけれどぉ二人のおかげで……朱国の協力で赤の道が通ることになってぇ、呂国から食糧の輸入ができるようになってぇ……そのきっかけを私が国にもたらしたってことでぇ……。役に立てた……そのことがぁ、どれほど嬉しかったことか……」
「エカテリーナ様……わ、私、あの……」
 私と、私を抱きしめるエカテリーナ様ごとスカーレット様が抱きしめる。
「ああ! もうっ! 私だってそうだから! 妹がここに来ることを先延ばしにするくらいしかできなくて、ふがいない姉だとずっと思ってたんだよ。せめて仙皇帝様がどのような人なのかの情報を持って帰れたらとか、仙皇帝妃になりそうなのは誰なのかとか調べたりとかしたかったけどそれもできず。国のために何もできない役立たずだと思ってたんだから!」
 え? 私だけじゃないの? 
「でも、もうそれは過去の話。私はね、目標ができたの。国……朱国はもちろんのこと、八彩国すべてのために出来ることをしようって。仙皇帝妃を支えられる人になろうって。一年よ、私が後宮に残る一年の間に、必ず何かしらの成果を出そうと思っているの!」
 仙皇帝妃を支える人? 
「スカーレット様も、仙皇帝妃の侍女を目指すってこと? じゃあ、仲間になるのね!」
「いいえ、仲間にはならない」
 すぐに否定された。なんで? 
「ねぇ、鈴華、私は仙皇帝妃の侍女として合格かしら?」
「も、もちろんよっ! スカーレット様が侍女だったら絶対幸せよ?」
 スカーレット様が、なぜか苗子を見た。
「負けませんわよ?」
 あれ? 苗子は仙皇帝妃の侍女にはなれないって言ってたけど? スカーレット様はそれを知らないから、仙皇帝妃の侍女を争うライバルだと思ったのかな? 
「いえ、勝負するつもりはありません。むしろ、協力できればと思っております。仙皇帝妃誕生を心から願っておりますので」
 苗子の言葉に、スカーレット様がぽんっと手を打った。
「ええ、手を組ませていただきたいわ。相談する時間はあるかしら?」
「はい。ぜひお願いいたします」
 なぜかスカーレット様と苗子が仲良く話を始めた。
 え? 待って、なんで?
「わ、私は? 私は仙皇帝妃の侍女になろう仲間には入れてもらえないの?」
 苗子とスカーレット様が顔を見合わせた。
「寂しい? だったら、一緒に仙皇帝宮に行けるように鈴華も頑張ってくれるよね?」
「うん、頑張る! 苗子とスカーレット様と一緒に仙皇帝宮に行くためなら頑張るよ! 私は何をすればいいの? やっぱり侍女が無理なら下働き? 何だってするから!」
 苗子が口の端をあげた。
「何だって、ですか? その言葉に二言はございませんか?」
「もちろんよ。だって、後宮で働いている下働きの者たちの待遇を見る限り、仙皇帝宮でもひどい扱いはされないでしょう? 私、庭仕事で土をいじるのも、洗濯も嫌いじゃないのよ? あ、実際にしたことはないけれど……。本には国によって洗濯方法が違うのだけど、灰汁を使う国もあればムクロジという植物を使う国もあるし、高価な石鹸を洗濯に使う国もあるんですって。それに、足で踏むとか、振り回して石にぶつけるとか洗濯用の板を使うとか、本当にいろいろなの。どの洗濯方法が一番きれいになるか試してみたら楽しそうでしょう?」
 洗濯の方法をいろいろ試すのは許してもらえるだろうか? 
「うふぅ、ふふふぅ」
 突然エカテリーナ様が笑いだした。
「洗濯の方法はぁ、きっとどの国の王族もぉ貴族もぉ誰も気にしたことなんてないわよねぇ」
 しまった。変わり者の片鱗を見せてしまった。
「ですから、一番どの方法が綺麗になるかなんてぇ、考える人もいなかったでしょうねぇ」
 実際に洗濯する人は、日々疑問にも思わず洗濯をする。洗濯をしない人はそもそも洗濯について考えることもない。そう考えると、洗濯について本に書いた人も変わり者なのかもしれない。
 庶民の生活に興味を持った貴族が観察して記録を取った本だったかな。
「けれどぉ、もし、今までより早く安価に綺麗にする方法が見つかったとしたらぁ、洗濯にかける時間が短くなるでしょうねぇ、その浮いた時間に新しく別のことができるようになるのだからぁ、生産性が上がるわねぇ」
 へ? 
「なるほど。たとえ一日四半刻だとしても、その時間を別のことに使えるのであれば十日で二刻半。二刻半あれば、何ができるようになるだろうなぁ……」
 スカーレット様の言葉に、反射的に答えてしまった。
「読書!」
 スカーレット様とエカテリーナ様と苗子の冷たい視線が刺さる。
「例えば、刺繍を刺せますわよね?」
 刺繍は、嫌だなって気持ちが表情に出たのだろうか。苗子がはぁと小さくため息をついた。
「庶民であれば刺繍入りのハンカチ一枚でも作ればお小遣い稼ぎになるでしょうね。洗濯の時間が少し短くなるだけでも、生活が少し潤うかもしれませんね」
 庶民であれば? そもそもの前提が、洗濯をする立場の人だった。
 そっか。洗濯する時間が短くなればその分、内職ができるし、勉強ができるし、遊ぶこともできるんだ。

◆◆ ◆◆ ◆◆ ◆◆

「どの国のどの洗濯の方法が一番早くきれいになるのか……か」
 報告書を見ながら碧国の羊毛で作られたクッション性に優れた椅子に体を沈める。
「なんですか、レンジュ兄さん?」
 マオが執務の手を止めて俺を見た。
「ここではレンジュって呼ばなくてもいいと言ったよなバオ。ああ、お前も……お茶だ。休憩をとれ、せっかく俺が仕事を手伝ってるんだ。もうちょっと休め」
 補佐官の一人にお茶の準備を頼む。
「そうだな、番茶を頼む。あの菓子が届いただろう?」
 マオは……ああ、そういえば俺も最近はマオと呼ぶことが増えたなと苦笑する。マオ……猫。俺にとってはかわいい弟だからなぁ。バオ……豹というよりよほど合っていると思う。
 マオは、素直にペンを置くと向かいの椅子に腰を下ろした。
 すぐに、卓の上に湯飲みに入った番茶と、お菓子を載せた皿が運ばれてくる。
「これは? 色からすると金国のお菓子ですか? 形は呂国か藤国のお菓子に似てますが……」
 マオの問いにレンジュが頷いた。
「呂国の菓子だ。いや、正確には鈴華が考えた新しい菓子だ」
 鈴華の名前が出た途端に、マオの表情が和らいだ。
 弟はどうやら本当に鈴華のことが好きなようだ。……応援してやりたいという兄心と、誰にも渡したくないという我欲に心が揺れる。
 結局……大事なのは、鈴華の心だ。応援することも諦めることも奪うことも何もするつもりはない。今のところ、鈴華はまるっきり俺もマオも恋愛対象として見てないからな。だが……。
 大きなため息が漏れる。
 人の命は短い。時が止まる仙皇帝宮に長くいると時折そのことを忘れそうになる。
 鈴華は必要な人間だ。それは間違いない。
「報告書にある。その黄色は紅花の色だそうだ」
 マオが団子が二つ刺さった串を持ち上げる。
「この鮮やかな黄色が、紅花の色ですか? 紅花は確か朱国で鮮やかな赤い染め物の原料となる花ですよね?」
 団子を口に運ぶ。
 甘い味がつけられた黄色いもち米の、中に餡が入っている。これは胡麻餡だな。他に栗餡と小豆餡がある。食べてみるまでわからないところは改善の余地があると鈴華に伝えてみるか。
 それともわざとか? 鈴華ならば「食べてみるまでわからないのって楽しいでしょ? 本だって読むまで内容がわからないのが楽しみなんじゃない! 推理小説で犯人が初めからわかっていたらつまらないわよね?」と、わからない理屈で言い返されそうだな。
 鈴華の反応を想像して思わず笑ってしまう。
「兄さん? なんで笑うんですか? もしかして僕は間違ったこと言った? 需要が多いのに反して紅花の栽培が難しくいつの時代でも紅花染めの最高級品は布の宝石と謳われるものですよね? 紅花をめぐってたびたび争いも起きているという……朱国では他国への輸出品にしたいと思っているけれど紅花の増産がうまくいかない、でしたっけ。確か兄さんの時代にも紅花栽培への祝福を求める嘆願書が届いてたんだっけ?」
 苦笑しながらマオに答える。
「いや、何度かわからない。初めの二回以降は補佐官に同じ内容のものをはじいてもらっていたからな。もしかしたら毎年届いていたのかもしれないし、代替わりして終わったかもしれないし、よくわからん」
「まぁ、そうですよね。祝福と言われても、そんな都合のいい力はありませんしね」
 マオの言葉に、改めて鈴華のすごさに身震いする。
「そうだ、何代もの仙皇帝がなしえなかった紅花の増産だが、何とかなるかもしれない」
 鈴華に関する本日の報告書をマオに手渡す。
「土壌の違い? 金国が紅花の栽培に適している? 食糧にもなり油も作れ……花は朱国に売ることができるとなれば、食糧問題を抱えている金国が紅花の栽培を拒む理由はなくなりますね」
「そう、朱国も紅花染めの方法は独占しているのだから、紅花が手に入れば布の宝石を他国に売ることで損にはならないだろう。今までのような無用な争いがなくなり、価格も今よりは安定するのであれば悪い話ではないはずだ」
 マオが驚きに半開きになっている口元に手を当てた。
「いったい、鈴華はどうしてそのことを……」
 椅子の背もたれに体重を預ける。
「鈴華だからだ……。ろくに流通していない個人の日記のような二百年ほど前の金国の本を読んで知ったらしい」
 興味を持ったら本を読む。本を読んで実物で確かめたくなる。そしてまた本を読む。
 それが、役に立つとか立たないとかは関係ない。ただ、興味があるから本を読む。鈴華だから。
「紅花の花を金国の中庭で見て興味を持ったらしい。食べられるのかと早速試して出来上がったのがその団子だ」
 串を持ち上げ、団子を口に運ぶ。
「そして、金国の姫と朱国の姫に披露して話をまとめてしまった」
 マオがなんと言っていいのかわからない表情を浮かべている。
 そうだろう。何百年と……いや、下手をしたらもっと長い間、仙皇帝でもどうにもできなかった問題解決の糸口を鈴華が見つけたのだ。
「鈴華は……すごいね」
 マオの言葉に同意する。
「そうだな。鈴華はすごい……一緒にいて飽きない、初めはそれだけでも手に入れたいと思った。だが、鈴華の価値はそれだけじゃない」
 マオがやっと少し落ち着いたのか、はぁと息を吐き出した。
「洗濯の話も、鈴華ならでは」
「貴族も王族も洗濯の仕方すら知らないのが普通だからな。洗濯に関して仙皇帝宮で議題にあげた者など過去に一人もいないだろうな」
 もちろん、下働きの者たちの間では会話に出てくるかもしれないが、改革しようと意見を述べた者などいないだろう。
「鈴華の話から、役立つことだと気が付く朱国の姫と金国の姫も得難い存在ではある」
「そうだね。鈴華の話を、そうなんだと聞くだけで終わる者も多いはず。だけど、やっぱり鈴華がすごいんだ。いくら本が好きだからって、どうしたって読む本に偏りが出るだろうし、それに……自国の本を読むだけで満足しそうなところ」
 マオもやはり気が付いたか。
「そうだな。あいつはまさに本の妖怪だ。独学で八つの国の本が辞書を使いながらとしてもすべて読めるなど……人の何倍も生きている仙皇帝宮に仕える者にも何人いるか……」
 共通言語を使えばお互いに不便がないため、他国の言葉をそこまで身につけようという者は少ない。せいぜい三つか四つだ。重要だと思われる本は、共通言語に翻訳されたものがある。それだけでも本の量は膨大だ。
 翻訳されていない……つまりは取るに足りない本だと判断されたものを読もうとする者がどれほどいるのか。他国の言語の個人の日記を読もうとする者がいるのか。
 洗濯の方法を知るために、八か国の本を読んで比較する者がいるだろうか。文字が読める階級、複数言語が読める階級の者は洗濯などしない。
 特異な人間なのだ鈴華は。
「鈴華は仙皇帝宮に必要な人間だ。仙皇帝を支える、いや、世界を救うことができる……かもしれない」
 なぜか、言い切ることができなかった。鈴華は良くも悪くも予想ができない。
 好きに生きていれば知らない間に世界を救っているような気もするし、世界を救ってくれと言われて空回りして何もなしえないような気もする。
「僕は……必要だからと、仙皇帝妃にふさわしいからと……利用するような真似はしたくない」
 マオが顔をゆがめた。
 そうだな。自由を奪われ、鈴華の良さが消えてしまうこともある。
「利用……か。確かにその一面はあるが、取引であればどうだ? 鈴華ならば、本を好きなだけ読めると条件を出せば利用されているなんて思わないだろう。ウィンウィンの持ちつ持たれつの三方良し、あー、碧の国ではギブアンドテイクって言うんでしょって言うんじゃないか?」
 俺の言葉に、マオがちょっと笑った。
「相互利益よ共存共栄かしらと言うかも?」
 マオは一瞬明るい表情を見せたものの、すぐに表情を曇らせた。
「……でも……」
 全く。人の人生の何倍も生きているというのに、心だけは成長してないんだよな、見た目のままだ。そこがかわいいっちゃかわいいんだが。
 ぐりぐりと頭を撫でる。
「好きになってもらいたいなら、時間をかけるしかないだろ、鈴華だぞ? 恋だの愛だのを理解するまで何年かかると思う? 俺は、長期戦を覚悟してるぞ?」
 励まし半分、挑発半分の言葉を口にする。
「……長期戦か。でも……すぐに次の姫に入れ替わるよね」
 挑発に乗りやしないな。後ろ向きなことばかり言っている。
「鈴華は必要な人間だろ? いくらだってやりようがある。仙皇帝宮に来さえすれば、年は取らないのだから、十年でも百年でも口説き続ければいいだろう」
 マオがぼそりと口を開いた。
「千年の恋か……それもいいかも」
 おいおい、さすがにそれは長期的すぎるんじゃないか? 
 ちょっと弟が心配になる。いや、まぁ、我慢強いというか真面目なんだよな。マオは。だから本当に鈴華の気持ちを優先しすぎて千年こじらせるかもしれない……。
「でも、どうやって仙皇帝宮に来てもらうの? 女人禁制なのに……」
「女人禁制なのは、仙皇帝妃がいない間だ。つまり、仙皇帝妃さえ決まれば、妃の世話をする女性はいくらでも招き入れることができる。仙皇帝が結婚すればいい」
 マオがムッとする。
「そんな不誠実なこと、仙皇帝妃になる者にも鈴華にも失礼だ」
 まぁ、そうだろうな。
「あとは、俺の嫁になれば仙皇帝宮に入れる」
「兄さんっ!」
「あはは、もちろん無理強いするんじゃなくて、名目だけでも嫁になれって言ってるんだが、鈴華も真面目で根が優しすぎて俺を利用するのは悪いって頷きやしない」
 利用すればいいのに。俺も、鈴華を利用しようとしてるんだから。
 ……ああ、そうか。マオは鈴華と、鈴華はマオと……似てないようで、根っこの部分は似ているんだろう。
「兄さん……僕が、既婚者になった鈴華を口説いたりしたら、鈴華に嫌われるよね?」
「あはは、そうか? 貴族は結婚して世継ぎを生みさえすれば自由恋愛の許され……」
 マオが本気で怒りをまとった。
「俺もお前も結婚せずに、鈴華を仙皇帝宮に入れて長期戦をする方法もあるぞ?」
 マオが怒りを収めて期待に満ちた目を向ける。
 鈴華の優しさにつけ込む形にはなるが……。それでも、双方にメリットはあるだろう。
 どうやら、苗子をはじめとした黒の宮の面々は協力してくれそうだし。
「スカーレットとエカテリーナも、満更じゃないだろうしな……」
 周りを固めるとはこのことかと。
「なっ、どうするつもりですかっ!」
 マオの頭をぐしゃっと撫で、計画を口にする。