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俺しか使えない『アイテムボックス』がバグってる 1
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俺しか使えない『アイテムボックス』がバグってる 1

著者:十本スイ イラスト:風花風花

プロローグ  【原初】

 見果てぬ荒野。そんな無限に広がる荒れ果てた大地の上に、一人の少女が異形とも呼べる存在に囲まれてなお堂々と佇んでいた。
 少女の風貌もまた異質であり、白銀に輝くクロスを纏い、その全身からは凄まじいオーラが立ち昇っている。
「―《ブレイヴナックル》ッ!」
 オーラが収束された拳を、異形の存在たちに向かって放つ。その威力はさながらミサイルのごとく、攻撃を受けた異形たちが破裂したように弾け飛んでしまった。
「……っ! この感覚は……」
 少女は何かを感じ取ったかのように不気味に黒ずむ空を見上げる。すると視線の先の空間が歪みはじめ、そこからまたも巨大な異形が姿を見せる。
「いよいよダンジョン主の登場ってわけッスか」
 少女の表情が引き締まる。同時に背後から異形の存在たちが吹き飛ぶ音が聞こえた。振り向くと、そこには“漆黒のクロス”を纏う少女が一人。
 その少女はゆっくりと近づいてきて目の前で相対することになった。
 そして―。
「こんのっ、バッカモンがぁぁぁぁっ!」
「いったぁぁぁぁぁいっ!?」
 突然漆黒のクロスを纏った少女に拳骨を見舞われ、痛みに声を上げてしまう。
「い、いきなり何するんスかぁっ!?」
「うるさいわ! また一人で無茶しよってからに!“ダンジョン”に行くときはワシに声をかけろとあれほど言っておいたじゃろうが!」
「うぅ……でもでもぉ」
「でもじゃないわい! とにかくワシは怒っとるんじゃ!」
「…………ごめんなさいッス」
「フン! わかればいいんじゃわかれば! まあ、お主の気持ちもわからんでもないしのう。……それで? あやつが主かのう?」
 漆黒のクロスを纏った少女が空を仰ぎ、そこに在する巨大な異形を睨みつけた。
「うん。アイツが主ッス。アイツを倒せばきっと……」
「そうか……ならやるしかなかろう」
「手を貸してくれるッスか?」
「愚問じゃな。ワシらはそのためにここにおる。そうじゃろ、勇者殿?」
「う……恥ずかしいッスからそう呼ばないでほしいのに……」
「カッカッカ! 衆生からのありがたい二つ名じゃて。それにその名はお主にピッタリじゃとワシも思うぞ」
 照れ臭くなり赤くなる少女だったが、直後に天から覗く異形の咆哮が地上へと飛んできた。反射的に二人は揃って気を引き締め直す。
「ではそろそろ参ろうかのう、勇者殿?」
「うん! 一緒にアレを倒すッスよ! もうこれ以上……誰も死なせたくないッスから。ここで終わりにするッス!」
「…………死ぬでないぞ」
「そっちこそ。絶対に生きて帰るッスよ……“千ちゃん”!」
 二人同時に空を翔けるようにして疾走していく。
(これですべての悲劇を終わりにするッス! それにもしボクたちが負けても、ボクたちの遺志を継いでくれる人たちがきっと―)
 これはたしかに存在した伝説の一幕。
 世界を救った英雄たちの軌跡。
 初代勇者と呼ばれた少女が、その拳に想いを乗せて紡いだ物語―。

第一章 転生と特典と

 俗にいう転生特典と聞くと、人はどんなものを想像するだろうか。
 もちろん転生なんてファンタジーだけの話と言われてしまえばそれまでだが、誰もが一度は夢想したことはないだろうか。
 異世界転生したら、自分にはどんな特典が付与されるのだろうか、と。
 物語に出てくる勇者のような力を望むか。ダークヒーローが持つような闇の力を望むか。自分だけが持つユニークな魔法やスキルを望むか。はたまた使い切れないほどの巨額の金銭を得ることや、圧倒的なイケメンや美女に生まれることを望むかもしれない。
 望むものは人の数だけ存在すると言えるだろう。
 ただ、転生するパターンもいろいろあると思う。
 死んだと思ったら異世界で赤ちゃんになっていたとか、自分がやっていたゲームのキャラクターとして生まれ変わるとか、同じゲーム世界でも悪役令嬢の幼児期に不意に前世の記憶が蘇ってきたなどというのもある。それこそさまざまだ。
 しかし、そのどれもがやはりファンタジーな世界が王道だ。そして何かしらのチート的な能力を授かり転生する。
 物語の主人公として、相応の力を持つのが当然なのだ。そうでなければ物語が成立しないのだから。誰が平々凡々で起伏のない人生の物語を見たいだろうか。
 長々と語ったが、つまり何が言いたいかというと、転生するなら、やはり次の人生を存分に楽しめるような魅力的な能力があれば最高だよね、という話である。その上で、ゲームに出てくるような異世界ファンタジーならなお嬉しい。魔法やスキルとか憧れるし。
 だが当然ながらそんなものは現実には起こり得ないことというのは周知の事実……だったはずなのだが……。
(…………まさか自分が経験することになるとはなぁ)
 意識を覚醒させると、六歳児の身体で子ども部屋らしきところに立っていた。
 キョロキョロと周囲を確認する。部屋としては小さいが、幼児には十分な広さだ。しかし気になるものが幾つかある。
 天井には文明の利器である電灯が設置されており、本棚には見慣れた文字で書かれた絵本が何冊も収納されている。
 また部屋の隅にはエアコンがあり、その下の壁にはカレンダーが見える。そこには間違いなく西暦と思わしき年数と月日が記されていた。
「……え? ここ……現代日本なの?」
 どうやら自分は異世界ファンタジーではなく、前世と同じ日本に転生したらしい。
 ―自分は一度死んでいる。
 己の死は明確に覚えていた。自分―沖長が乗っていたバスがジャックされ、その犯人が捕まりそうになったことで自暴自棄になり、持っていた銃を乱射したのである。そしてその銃が幼児に向けられたとき、咄嗟に身体が動いて、その子を庇った結果、銃弾が自分の胸に命中してしまったのだ。
 激痛とともに全身の力が抜けていくのがわかった。同時に理解した。ああ、これはもう、ダメなヤツだと。自分の死を実感し、意識が遠のいていった。
 しかし次に覚醒したときは、目の前にまさかまさかの“神”と名乗る存在がいた。さらに言えば自分の周りには、なぜかあのときバスに乗っていた数人の男女もいたのである。
 なんでも神が言うには、こちらの手違いで沖長たちが犠牲になってしまったとのこと。それを聞いて暴言を吐きまくる奴や、泣きじゃくる奴、絶望に苛まれる奴などがいた。
 ちなみに沖長はどこか達観しており、「そういうこともあるかー」と、どこか他人事のように思っていた。
 実際死んでしまったのだから、誰かを恨んで怒っても無意味だ。そんなのしんどいだけだし、その代わりに天国があったら行かせてくれればいいなと適当に考えていた。幸いにも自分を育ててくれた両親はすでに他界していたし、家庭も持っていなかったので、後顧の憂いなどなかった。
 まあ強いてあげれば、まだ三十代半ばと若かったし、食べることが好きだったから、もっといろんなグルメを堪能したかったという思いはあったが。
 それでも普通オブ普通な、特筆すべきことが何もない人生だったから、最期に激的な終わりを迎えた事実は、ほんの少しだけ物語の登場人物になれたみたいで嬉しかったりした。
 そんなことを考えていると、神がお詫びとしてある世界へ転生させるという提案を出してきた。それを聞いた数人は。
「やったぜ! ●●の世界なんてツイてる!」
「マジで!? じゃあハーレム作り放題じゃん!」
「ククク、僕の時代が来たようだね。実に楽しみだよ」
 などと、手の平を返すように上機嫌になっていた。
 しかも神様が、それぞれ転生の際に特典を授けると言うと、賑わっていた連中がこぞって神に詰め寄り我先にと欲望を曝け出していた。
 最強の魔力や武力、洗脳や透明化のスキル、ニコポ・ナデポ(古い)、巨万の富や絶対的な幸運、不老不死や万能の知識などなど、次々と出るわ出るわで、沖長も聞いているだけで呆気に取られてしまう。欲張りにもほどがある。
 そんな連中にタジタジになる神を見ながら、沖長は「神も大変なんだなぁ」と思いつつ、自分もまた他の人間たちと同様に特典について思案していた。
 するとさすがに横暴がすぎたのか、神の怒りが発動し、適当に彼らに特典を授けると、さっさとこの場から追放していった。聞けば転生先へ送り出したとのこと。
 そして最後に残ったのは自分だけとなり、神の怒りに触れたことで自分も適当に送り出されると覚悟していたけれど、神はなぜか欲しい特典について尋ねてきたのである。
 本来なら手違いとはいえ、神が選んだ特典を与えて転生させるだけでも十分すぎる対価になっているらしく、あれほど醜く欲望を曝け出した者たちにはすぎた対応だと愚痴っていた。
 なら自分もそのように対応してくれればいいと沖長が言うと、どうやら自分に関してはまた特例処置を施してくれるとのこと。しかも特典は二つ与えてくれるという。
 死に際に幼い子どもを守ったことで、徳を積んだというのが理由らしい。やはり生きているうちに良いことはしておくものだ。
 そういうことで沖長は、考えていた特典を口にした。
【寿命を全うできるような丈夫な身体】
 まずはこれだろう。前世では虚弱体質だったため、スポーツとかで活躍できる人を羨ましく思っていたので。あとは健康的に過ごしたいから。病気とか怖いし。
 そして二つ目は―。
 こうして沖長の願いは聞き届けられ、転生の時間が迫ってきた。
 そして、いざその時間がやってきた直後のことだ。
『そっちの世界は大変だろうけど、できるだけフォローはしたつもりである。楽しんでくれたら何よりだ』
 その言葉を受けた瞬間に視界はブラックアウトし、気づけば六歳児の身体になっていたのである。
(……とりあえずいろいろ整理しよう)
 周りから集められる情報で、まず間違いなく、ここが現代日本であることは理解できた。どこにもファンタジーの要素はないし、なんで六歳児なのかということ以外は特に問題はないだろう。
 最後の神の言葉から、生き抜くのに大変なファンタジーな世界に転生するものだと勝手に思い込んだ。しかし、それも杞憂だったようで、現代日本ならばそうそう危険な目には遭わないだろうからホッとしてもいる。
(まあ、異世界にも憧れてたけど、こればっかりはワガママいってもなぁ)
 それに物語のように死の危険が多分にある世界だと、当然生存率も落ちる。考えてみれば現代日本で人生をやり直せるのだから十分以上に幸運かもしれない。
 それに……と、自分の身体を軽やかに動かしていく。しかも飛び跳ねたりなんかしても息が切れない。
「おぉ、マジで丈夫そうな身体だな!」
 転生特典の一つ目が、しっかり反映されているであろうことを実感し嬉しくなる。
 これならスポーツマンを目指すこともできるだろう。いや、前世ではできなかったが、やってみたいと思っていた山登りができるかもしれない。
 自分は山という存在が好きだ。あの堂々として大きな存在感に勇気をもらえる。いつか日本の代名詞ともいえる富士山を登頂したいと思っていたが、いかんせん虚弱体質の自分には過ぎた願いだったのだ。 
 だが、これからはしっかり準備を整えれば挑戦することができるかもしれない。それが本当に嬉しかった。もうワクワクが止まらない。
(あ、そういや今の名前は……)
 不意に今世の自分の名前が気になった。するとこれまでの五年間の記憶が朧気ながらも脳裏に浮かび上がってきた。
「……って、名前一緒なのね」
 どうやら今世の名前も前世と同じ沖長らしい。まあ慣れ親しんだ名前なので良しとする。ちなみに苗字は“札月”というらしい。変わっているが特に気にしていない。
 父と母は前世とは別みたいだ。そう思っていると、「入るわよ~」と間延びした声音とともに扉が開かれた。
 そこから現れた人物こそ、今世の自分の母である札月葵。ほんわかした優しい雰囲気を纏うスタイル抜群の女性だ。思わずドキッとしてしまうほどに。
(お、落ち着け、自分の母親なんだから!)
 そう言い聞かせ、慈愛のあふれる笑みを浮かべながら近づいてくる母を見つめ続ける。
「どうしたの、そんなに見つめてきてぇ。あ、もしかして抱っこしてほしいのかなぁ?」
 言いながらもこちらの許可を得ずに、軽々と抱き上げてくる。
 確かな温もりと女性特有の柔らかさに良い香り。しかし、どこか懐かしく心が穏やかになっていく自分がいる。
「もうすぐパパも帰ってくるからねぇ……あ、噂をすれば」
 玄関のある方角から扉が開き、「ただいまー」という男性の声が聞こえてきた。
 そしてそのままこちらに向かって足音が近づいてくる。
「お、二人ともここにいたんだな、ただいま」
「おかえりなさぁい、あなた」
 誰だこのイケメン、とツッコミを入れそうになった。いや、自分の親父なのだが。
 しかし、それほどに逞しい身体つきをしたアスリート系のイケメンだった。記憶によると水泳の世界選手権で名を残すほどの人物らしい。今は水泳選手を引退しスイミングスクールを経営しているようだ。
 父―悠二と母は互いに近づくと軽く口づけをかわす。どうやらラブラブのようで何よりだ。
 俺は父に抱かれながらリビングへと向かう。
(このガチムチ感、抜群の安心感を覚えるなぁ)
 自分もこんなふうにガッシリとした体格になれると嬉しいなんて思っていると、テレビの前にあるソファで降ろされ、そのまま隣に座った父と一緒にテレビを観ることになった。だがそこで前世との違いに気づく。
(あーやっぱ知ってる芸能人はいないか)
 父がチャンネルを変える度に現れる人物たち。その誰一人として知らなかった。どうやらここは現代日本ではあるが、前世とはまた違うパラレルワールドであることを知る。
(これじゃあ、俺が知ってる競馬とかで大儲けはできないね、残念)
 そんなに詳しくはないが、それでも超有名な名馬がどの賞レースで一位を獲ったかくらいは記憶の片隅にあった。しかし世界そのものが違っている以上は、その記憶は役には立たないだろう。
(けど俺が知ってるアニメとか漫画もないのかなぁ。だったら凹むわぁ)
 日本の文化といえばアニメと漫画。そう世界に誇れるくらいに盛んだったし、沖長もまた大作といわれるものは、ある程度は目を通している。
 なかには何度観ても感動を覚えるものもあるし、永遠に語り継がれてほしい名作だってあった。それが失われたのならさすがにショックである。
(まあでも、この世界でも新しいものに出会えるかもしれないしなぁ)
 そのあとすぐに父に連れられ、一緒に風呂に入ることになった。
 風呂場にあった鏡で初めて自分の姿を確認して、外見は前世とは全く違うことに気づく。前はイケメンでもブサイクでもないどこにでもいるような顔立ちだったが、今は美女と美男のDNAを受け継いでいるお陰か、それなりに整っていた。
 どちらかというと母親似であり、垂れ目で瞳が大きく愛らしさが強い。沖長としては男らしい精悍な顔つきである父に似たかったが。
 そうして風呂から出たあとは、母が作った料理を食べることに。
 食事のあとは、また父と一緒にテレビを観ながらの談笑。そして午後九時になると、さすがに六歳児らしく眠気が襲ってきたので自室へと戻っていった。
 ベッドの上で横になりながら、少しの間だけ思考に耽る。
(……いい家族だなぁ)
 別に前世の家族が悪かったわけではない。どこにでもいるような一般家庭だった。ただ自分が三十代に入った頃に両親が事故で他界してしまった。
 これから稼いで親に恩返し、という矢先にいなくなったことで胸にポッカリと穴が開いたのは覚えている。だからか、でき得ることなら、次に生まれ変わったらキッチリ恩返しできればいいと思っていたのだ。
 それもこんなに早く機会が巡ってくるとは思わなかったが。
(今度は無事に長生きしてもらいたいな)
 それを心から願う。そして育ててもらった恩返しを、前世の家族の分まで今世の家族にしていきたい。
 幸いにも健康的で丈夫な身体を望んだから、怖い病気とかで両親より先に死んで悲しませたりはしないだろう。
(あーそういやまだ“アレ”の確認もしてなかったな。でも……今日はまあ……いいや)
 さらに強い眠気が襲ってきたため、自然と瞼が閉じて意識が闇に沈んでいった。
 朝に目が覚めると、今日は日曜ということもあり、家族で出かけることになった。行き先は近くの堤防。そこで父が趣味としている釣りをすることになっている。
 ただ、母はそれほど釣りが好きなわけではないので、父が釣りに興じている間は、そばにある砂浜で沖長と一緒に遊ぶことになった。
「ほらほらぁ、見て見てぇ、沖ちゃん!」
 母とどっちが立派なサンドアートを作るか競っていたのだが、名前を呼ばれたので視線を向けてギョッとした。
 なぜなら、そこには精巧な名古屋城が出来上がっていたからだ。
(え、ウチのオカン……すごすぎない?)
 今は専業主婦をしているが、元々母は美容師をしていたらしい。手先が器用な職業だとはいえ、ここまで見事な城を作り上げるのは才能でしかないだろう。
 堤防のほうを見ると、父がこちらを見て手を振っていたので振り返す。せっかくだから大物でも釣ってほしいものだ。
 今度は母と二人で磯の方へ向かってのんびりすることにした。
「気を付けるのよぉ~」
 波の影響がほとんどない場所ではあるが、それでも水場でもあり滑りやすくもなっているので注意して遊ぶことにする。
 とはいっても本当に遊ぶわけではない。いい機会だから自分のもう一つの能力を試そうと思っていたのだ。ここなら他に人気もないしやりやすい。
 岩と岩の間や、水の中をジックリ観察する。そこには貝や小魚、小さなカニなんかも発見することができた。
(う~ん、この能力は生物には使えないんだよなぁ)
 少なくとも沖長が生物だと認識しているものに関しては使用不可という制限がある。
「……お、あったあった」
 そこにはどこかから流れてきたであろうペットボトルや駄菓子の袋、釣り糸やウキなんかもある。まさに海のゴミと呼ばれるものだ。こういうのを見ると、人間が海を汚していることがよくわかる。ジッとそれらを視界に収めつつ……。
「―“回収”」
 そう呟くように口にする。それと同時に、その場からそれらが一気に消失した。
「お、おぉ……マジで成功した」
 次に一応試してみようと、ノコノコと岩礁の上を歩くカニを見つめながら回収しようとしたが、やはり発動せずにカニはそのまま平然と水の中へと消えて行った。
(とりあえず間違いなく転生特典は機能していることは確認できたな。あとは……)
 離れた場所で、岩に腰を下ろして休憩している母をチラリと見る。彼女は寒そうに両手に息を当てながら、悠二を気にしつつも時折こちらにも視線を送っていた。
(これだけ離れてるなら大丈夫かな?)
 そう思い、今度は―。
「―《リスト》」
 その言葉と同時に目の前に出現したのは、ゲームのステータス画面のようなもの。
 そこには《アイテムリスト》と書かれていて、“新着”やら“カテゴリー別”などの複数の枠があり、その下には先ほど回収したものの名が刻まれていた。
(お、これはわかりやすいな。それに検索もできるみたいだし)
 検索の枠を押すと、マイクのようなマークが出てくる。音声検索ができるようだ。
 もうおわかりだろう。これが、沖長が神に願った二つ目の特典。
 その名も―《アイテムボックス》。
 どこへ行くにも手ぶらで行けるし、いつか山登りや旅をしたいと思っていた沖長にとっては何よりも便利で嬉しい能力だ。それにもし異世界ファンタジーに転生しても、運び屋とか素材回収などに大いに役に立つと思ったのだ。
 たしかに勇者のような最強の力や、火や水を生み出す魔法といったものに興味はある。しかし平和な世界になったときに、そのような力が本当に役に立つのかと思うと首をひねらざるを得ない。
 それよりものんびり第二の人生を楽しむだけなら、どんな世界でも便利に活用できる能力が良いと思ったのだ。この力なら、使い方次第でもいろいろ楽しめるだろうし。
 そうして改めて回収したものを見る。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
F ペットボトル(500ミリリットル・ゴミ) ∞
F 駄菓子の袋(ゴミ) ∞
F 釣り糸(三号・ゴミ) ∞
F 蛍光玉ウキ(四号・ゴミ) ∞
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
 いろいろ気になることがある。
 まずそれぞれの名称の前についている“F”というのはなんなのか。
 すると、それはすぐに解明することができた。先ほど確認した“新着”などの枠の延長線上に“ランク別”というのがあったのだ。そこに指で触れると画面が切り替わり、今度は“A”やら“D”などのアルファベットが刻まれていることがわかる。
 そこに“F”もあったので押してみると、白紙だった画面にまたさっきと同じペットボトルたちが浮かび上がる。
 どうやら回収したものそれぞれにランクが自動で付けられるらしい。こういう場合、“S”が一番高いことが多いが、よく見るとやはり一番端に“S”があった。
 そして“F”が“S”と逆側の端に位置しているということは、まず間違いなく最低ランクなのだろう。まあゴミクズだから当然といえば当然だろうが。
(誰がランク付けしてんだろ? 神か? ……まあいいや、貴重さがハッキリしててわかりやすいし)
 もっとも、こんな便利機能は望んでいなかった。検索システムもである。
 沖長が望んだのは―。
【便利で使い勝手の良いアイテムボックス】
 これをどう解釈してくれたのか、質問する時間もなかったためわからないが、今のところ不満はないので問題ない。
(次は……このマークだよな)
 名称の最後についている“∞”のマーク。普通だったら何個所持しているかを表す数字だと思う。
(……! いや待てよ、数字……じゃなくてこれ無限を示す記号か?)
 そう思いついてすぐに考えを捨て去る。なぜなら回収したのは個数にすると全部で六つだ。ペットボトルが二個でウキも二個。だったら“2”と書かれるのが普通だ。
 ならこのマークは一体どういう意味なのか……。
(そうか、取り出してみればわかるよな)
 ペットボトルの文字に触れると、また別画面でペットボトルの説明欄が出現し、さらにそこには困惑する文字が存在した。
“使用”“消去”“再生”
 まず“使用”はわかる。これは取り出して使うことを示しているはず。だが残り二つが困惑の原因だ。 
 確認してみると、どうやらこの“消去”は文字どおりリストからの消去。外に捨てるのではなく、存在そのものを抹消するらしい。消えたものがどこに行くのかはわからないが、考えようによってはとてもエコな便利機能だった。
 そして残った“再生”とは、想像以上にとんでもない機能を備えていた。
 なぜならこの機能―破損したり中古だったものを新品に戻すことができるからだ。
 つまりグシャグシャだった使用済みのペットボトルを、きれいな新品にすることが可能なのである。
(な、何そのチート……?)
 思わず顔が引き攣ってしまった。
 だってそうだろう。この機能さえあれば、たとえ修理不可能だと烙印を押されたものでも新品で戻ってくるのだ。便利とかそういう言葉では表現できないほどの奇跡である。
 ただし中身までは再生することができない。元々ペットボトルに何かが入っていたとしても、その中身の液体などは再生することは不可能らしい。そして、それは駄菓子の袋にも言えることであり、できることは見栄えを整えることだけのようだ。
(それでも壊れたものが直るんなら十分すぎるけどな)
 当然こんなチートを要求したつもりはない。沖長としては、自在に物を収納して取り出せるだけのものをイメージしていたから。
「……と、待てよ。じゃあこの記号……マジで無限ってことなんじゃ……」
 そしてとりあえず“使用”を押して目立たないウキを取り出してみることにした。すると【×1】と表示が現れ。その上下には矢印があった。
 恐る恐る上部の矢印を押すと、【×2】となり、通常ならここでストップするはずだが……押し続けていると、どんどん数字が上がっていく。
「………………」
 そうして【×2340】になったところで、沖長はフッと静かに笑みを浮かべると、いったんリスト自体を閉じた。そして力強く立つと深く息を吸って……。
「どんだけだよぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
 全身を震わせながら、天に向かってツッコミを入れたのであった。
 声を上げたせいで母には心配されたが、なんとか誤魔化すことに成功し、今はとりあえず心を落ち着かせる意味でも、《アイテムボックス》についての思考はいったん放置して、親子の時間を楽しんだのであった。
 ―翌日、午後一時。
 昼食を食べたあと、外で遊んでくると母に告げて出かけた沖長は、散歩がてら新たな回収物を増やすために街中を見回っていた。
 道を歩けば、さまざまなものに目が向かう。石ころや雑草なども随時回収していく。石ころはともかく、雑草のなかには口にできるものもあるし、手に入れておいて損ではない。一度手にすればリストのテキストを確認して、対象の正体も掴めるので本当に便利だ。
 これなら無人島に放り出されても、そこらへんに生えている野草やキノコなどが食用かどうかも判断できて飢えを凌げるに違いない。もっとも、そんなサバイバルはゴメンだが。
 それにあれからいろいろ試してみた結果、ボックス内は時間の概念がないのか、入れたものが経年劣化しないことも理解できた。つまり食べ物は腐らないし、熱いものは熱いまま、冷たいものは冷たいまま。本当にとんでもないバグさ加減である。
 そのまま土手がある方へ向かう。そこならさらに食べられる野草があるはず。
 土手に上がり、その先の河原に視線を向ける。あちこちに野草が生えていて、今の沖長にとっては宝物に見えた。
 土手を降りていき、他人に見つからないように野草を頂戴していく。またゴミなども捨てられていたので、せっかくだからとそれも処分するために“回収”しておいた。
「いやぁ~、いい仕事したなぁ」
 ひとしきり目ぼしい野草をゲットして河原の方へ出ると「ん?」となる。
 視線の先には、河原の近くで寂しそうに座っている一人の少女がいたからだ。歳は沖長とそう変わらない。また気になったのは、なぜか道着らしきものを着用していたこと。柔道着か空手着なのかはわからないが。ただ帯は白いので、初心者なのかもしれない。
(なんだあの子……ものすごい哀愁が漂ってるんですけど……?)
 まるで疲れ切った中年サラリーマンのような背中。表情はさすがに中年のそれではないが、それでも明らかに意気消沈している様子だ。 
 親に怒られて家出でもしてきたのだろうかと思っていると……。
「―やっぱここにいたか、ナクル!」
 突然現れたのは日差しを浴びてキラキラと輝く銀髪をした同年代の少年。
(え? 銀髪……外国人?)
 一瞬そう思うほどに日本人離れした整った顔立ちをしている。きっと成長すれば極上のイケメンの出来上がりだろう。
 名前らしきものを呼んだということは知り合いなのかと思ったが……。
「え……だ、だれッスか?」
 少女の困惑する様子を見ると、どうもそうではないようだ。
 さらに―。
「おい、そこのお前! 俺のナクルに近づくな!」
 また一人の同年代の少年が現れた。しかも、この子も赤髪でオールバックという日本の子どもらしさの欠片もない髪型をしていて、銀髪少年と負けず劣らずのイケメンだ。
 俺のナクルと言った手前、こちらは本当に知り合いかと思った矢先……。
「し、しらない子がふえたッス……」
 どういうことかわからないが、また見知らぬ人物だったようだ。
「はあ!? 誰がお前のナクルだよ! ナクルは俺のものだ!」
「黙れよ! ナクルは俺の嫁の一人になるんだ! 邪魔するな!」
 二人が互いに掴み合って視線で火花を散らす。
(…………どういう状況なの?)
 突然現れた少年二人が、一人の少女を取り合っているが、その当人は初対面らしい。
「し、しらない子たちが、ボクのなまえをよんでるッスよぉ……」
 それはとても怖いよねと、思わず震える少女に同情してしまう。
 沖長だったらそんなストーカー野郎どもからさっさと逃げるが、少女は恐怖に慄いているのか徐々にあとずさっているだけ。
 しかし、その状況はとてもよろしくなかった。なぜなら少女のすぐ背後には河が流れている。そのままドボンということになったら大変だ。ここの河はそれなりに流れもあるし水深もあるから夏でも遊泳は禁止されている。
 二人の少年はいまだに睨み合っていて、少女の身の危険に気づいていない。
 するとその内の一人―赤髪が、あろうことか銀髪の顔面を殴り飛ばしてしまったのだ。
 それに驚いた少女は、「ひゃっ!?」と声を上げてさらに大きくあとずさった。そこで恐れていた事態が起きる。一歩後ろに踏みだした足の先、そこには大きめの歪な形をした石があり、それを踏んだことで、石が傾いて少女のバランスを崩してしまったのである。
 その結果、大きく後ろによろめいた少女は、そのまま河へと吸い込まれていき、少女もまた覚悟したように目を閉じた……が、少女の動きがそこでピタッと止まる。
「ふぅ~、ギリギリセーフ」
 すんでのところで少女の手を掴んで落下を防いだのは沖長だ。
 少女も瞼を上げて自分が助かったことに気づいた様子だが、いまだに思考がストップしているようで呆気にとられている。
 そんな少女を引っ張り上げて河から少し距離を取って手を離す。すると少女は目をパチパチとしながらもジッとこちらを見つめていた。
「怪我はない?」
 そう聞くと、ようやくハッとした少女が「は、はいッス!」と返事をしてくれたので安堵する。とにかく間一髪間に合って良かったと思っていると……。
「おいてめえ! いきなり現れて俺のナクルに近づいてんじゃねえぞ!」
 背後から聞こえた声。先ほど銀髪少年を殴り飛ばした赤髪少年が沖長に怒りを露わにしていた。対して銀髪少年は気絶しているのか横たわったままだ。
「えっと……ちょっと落ち着いたら? 君たちのせいでこの子がビックリして危なかったんだからさ」
「うるせえ! そんなことよりさっさとナクルから離れやがれ!」
 言うに事欠いてそんなことよりと言ってきた。
(コイツ、この子が好きなんじゃないの? それなのに自分たちのせいで危ない目に遭ったことをそんなことって……)
 恐らく噛み砕いて注意しても話を聞く輩ではなさそうだ。何せ簡単に暴力を振るえるような奴だから。
 そう思っていると、今度は沖長を殴り飛ばそうと詰め寄ってきた。
「てめえみてえなモブ野郎が、俺みたいな選ばれた主役に逆らうんじゃねえよ!」
 なんだかよくわからないことをほざきながら突っ込んでくるが、その直後にその場から一瞬にして消えた。当然その状況に少女は「ふえぇぇぇっ!?」と愕然としているが、沖長は少女の手を掴むと、
「ここから離れた方が良いよ。行こう」
 そう言うと、少女も戸惑いつつも「は、はいッス~!」と答えてついてきてくれた。
 土手を越えて住宅街まで逃げてきた沖長は、そのまま近くにある公園まで行って、そこにあるベンチに少女と座った。
「はい、良かったらこれどうぞ」
 そう言って、《アイテムボックス》から取り出したスポーツドリンクが入ったペットボトルを差し出した。
「え? あ、ありがとッス……って、これいまどこからだしたんスか?」
「ポケットからだよ。ほら、俺のポケット大きいから」
 現在着ているパーカーの腹部にあるポケットを見せる。たしかに大きいしペットボトルくらいは入るので納得してくれたようだ。
 同じようにもう一本の小さめの茶が入ったペットボトルを取り出して飲む。
(うん、やっぱりこの画面は見えてないみたいだな)
 前に自室でリストを確認中に母が入ってきたことがあったが、咄嗟に消したもののタイミング的には目撃していてもおかしくなかった。しかし母は何も不思議がっていなかったことから、もしかしたらこれは自分以外には見えないのではないかと疑問に思ったのだ。
 だから今、ちょうどいいから試してみた。どうせ初対面だし、見られても口八丁で誤魔化せる子ども相手だからと考えて。
 そして結果は今もリストは出しっ放しにしているが、一切そちらに興味を示さないところを見て、リストが自分にしか目視できないことを明確にできた。
 ただ操作しているときは気を付けないと、何もないところを指でなぞっている変な奴だと思われてしまうが。
 受け取ったスポーツドリンクで喉を潤しながら、こちらをチラチラと見つめてくる少女。どうやら人見知りの気があるようだ。こちらから話しかけた方が良さそう。
「あの二人は知り合い?」
「う、ううん、ちがうッス」
「でも何かナクルって名前呼んでたけど……ナクルって名前なのかな?」
「はいッス……でもほんとにどうしてボクのなまえをしってたのかわからなくて……どこかであったのかなぁ……?」
 記憶を探るように眉をひそめているが、やはり心当たりはないらしい。
 となるとあの二人は一体どういう奴らなのか……。これはマジでストーカーという予想が当たっているかもしれない。
 しかも二人もいるとなると、このナクルという少女が哀れに思えてくる。
(まだ幼いのにストーカーが二人かぁ……壮絶だな)
 そんな人生、たとえモテるとしても嫌だ。何せあんな暴虐的な連中なのだ。こっちから願い下げである。
「あ、あの!」
「ん?」
「そ、その……えと……さっきはその……たすけてくれて…………ありがとうッス」
 段々尻すぼみになる言葉だが、たしかに感謝の言葉は伝わってきた。
「いいっていいって、俺もたまたまあそこにいただけだし。無事で良かったよ」
「そ、そうッスか……えへへ」
 初めて見せるその笑顔に思わず感嘆する。とても愛らしい魅力的な笑顔だったからだ。
 たしかに可愛いし、あの二人ではなくても好意的に見られるのも頷ける。
「あ、でもあのあかいかみの子、いきなりきえたッスけど、どうしたんスかね?」
「ああ、アイツなら落とし穴に落ちていったんだよ」
「え? お、おとしあなッスか?」
「そうそう。今頃穴の中で伸びてるんじゃないかなぁ」
 あのとき、沖長がやったこと。それは目前の地面の回収。そうすることで深い穴を形成することが可能となり、その上を通ったアイツは真っ逆さまに落下したというわけだ。
(それにしてもあの赤髪、驚くくらいに傲慢だったなぁ)
 自分のことを選ばれた主役なんて言うとは、余程自分に自信があるのだろう。大金持ちの上、周りは媚びへつらう使用人たちだけ。そしてベタベタに甘やかす両親に育てられたというところだろうか。
 そうでもなければあんなふうには育たない気がする。
「ところでその服……柔道か何かの道着?」
「えっ……あ、これは…………ウチの道着で」
「ウチの道着? ……もしかして家が武道とかやってるってことかな? どんな?」
 少し興味が湧いたので聞いてみると、笑顔を崩してまたあの寂しそうな表情を見せる。これは地雷だったかと後悔するが、ナクルはそのまま続けてくれた。
「ウチは…………古武術をやってるッス」
「こ、古武術? それはまた珍しいなぁ」
 実際今までの経験上、そんな知り合いはいなかった。
 古武術、なんて男心をくすぐるワードだろうか。必殺技とかあるのかなと、内心ワクワクが止まらない。ただ、古武術と口にした彼女の顔色が優れない。
「……何か悩んでることがあるの?」
「え? そ……それは……」 
 言い難いことなのか口を噤んでいる。もっとも初対面の男子に弱音を吐くことなんて難しいかもしれないが。
「まあ無理に聞くつもりはないけど、話したらちょっとは楽になることもあるぞ」
 少しだけ背中を押してやることにする。なんだかこのままだと無理に抱え込んで自爆しそうな感じがしたからだ。
 するとナクルはしばらく沈黙していたが、意を決したように語りはじめた。
「ボクは……ね、イヤ……なんス」
「嫌? 古武術が?」
「か、からだをうごかすことはすきッス。でも……ひとをきずつけたりするのが……こわくて」
 なるほど。聞けばもっともな理由である。この子はまだ幼い少女なのだ。それなのに武道ではなく武術。極めて戦闘に特化した武は、元々は人を制するためのものだろう。
 そんな危険な習い事を、こんな幼い子が好き好んでやる方が珍しいというものだ。精神的に大人である自分でさえ、誰かを傷つけるようなスポーツは気が引けてしまう。
 それは剣道や柔道に至ってもそうだ。自分のせいで誰かが怪我を負ってしまうと思うと萎縮することもあるだろう。
「……でも……ウチをつぐのは……ボクだけ……だから……。でも……ボクはもっと……ふつうにくらすのがよくて……。ともだちをいっぱいつくって……どこかでかけて……。でもまいにちしゅぎょうだし……」
 これはまた面倒な一家に生まれたようだ。家が古武術を伝えているということは、古くから脈々と受け継がれてきた家系なのだろう。それを途絶えさせないためにも後継者は必要になってくる。
 血を遺す、技を遺す、名を遺す。
 いろいろあれど、結局は人のワガママだと沖長は思う。先人たちが伝えてきたものを後世に遺し続けること。それはたしかに大事なことなのかもしれない。けれど、それを未来の子どもたちに強要させるのは、大人たちのワガママでしかない。
 遺さなければ世界が滅ぶなどの大事を招くならともかく、家の誇りや偉業を語り継ぎたいだけなら他にもやりようはあるはず。
 嫌がる子に無理矢理押し付けても、それはいずれ負の連鎖を生んで、取り返しのつかない過ちになってしまう恐れだってある。
(とはいったものの、歴史のある家の重責だってあるだろうしなぁ)
 それまで積み重ねてきたものを自分たちの手で崩したくないと思うのは当然。だから次代に委ねていく流れは自然なのかもしれない。
 けれどこうして実際にその重みに苦しんでいる子を見ていると、やはりここは見捨てることはできないと思った。
「嫌なら嫌って言えばいいと思うよ」
「え?」
「俺は……少なくとも後悔したくない人生を送りたいって思ってる」
 前世ではいろいろ言い訳して挑戦さえしてこなかったことがたくさんある。だから今世ではやりたいと思ったことは全部やろうと思っている。
「君も、ワガママを言うべきだよ」
「で、でも、そんなことしたらパパたちにめいわくかかっちゃうッス……」
「別にいいでしょ、迷惑かけても」
「え?」
「だって、それができるのが家族だろうしね」
 そもそも身内なのだから、迷惑を迷惑と思わない可能性の方が高い。特に子ども相手なら、親として迷惑なんて捉えないこともはずだ。
「かぞくに……めいわくかけてもいいッスか?」
「あまりにも自分勝手な理由で、誰かを傷つけるような迷惑は家族相手でもダメだろうけど、君のは違うだろ? 君はただ、親のために自分を押し殺してるだけ。自分の気持ちに蓋をして言いたいことを言えない。そんなの……俺が親だったら嫌って思うけどな」
「イヤ……なんスか?」
「だって自分の子どもが本当にやりたいことができない人生を送るなんて、親として間違っているし、そんなの望まないと思う」
 あくまでも主観的な意見ではあるが、それでも親なら子どもを優先するべきだと思っている。子どもの身だけではない。子どもの心を守ることこそが親の務めであってほしい。
「だからちゃんと言葉にするべきだと思う。君の両親が優しい人たちなら、きっとその想いに真正面から答えてくれるから」
「や、やさしいッス! ママはいっつもえがおであかるくて、パパはちょっときびしいときもあるけど、つよくてカッコよくてやさしいッス!」
 その言葉だけで彼女がどれだけ両親のことが好きなのか伝わってくる。これならきっと正直に話しても変に衝突したりはしまい。
「そっか。じゃあ大丈夫さ」
「う……でも……」
 目を伏せる彼女に「怖い?」と尋ねると、コクンと頷く。この子はきっと親の期待に応えたがる性格なのだろう。いや、親だけでなく誰かのために何かをしたいタイプ。
(いい子だけど、それが行きすぎないといいけどな)
 誰かのために動ける人は素晴らしい人格者だ。しかし、ともすれば自己犠牲が強い人物になりかねない。自身を顧みず傷つけたとしても誰かを守るというのは、守られた側からしたらたまったものではない。
(まあ、まだ子どもだし問題視するようなことじゃないけど)
 それよりも今は、現状をどうするかが大切。
「だったら俺が一緒に行ってあげるって言ったらどう?」
「い、いっしょに? き、きてくれるッスか?」
 断られることも覚悟の上で聞いたが、意外にも好感触のようだ。少し不用心な気もするが、そこらへんはあとで言いつけておこう。
「別にいいよ。こうやって知り合ったんだし、少しくらいは手を貸すよ」
 すると彼女が、目を潤ませながら沖長の袖をチョコンとつまんできた。
「……いっしょに…………きてほしいッス」
 そんな仕草をどこで覚えたというのか。もしこの子が大人になったら、あざとさ全開の魔性の女になりそうだ。
「はは、わかったよ。じゃあ、さっそく行こっか?」
「! はいッス!」
 とても良い笑顔を見せてくれた。
「あ、そういやまだ名乗ってなかったけど、俺は札月沖長。君は?」
「ナクル…………日ノ部ナクルっていうッス!」
 それが転生者―札月沖長と、この世界においての重要人物―日ノ部ナクルとの初めての邂逅であった。
「………………でけぇ」
 思わず声を上げてしまうほどに大きなナクルの自宅。門構えや外壁から、どこか時代劇に出てくる江戸の町を思わせるような古風な様相である。
 一つ確実なのは、これほどの敷地を持つのは相当な金持ちであること。何せ敷地内には、自宅だけでなく道場まであるというのだから維持費だけでも大変であろう。
 まだ若干怯えている様子のナクルと一緒に門の中へと入っていく。すると、たしかに彼女から聞いたとおり、自宅らしい建物の隣には一回り以上は小さい道場と思わしき建物が視界に飛び込んできた。
 また庭も、庭師が手入れしているのかというほどに広くて美しい見栄えで、半ば現実逃避気味にドッグランにも使えるな~などと思っていた。
 するとそこへ、「―ナクル?」と野太い声が聞こえたので、反射的にそちらへ向くと、そこには少々変わった黒い道着を纏った二十代後半くらいの男性が立っていた。
 一瞬誰だと思いつつも、ナクルが沖長の背に隠れるようにして「パ……パパ……」と口にしたので、彼がナクルの父親なのだと理解する。
「えっと、君は? どうしてナクルと?」
 当然の疑問をナクルの父が尋ねてくる。ここはお邪魔している立場からきちんとした対応をしなければならないので、彼に真正面から相対するとペコリとお辞儀をした。
「初めまして。僕は札月沖長と申します。突然訪ねてしまい申し訳ありません」
「へ? あ、いやこれはご丁寧に。俺はその子の父親の日ノ部修一郎だよ。それにしても……」
 なぜかこちらをジッと観察するような目で見てくる。「なんでしょうか?」と問うと、不躾だと思ったのか、子ども相手でも「あ、ごめんね」とちゃんと謝ってくるところを見ると、人間ができた人なのだろう。
 しかし、このやり取りで確信する。この人は、子どもの想いを一方的に曲げるような性格ではない。ちゃんと話を聞いて、その上でナクルのためになる答えを返してくれる人だ。
「あの、ナクルちゃんとはさっき知り合いました。それで……この子がとてもつらそうだったので放っておけなくて」
「! ナクルが……つらそう? どういうことかな?」
 それまで微笑を浮かべていた修一郎だったが、真面目な顔で聞いてきた。
「……ほら、ナクルちゃん」
「え、で、でもぉ……」
「大丈夫。君のお父さんはちゃんと話を聞いてくれる人だから。そうですよね、ナクルちゃんのお父さん?」
「……何か話したいことがあるんだね」
「はい。とても大事なことです。ほら……」
 そう言いながら、軽く彼女の背を押し修一郎と対面させる。修一郎も、空気を読んでか余計な口を挟まずに優しい雰囲気で彼女を見つめていた。
「パ……パパ……えと……その…………ボク……」
 それでもやはりまだ言いづらいのか不安そうに言い淀んでいる。
 そこへ震えている右手をそっと握ってやった。ビクッとして彼女はこちらを見てきたので、安心させるように笑みを浮かべながら頷く。
 するとようやく覚悟を決めたのか、涙目ではあるもの、しっかり顔を上げて修一郎を見据えるナクル。そして―。
「パパ! ボクは……ボクは…………もっと普通に遊びたいっ!」
「!? ……遊びたい?」
「う、うん……ボクもほかのこみたいに、おでかけしたり、おとまりかいしたり、お、お、おしゃれとかもしてみたいッス!」
 それは女の子としての心からの叫びであろう。要は普通に友達を作って、女の子らしい遊びを楽しみたいということなのだろう。
「べ、べつにしゅぎょうがつらいからしたくないとかじゃなくて…………も、もっとカワイイこともしたいんスッ!」
 そんな娘の本音を聞き、しばらく呆気に取られていた修一郎だったが、すぐに膝を折ると、そのまま優しく彼女を抱きしめた。
「そっか……ごめんな、気づいてやれなくて」
「!? ……ううん、ボクもごめんなさい……こんなこと……いったら……きっとパパたちが……かなしんじゃうっておもって……」
「はは、バカだな。そんなことで悲しんだりしないし、怒ったりもしないよ」
「で、でもウチをつぐのは……ボクしかいない……からっ」
「……? えっと……なるほど、もしかしてナクル、勘違いしていないかい?」
 身体を離した修一郎が、泣きじゃくっているナクルの顔を見ながらそう言うと、彼女は「ほぇ?」と呆けてしまう。
「たしかにウチにはナクルしか子どもはいないけど、だからって別に継がせようって思ってるわけじゃないんだぞ」
「ど、どどどどどういうことッスか!?」
 それは俺も聞きたいと思う沖長である。
「たしかに後継者は欲しいと思っているけど、それは別にナクルじゃなくても、相応しい人がいたら継いでもらえばいいだけだしな」
 そこで少し気になったので、悪いと思いながらも口を挟んだ。
「あの、割って入ってすみません。それは後継者が血脈でなくても問題ないということですか?」
「血脈って……難しい言葉を知ってるね。まあ血が繋がっている方が、いろいろとやりやすい面もあるけれど、俺が継いでほしいのは日ノ部流の意思―その心根だからね」
 なるほど。つまり古武術の魂を受け継いでくれるのであれば、その相手は外様の者でもいいらしい。
「だからナクル、心配しなくてもお前は自由でいいんだよ」
「じゆう……まいにちしゅぎょうしなくてもいいんスか?」
「あーそれはアレだ。ついお前に教えるのが楽しくてな。だから毎日課題を出してしまっていただけだよ。だってナクルには俺よりも武の才があるみたいだしなぁ、ハッハッハ!」
 なんてことはない。娘の才にちょっと暴走していただけの親バカだったという話である。それをナクルは、絶対に後継者にするべく奮闘する父として捉えてしまっていたようだ。
 いまだ唖然として固まったままのナクルに、さすがに同情を禁じ得ない。まあそれでもこれで親子間でのズレがなくなったのだから良しとするべきだろう。もしかしたらこのままズルズルいっていたかもしれないのだから。
「な、な、な、なんスかそれぇぇぇぇぇぇぇっ!?」
 それもまたナクルの心からの叫びであった。
 ナクルの勘違いによる親子間のズレが修正されたあと、どうなったかというと―。
「ほんっとーにすまん! だから許してくれ、ナクル!」
 いい歳したオッサンが、膨れっ面の幼児の傍で土下座していた。
(あーもう俺、帰っていいかなぁ)
 すでに問題は解決したも同然だし、自分はもう必要ないと、この場を去ろうと考えていると、そこへまた新たな人物が現れる。
「―さっきから騒いでいるのは誰です……って、ナクル帰っていたのですね。それよりも修一郎さん、どうしてそんな地べたで土下座をしているのですか?」
 見れば和服を着た美女がそこにいた。ナクルをおしとやかに成長させたような女性で、歩く姿も気品を感じさせるまさに大和撫子。
「あ、ママ!」
 機嫌を直し、笑みを浮かべたナクル。彼女の言葉から察するに母親らしい。
(うわぁ、めちゃんこ美人。下手しなくても大学生とか言われても違和感ないぞ)
 とても沖長と同じような子どもがいるような歳には思えない。
 するとそんな美女の視線が沖長へと向く。
「あら、そちらの子は……門下生ではないですわね」
「ああ、その子は―」
 そうして修一郎が沖長についての説明を軽くナクルの母に伝えた。
「―なるほど、そのようなことが。それはナクルがお世話になり、まことにありがとうございました」
「い、いえ! 俺……僕はただお節介を焼いただけですので! ですからどうぞ頭を上げてください!」
 頭を上げてくれたのはいいが、少し感心したような表情をナクルの母は見せていた。
「……とても言葉遣いが丁寧ですのね。余程ご両親の教育が行き届いていらっしゃるようで」
 それはただ単に前世での社会人としてのマナーが身についているからとは言えない。
「やはり君もそう思うだろう。この子のお陰で、ナクルの本音が聞けたんだ。本当に感謝してるよ。ぜひ親御さんにもお会いしたいな」
「いえいえ、本当にそこまで大したことはしてませんから」
 それは偽らざる本音だ。実際自分がやったことなんて、大人だったら普通のことをしただけだ。困っている子どもから話を聞いて、その親に子どもの話を聞いてやってほしいと言っただけなのだから。こんなこと誰でもできる。
「それに謙虚ときた。ふむ、どうだい君、ウチに入門してみる気はないかい?」
「は、はい? 入門……ですか?」
「そうさ。君ならきっと我が流派を背負える立派な闘士になれる!」
 たしかに古武術には興味はあるものの、そんなに簡単に決めていいものなのだろうか。
「えっと……ナクルちゃんから古武術って伺いましたけれど、そんな簡単に門下生を募ってもかまわないんでしょうか?」
「もちろん生半可な覚悟の輩を迎え入れる気はないよ。こう見えても人を見る目には自信があってね。君ならきっと良い闘士になれる! うん、俺の直感は結構当たるんだよ!」
 どんどん詰め寄ってくる。何この圧力。マジで怖い。
 もっと冷静な人かと思ったら熱血野郎だったなんて詐欺もいいところだ。
(このままじゃ押し切られるかも……そうだ! こんなときはナクルちゃんに!)
 娘に弱い修一郎を抑えてくれると期待して視線を向けた……が。
「えっ、オキナガくんといっしょにしゅぎょうできるッスか! だったらボク、もっとがんばれるッス!」
 どういうわけか敵が増えていた。キラキラした純朴な瞳が沖長を貫く。ここには味方はいないのかと愕然としていると……。
「―おほん。そこまでにしてくださいな、二人とも」
 仲裁に入ってくれたのは先ほどの新キャラ、もといナクルの母だった。
「修一郎さん、ナクル、あなた方の恩人が困っていらっしゃいますわよ」
 そう言われてハッとなった二人が、慌てて距離を取ってくれた。
「ハッハッハ、これはついつい。悪かったね、札月くん」
「あー沖長でいいですよ。まあ誰しも熱くなることくらいありますからお気になさらず」
「ボ、ボクもごめんなさいッス……」
「そんなに落ちこなくてもいいよ、ナクルちゃん」
「っ……き、きらいになってないッスか?」
「ならないならない。こんなに素直で可愛い子を嫌いになるわけないだろ?」
 こちらとしては大人としての発言であり、彼女の頭を撫でながら言ったのも当然他意なんて欠片ほどもないのだが……。
「カ、カワ……! ~~~~~っ!?」
 なぜか顔を真っ赤にすると、母のところまで駆け寄って、その背で恥ずかしそうにこちらをチラチラ見てくる。その仕草はとても可愛らしい。
「あらあら、この子ったら……ふふふ」
 そんな娘の姿に微笑ましそうにしているナクルの母。そういえばちゃんと自己紹介していなかったことを思い出し名乗れば、彼女の日ノ部ユキナという名前を知ることができた。
 それからせっかくだからと自宅に招待され、リビングで日ノ部家と一緒に茶菓子をいただくことになったのである。
「………………疲れたぁ」
 家に帰ってくるなり、沖長はベッドの上に前のめりに横たわった。
 肉体的疲労はほとんどないが、精神へのダメージはかなりのものである。
 ナクルの自宅にお邪魔させていただいたのはいいが、それから日ノ部家総出で質問攻めに遭った。まるで記者会見でも受けているかのように矢継ぎ早にされる質問に答えるのは見た目以上に疲弊するものだということを実感することができたのである。
(まあでも、この世界で初めての友達っていう友達ができたけどさ)
 それがまさか女の子になるとは思わなかったが、とても良い子だしこれからも付き合っていきたいと思えた。
「……古武術かぁ」
 寝返りを打ち天井を見上げながら呟く。
 帰る際に、またナクルと修一郎に勧誘された。特にナクルは、沖長と一緒だったら毎日修行でも楽しそうで頑張れると言い張り、あの無邪気な天使の期待を裏切りたくないと思いつつも、習い事は自分一人で決められるものではないので本当に困った。
(両親に相談してみるか)
 自分にとっても体力作りになるだろうし、友達と一緒に身体を動かす青春というものに憧れている立場からしたら都合が良くもあった。
 それに他のスポーツのように大会とかを目指しているわけではないようだし、自分の力が迷惑をかけるようなこともないと思う。そう考えれば打ってつけともいえる。
 とりあえず今日経験したことを両親に話してみよう。
 そう決めて夕食時、さっそく父と母に相談することにしたのである。
 当然古武術などという習い事としては候補に出ないものに対し、母はどこか不安そうな様子ではあったが、父は意外にもあっさりと「いいんじゃないか」と賛同してくれた。
「でも悠二くん、古武術って何か危険そうじゃない?」
「どんなスポーツだって何かしらの危険は付き物だぞ。水泳だってそうだ。足が攣って溺れて、誰にも気づかれなければそのまま死んでしまうことだってある。そこまでいかなくても、サッカーだって体操だって同じ。身体を鍛えるということは負荷をかけて身体を痛めるということでもあるんだし、どうしても怪我や病気に繋がってしまうことはある」
 さすがはアスリート。その言葉の一つ一つに根拠と説得力がある。
「けれどスポーツはいいものだ。身体だけじゃなく、心も成長させることができる。だから俺は、沖長がやりたいっていうなら支持してやりたい」
「……そうね、沖ちゃんの人生だもんねぇ。でもでも、一度見学させてもらってからでも決めるのは遅くないんじゃないかしらぁ。ほら、あちらのご両親ともお話ししておきたいしねぇ」
 母の言い分も正しいだろう。可愛い一人息子のことなんだから、対応は万全にしておきたいというのは親心である。
「そうだな。明日はちょうど午後から空いているし、向こうさんに時間があれば会いに行ってみるか?」
 一応電話番号も聞いておいたので、それを父に伝えると、食後にさっそく日ノ部家へ連絡と取り、問題なく明日の午後に再度お邪魔することになったのである。
 ―翌日。
 昨日予定されていた【日ノ部家】の訪問。札月一家はただいまその門構えを見て立ち尽くしていた。
 とはいっても沖長は二度目なので「やっぱりクソでかいな」と改めて思うだけだが、両親はなぜか身形を異常に整えはじめ、失礼があってはいけない感じを強く出している。
 相手がセレブだと必要以上に緊張する気持ちはなんとなくわかるが、ここの人たちはかなり気さくだからと言うと、幾分か表情が和らいだように思えた。
 そしてインターホンを押すと、この家の主である修一郎が出迎えてくれたのだが……。
「―オキくぅぅぅんっ!」
 ものすごいダッシュで駆け寄ってきて、そのまま抱き着いてきたのはナクルだった。
 その衝撃は凄まじく「ぐはっ!?」と、肺から一気に空気が吐き出されるとともに、そのまま後ろへ倒れ込んでしまう。
「まってたッスよ、オキくん!」
 満面の笑みが視界いっぱいに広がっていた。その笑顔で、痛みなんか軽く吹き飛ぶ。
「は、はは……昨日ぶり、ナクルちゃん」
「もう! ナクルでいいってきのういったじゃないッスか!」
 頬をこれでもかというほど膨らませる彼女はとても愛らしい。ついその頬を突いて空気を抜きたくなる。
「はいはい、悪かったよナクル」
 名前を呼んでやると、「えへへ~」と嬉しそうに馬乗りになったまま笑っている。
 当然父や母たちは、予想だにしていない状況に呆けているが……。
「おほん! こら、ナクル、お客様の前だぞ」
「!? ご、ごめんなさいッス!」
 慌てて立ち上がり沖長から離れる。
「それにいきなり飛びついたら危険だろ? 沖長くんに謝りなさい」
「は、はい……あ、あのオキくん……ごめんなさいッス」
 明らかにシュンとなっているが、こちらとしては怪我もなかったし怒ってもいない。
「はは、別にいいって。元気が一番だよ、ナクル」
 そう言いながら頭を撫でてやると、またも表情に花が咲く。まるで小動物のようだ。尻尾があったら完全に振り回していることだろう。
「やれやれ。あーウチの子がすみませんでした」
「! あ、いえ、たしかに驚きましたが、気にしないでください」
「そうですよぉ。いつの間にかこ~んなに可愛い子と仲良くなっちゃってぇ、沖ちゃんてばやるわねぇ」
 修一郎が謝ると、真面目に対応した父はともかく、母の言い分はよくわからない。何がやるのかサッパリである。
 それから皆で日ノ部家の母屋へ入り、そのままリビングまで通された。
 席につき、すぐに障子が開いたと思ったら、向こう側から茶と菓子が入ったトレイを持った女性が現れた。
 てっきりナクルの母であるユキナが顔を見せたと思ったが、どうやら違うようだ。
 その女性は、濡れているような艶のある美しい黒髪を腰まで流し、着用している和服もとても似合っていて、ユキナも美女だったがこの人も負けず劣らずのルックスである。その所作一つ一つに気品があって、思わず見惚れてしまう。
 その証拠に、沖長だけでなく父も目を奪われているようだ。しかし父よ、そんな態度をとっていると……。
「痛っ……!?」
 肘打ちをくらい痛みに顔を歪める父。当然攻撃……いや、お仕置きを与えたのは母だった。見れば「何を見惚れてるのぉ?」というような目が笑っていない笑顔であり、それに恐怖感を覚えた父の顔は引き攣っている。
 皆の前に茶菓子がセットされると、その女性は静かに修一郎側に腰を下ろした。ちなみに対面するように座っている札月側に、なぜかナクルも座っている。もっと詳しく言えば沖長の隣に。
(随分懐かれたもんだなぁ)
 ニコニコと嬉しそうに座っているナクル。好かれる分には問題はないし可愛いので気にしないことにする。
「わざわざこちらへご足労いただきありがとうございます。私は日ノ部修一郎と申します」
 最初に口火を切った修一郎を皮切りに、互いに自己紹介しはじめた。
 そしてナクルも元気よく名乗ったあとに、最後に気になるあの黒髪女性がペコリと一礼してから、微笑を浮かべたまま口を開く。
「私はこちらで住み込みをさせていただいております―七宮蔦絵と申します」
 やはり美人だ。そう思いながら見つめていると不意に蔦絵と目が合う。すると彼女が優しく微笑んだのを見てドキッとし、慌てて視線を外してしまった。
(マジできれいな人だ。きっとモテるんだろうなぁ)
 チラチラと蔦絵を見ていると、脇腹に痛みが走った。見ればなぜかナクルが軽くつねっていたのだ。
「えと……何?」
「むぅ……なんとなくッス」
 そんな理不尽なと思っていると、親同士が今後のことについて話しはじめた。もちろん母たちが積極的に質問をし、日ノ部家や古武術について聞いていく。
「心配なさるお気持ちも重々承知しております。何せ学ぶのは武術ですから、気を抜けば当然怪我を負ってしまうこともあります」
 それはどのスポーツもそうだろうが、武術はとりわけ肉体を酷使する割合が多いので怪我の比率だって大きくなる。
「しかし、もちろん私が師範として全力で見守り、最大限の注意を図るつもりです。それでも修練の最中でどうしても傷を負うこともあります。そこを沖長くんやご両親にはご理解していただきたいのです」
 武術なのだから組手も存在するはず。無傷で修練というのも難しい話だろう。それを理解しているのか、父は特に問題視していないように見えるが、やはり母はいまだに心配そうではある。
 親心として子どもが傷を負うなんて積極的な気持ちにはならないだろう。けれど沖長としても興味があるので、できればここで世話になりたい。
「……お母さん」
「沖ちゃん……?」
「大丈夫だって! 古武術を習ったら強くなれるし! お母さんも俺が守るから!」
 精神的にはちょっと恥ずかしい言葉ではあるが本心でもある。
「あはは、さすがは俺の息子だな。……なあ葵、この子なら大丈夫さ。見守ってやろう」
「あなた…………わかったわぁ」
 決意を固めたような表情を見せると、修一郎に対して頭を下げる母。それに倣って父も同じようにした。
「どうぞ息子をよろしくお願いいたします」
 その言葉に対し、修一郎もまた姿勢を正し同様に一礼をする。
「こちらこそ、息子さんを預からせていただきます」
 こうして沖長の古武術入門が決まったのであった。
 ―土曜日。
 本日は初めての習い事の日。 
 そうだ。これからナクルと一緒に古武術を学んでいくのである。とはいっても彼女は先輩に当たるのだが。
 送迎は父がしてくれるようで、昼食を食べたあとに車で送ってくれた。
 日ノ部家に到着すると、相変わらず元気一杯のナクルに出迎えられ、さっそく道場へと走っていく。
 ちなみに父は、同じように出迎えてくれた修一郎に挨拶をしている。そのあとはすぐに帰宅してスイミングスクールへ向かうようだ。
「なんだかご機嫌だな、ナクルは」
 嬉しそうに沖長の手を引っ張って歩くナクル。
「えへへ~、すっごくたのしみにしてたッスから!」
 聞けばナクルと同年代は今までいなかったらしい。
(まぁ、普通は六歳で古武術をしようなんて思わないしなぁ)
 今の時代、やはりメジャーなスポーツを選ぶ子は多い。この世界では、日本のスポーツ業界はなかなかに盛り上がっていて、特にサッカーやバスケットボールが熱い。
 それを題材にした漫画やアニメなども人気で、幼児から大人まで幅広く支持されている。もちろん日本の国技である相撲や柔道なども一定の支持は得ているが、去年ワールドカップで結果を残したらしいサッカーやバスケットボールが頭一つ抜けている感じだ。
 そんななかで古武術を習おうと思う幼児は少ないのだろう。
 ナクルに連れられ道場に入ると、そこにはすでに蔦絵の姿があった。道場の真ん中に正座をしている。背筋がピンと張られ、一切の身じろぎをしない様子はまるで隙がなく、かつ美しさすら覚えた。
 先日、入門申請のためにこちらへと訪問した際に、彼女―七宮蔦絵についてもナクルや本人に少し話を聞いたのだ。
 その大人びた印象にそぐわず、実はまだ高校生。にもかかわらず、驚くことに師範代という地位に立つ人物である。長い黒髪を後ろで縛り表情もキリッとしている上、凛とした佇まいから武士を思わせる雰囲気を醸し出している。
 そんな彼女が閉じていた瞼を静かに上げ、こちらに視線を向けて微笑を浮かべる。
「こんにちは、沖長くん」
「こ、こんにちは、七宮さん。今日からお世話になります。よろしくお願いします!」
 先輩に対して、最初の挨拶を疎かにしない。
「うん、元気があってよろしい。それに七宮ではなく、蔦絵でいいわ。ナクル、沖長くんにアレを」
 蔦絵の指示に「はいッス!」と返事をしたナクルが道場の端に置かれていたものを手に取ってこちらに向かってきた。
「はい、オキくん、これ!」
 差し出されたものは―。
「……道着?」
 現在ナクルが着用しているものと同じ。つまり、これは沖長用に用意された道着だと理解した。手に取って広げて見て、つい「おぉ~」と感嘆の声を上げる。
 柔道着とは少し違う。アレは少しゴワゴワしていて重そうな印象があるが、こちらはどちらかというと空手着に近い気がする。生地も薄めだし動きやすそうだ。
「ナクル、着方を教えてあげなさい」
 この前、ナクルが入っていった更衣室へと案内される。そこはロッカールームになっており、一つ一つに名前と鍵がつけられている。一応は防犯のためだろう。
 そして札月沖長と書かれたネームプレートが貼られたロッカーを発見。ナクルから鍵を預かりロックを外して扉を開く。
 そこに持参した手提げ袋を入れる。中にはタオルや着替えなどが入っている。
 さっそく着替えようとするが、横を見ればニコニコしているナクルが……。
(……ま、いっか)
 別に子ども同士だし、恥ずかしいという気持ちだってない。さすがにここに蔦絵がいれば意識してしまうが、こういうときに前世の記憶というのは厄介だと思う。
 服を脱いでパンツ一丁になる。まずはズボンを身に着け、そして上着を羽織るが、その際にナクルが丁寧に着方をレクチャーしてくれた。
 帯をしっかり締めて簡単に着崩れないようにしてから更衣室を出る。
「あら、似合っているわね」
「ありがとうございます。でも何か……変な感じですけど」
 やはり普通の服とは材質が違うので肌触りに違和感を覚える。
「そのうち慣れるわよ。それでは二人とも、私の前に立ちなさい」
 立ち上がった蔦絵の前面に、ナクルと並んで立つ。
「では改めて名乗ります。私は、日ノ部流古武術の師範代を務めさせてもらっている七宮蔦絵です。これからともに学んでいく同志として心から歓迎します」
「え、えと、俺……僕は札月沖長と申します。中途半端にならないように、一生懸命学ばせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」
 このくらいの挨拶で良かったかなと思い蔦絵を見ると、彼女が満足げに頷いてくれた。そのあとは「座りなさい」という言葉に従って、二人と同じように正座をする。足が痺れる恐怖もあったが。これも次第に慣れるということで我慢しないといけないようだ。
「まず沖長くんが気になっているであろうことを教えるわ。それは恐らく修練内容についてよね?」
 その問いに沖長は「はい」と返事をする。
 一応月曜日に大まかに聞いてはいるが、当然ながら日ノ部流古武術の全容はまだ知らない。実はそのときに、軽くナクルと蔦絵が組手をする場を見学させてもらった。
 それを見てまず思ったのは、(俺、ついていけるかな……)である。それほどの動きを二人が見せていたのだ。まるでバトル漫画かと思ったくらいに。だから一体どんな修練をするのか、期待と多めの不安が入り混じった日々を過ごしていた。
「沖長くんは初心者だから、ナクルのようにいきなり組手を行ったりはしません。そんなのは怪我の元になるからね。だから興味があっても、絶対に許可なく行わないこと」
 ここでは教えられたことだけをするようにと念を押された。子ども相手だから慎重になるのはわかるが、こちとら理解力のある大人の精神なので心配無用である。
「だから最初は柔軟や体力作りが主になるわ。筋肉トレーニングも、過度なものはなし。子どものときの筋トレは逆効果になる恐れがあるからね」
 ふんふんと相槌を打ちながら聞いていく。
「古武術といっても、本格的な修練はずっと先になるわ。まずは身体作りが必要になるから、そこは理解してもらいたいの」
 何事も基礎が固められていないと通用しないのは当然だろう。それこそ他のスポーツだってそうだ。身体ができていないのに、激しい動きなんてすれば負荷に耐えられずに怪我に繋がってしまう。
「当面はつまんないし、ただしんどいと思うことばかりを繰り返すことになるけれど、きっとそれは将来の君にとって大きな財産になるから我慢してほしいのよ」
 ずいぶんと子ども相手に難しいことを言うものだと不思議に思う。もちろん沖長は全部理解できているが、普通の六歳児が認知できるかといったら首をひねらざるを得ないだろう。
「もっとも、今話したことは少なくとも小学校高学年以上にすることなんだけど、君なら大丈夫でしょう?」
 どうやら沖長が一般的な六歳児ではないことに気づいているようだ。だからこその説明だったらしい。なんでも沖長の理解力が高いことは先日会ったときや、修一郎にも聞かされていたようだ。
「だから普通ならまだ伝えないのだけれど、沖長くんは理解できるであろうと思って話すわね。古武術というのは、本来は戦で生き残るために磨かれた技術よ。私たちが学ぶ日ノ部流は歴史が古く、創始されたのは今から約五百年前の室町時代末期頃」
「ず、ずいぶん古いんですね」
 歴史はあると思っていたが、まさか室町時代から伝わっているとは思わなかった。
「もっとも当初は武術というよりも忍術と呼ばれていたものだけれど」
「に、忍術……ですか? それってあの忍者が使う技の?」
 沖長の戸惑いの質問に蔦絵は「ええ」と頷いて続ける。
「創始者の一族は、代々忍びの家系で、時の権力者たちの影となって動いていたらしいわ。まあそれも伝わっている文献から紐解いたもののようで、本当に忍者として活動していたかは私はわからないけれどね」
 これは驚いた。忍者といえば男子が憧れる存在でもある。だって格好良いではないか。
 闇に潜み闇に殉じる生き方。決して表舞台には立たず、主という存在のために支え続ける。つまりは縁の下の力持ち。そういう存在に沖長も憧憬を抱いていたものだ。
「だから私たちが学ぶ古武術は、忍びの技の系譜を受け継いでいて、動き方や戦い方もまた忍びに近しいものになるわね」
「そ、それって手裏剣とかクナイとか!?」
「ふふ、やはり男の子ね。もしかして忍者とか好き?」
 つい興奮気味に尋ねてしまったことで蔦絵は微笑ましそうな眼差しを向けてきた。そのことにハッとなり、少し気恥ずかしくて目を逸らしてしまう。
「たしかに少し前までは、手裏剣術やクナイの投擲なんかも教えていたのだけれど、今はどちらかというと“コレ”ね」
 そう言って彼女が懐からあるものを取り出して見せてきたのは……。
「…………針?」
 それは細長く、長さにして一五センチメートルから二〇センチメートルといったところか。加えて両端が鋭く尖っている。
「千本……って聞いたことあるかしら?」
「! あ、確か忍者の隠し武器でしたよね?」
「よく知っているわね。そのとおりよ。手裏剣やクナイよりも殺傷能力は劣るけれど、何よりも軽く扱いやすい武器として重宝されてきたの。特に暗殺用にはもってこいよ!」
 そんなことを満面な笑みで言わないでほしい。ちょっと怖いから。
「とはいっても千本の扱い方なんてまだまだ先になるから、今はこういう武器があるということだけを伝えておくわね」
 なるほど。手裏剣とかクナイではないのは少し残念だが、あれはあれでカッコ良いので習うのが楽しみである。
「そういえば古武術には流派……名前とかあるんですか? 日ノ部流古武術ってさっき言ってましたけど」
「あ、いけないわ。肝心なことを言い忘れてたわね」
 ペロッと舌を出してあざとい感じを出すが、それがまた可愛いのでドキッとする。同時にナクルが横から不満そうな顔を向けているが気づかなかった。
 蔦絵は咳払いを一つしたあと、その名を口にする。
「私たちが学んでいるのは―“忍揆日ノ部流”。覚えておいてね」
 彼女から教えられた言葉を心に刻み込むように、胸中で何度もその名を繰り返す。
「ではさっそく修練を行うとしましょうか。とはいっても、先ほども言ったように、最初は身体作りが基本。ということで……まずは柔軟からしましょう」
 何事においても柔軟は必要らしい。当然だ。スポーツなどでも柔軟を怠っていたら簡単に怪我へと繋がってしまう。
 三人一緒になって、その場で体操に近い動きや前屈などの柔軟をしはじめる。
「うわぁ、ナクルスゴイ……めちゃくちゃ柔らかいね!」
 見れば、ナクルが股を一八〇度開いて上半身を畳にべったりとつけていた。
「えへへ、オキくんもそのうちできるッスよ!」
 それでも褒められたことが嬉しいのか、こんなこともできると言いながら、まるでサーカス団の一員かのような柔軟さを見せてくる。
 それにナクルのようにはしゃぎはしないが、蔦絵もまた同様に柔らかい。対して沖長はというと、さすがにナクルたちのようにはいかないが、それでも立ったままの前屈で、畳に両手が辛うじてつくくらいまでの柔軟さはあった。
 今はこれでも、一か月も毎日柔軟していれば驚くほどの成長が期待できると蔦絵に言われ、習い事が休みの日も続けようと心に決めた。
「よし、次は軽く準備運動をしましょうか」
 次に行うのはいわゆるウォーミングアップ的なものらしく、前転したり後転したり、匍匐前進などを行っていく。次第に身体が温まっていく。
「……ねえ沖長くん、もしかして運動とか得意?」
「えっと……ちょっと前に父がやっているスイミングスクールには通ってましたけど」
「なるほど。だから体幹も良いし、体力もあるのね。普通なら前転や後転が真っ直ぐできない子も多いのよ。それに運動不足の子は、これだけ動けば息が切れるものだし」
 なるほど。たしかに今行った前転などでは傾いたりしなかった。自分としては意識してやったわけではないが、蔦絵から見ればとてもきれいな形をしていたらしい。
(けど言われてみればそんなに疲労感もないかも)
 前世なら、柔軟体操の時点で息が切れていてもおかしくはない。しかし今は、身体こそ熱を持っているものの疲れは感じない。
(これってもしかして神様がくれた丈夫な身体のお陰?)
 だとするなら嬉しい。これで目一杯身体を動かしても、前世みたいに倒れたりしないということだから。
 神に再度感謝を述べつつも、蔦絵の指示どおりに動いていく。
 そうしてアップが終わった次に行うのが、いよいよ本格的な身体作りである。
 とはいっても最初は本当に基礎的なもので、道場内を走ったり、柔道のときのような受け身の練習をしたりを繰り返す。ハッキリ言って地味でしんどいものばかりだが、それでも沖長は楽しかった。
 なぜならこうして誰かと一緒に運動に興じるのは久しぶりだったからだ。たとえ地味でも、傍目から見て面白くないようなことでも、沖長にとっては最高の娯楽に等しい快楽を享受していたのである。
(うぅ~! 身体動かすの、たっのしぃ~!)
 自然と表情には笑みが浮かび、疲れも知らずに運動し続ける。
 すると、しばらくして「そこまで」という蔦絵の声が響いた。次は何をするのだろうかとワクワクしていると……。
「今日はここまでにしましょうか」
 思わず「え?」となるようなことを言ってきた。
「あ、あの……もう終わりですか?」
「ふふ、物足りないかしら? けれどほら」
 そうして彼女が指差したのは、壁時計。
(嘘……もう二時間も経ってる?)
 体感ではまだはじめたばかりのような感覚ではあるが、よく自分の身体を観察してみれば、それなりにかいた汗が時間の経過を物語っていた。
「初めてで休憩もなしに最後までついてきたのは沖長くんが初めてよ。ね、ナクル?」
「そうッス! すごいッス、オキくん!」
「え? ああいや……楽しくて夢中だっただけだって」
 嘘ではない。気づけば終わっていたのだから。
「じゃあ最後に柔軟をして終わりましょうか」
 そうしてどこか浮き足立ったまま、初日の修練は終わりを告げたのである。
「――なんだよ、邪魔すんじゃねえよ!」
 道場に設置されているシャワー室を借りて汗を流したあと、帰宅の準備をして道場から出た直後に、玄関の方から子どもの叫び声が聞こえてきた。
 何事かと思い、少し遠目に玄関の方を覗くと、そこには一人の子どもと、ナクルの父である修一郎が対面していた。彼は困ったような様子で、それでも子どもを中に入れさせないようにしながら立ち塞がっていて、子どもはそこをどけと憤慨している。
 そこへシャワー室から出てきたナクルが「どうかしたんスか?」と、後ろから近付いてきた。そこで玄関の方を沖長が指差して現状を把握する。
「ど、どうしてパパが、男の子とくちげんかしてるッスか?」
 それはこちらも聞きたい。修一郎が子どもに対し、あんなにも怒らせるようなことをするとは思えないし……と、そこまで考えたときに、不意に思い出す。
(あれ? あのガキんちょ……どっかで……)
 日本人とは思えない赤い髪と整いすぎた顔立ち。加えて横柄な態度にピンときた。
「あのさナクル、あの子ってあのときにナクルに近づいてきた子じゃない?」
「へ? …………あ!」
 大分長考したあとに思い出したようで目を見開いていた。
 あの赤髪の子は、初めてナクルと出会った場所で遭遇した男子である。俺のナクルやら、ナクルは俺の嫁などという過激な発言をしていた。しかもこちらの話を聞かずに殴りかかろうとしてきたので、仕方なく落とし穴に落としてやったのである。
(アイツ、自分が選ばれた主役って言ってたけど、まさかここまでナクルを追っかけてきたってのか? ……怖ぇぇ)
 見れば、ナクルもまた嫁発言を思い出したのか、青ざめて震えている。しかもなぜか沖長の腕をギュッと掴みながらだ。
 そして、それが間の悪いことに、件の少年がこちらに気づいてしまった。
「おお、ナクル! やっと見つけたぜ! って、おいそこのモブ野郎! なんでナクルと一緒にいやがんだよ!」
 怒りの矛先が当然とばかりに沖長へと向けられた。そのまま少年がズカズカと侵入しようとするが、それを修一郎が止める。
「待ちなさい。何度も言うが、勝手に人の家に入ったらダメだよ?」
「ああ、うっさい! ナクルの親父だからって、俺の邪魔すんじゃねえよ! 俺はナクルの未来の夫だぞ!」
 よくもまあ自信満々にそんなことを言えたものだ。
 仮に両想いだとしても、相手側の父親に対しての口の利き方ではない。
「アンタが主人公の物語はもう終わってんだよ! 今はナクルの番なんだから、しゃしゃり出てくんなよな!」
 またも訳のわからないことを言っている。
(物語? 終わってる?)
 少年の言い分に違和感を持つ。
 その言い方だと、修一郎が主人公の物語があって、そのあとに子どもであるナクルのストーリーが始まるかのような……。
 それは漫画でいえば、まるで一部が終わり、次に二部が始まるって言っている感じだ。しかしここは現実だし、彼の言っていることは当てはまらない。
 なぜなら人それぞれの人生があり、それぞれが主人公だ。終わりを迎えるとするなら、それは死ぬということ。だが修一郎は生きているし、物語は今も続いているということ。
(それにナクルの番……何を言ってんだ、あのガキんちょは?)
 こちらの思考が困惑するのもおかまいなしに、少年は今も沖長を睨みつけて「ナクルから離れろ、モブ野郎!」と怒鳴ってきている。
 するとさすがに目に余ったのか、修一郎の表情が引き締まり怒気が滲み出てきた。
「とにかくこっちは急いで好感度を上げる必要があんだよ! ったく、なんでこんなときに引っ越ししなきゃなんねえんだよ! 予定外すぎんだろ! ああもう、全部あのクソ両親のせいだぜ! このまんまじゃ四年後に間に合わなく―」
「いい加減にしなさい。それ以上ワガママを通すのならさすがに許せないよ?」
 沖長は思わず息をのんだ。
 こちらに背を向けているにもかかわらず、修一郎から発せられる並々ならぬ威圧感に気圧される。これだけ離れている沖長でこれだ。まともに怒気を受けている少年は……。
「っ……ひぃっ!?」
 修一郎の顔を見上げて真っ青になり尻もちをつく少年。
「あーあ、怒らせたらいけない人を怒らせるなんて、あの子もおバカなことをするわね」
 そう言いながら近づいてきたのは蔦絵だ。シャワーを浴びたあとだからか、頬が上気しておりどこか色っぽい。思わず見惚れそうになるが、すぐに子どもの叫び声で我に返る。
「くっ、お、おおお俺は諦めねえからなぁぁぁぁっ!」
 まるで小悪党が尻尾を巻いて逃げるかのごとく一目散にその場から去って行った。
(一体何しに来たんだか。けど気になることを言ってたな。引っ越しとか……四年後?)
 いろいろ気になるワードがあったが、沖長の母親である葵が迎えにくるまで、赤髪ともう一人、ストーカー気質がありそうな銀髪について語ることになった。
 そうしてとりあえずは、できるだけナクルを一人にしないようにして、あまりにもしつこいようなら親御さんに報告することを決定し、その話題は終結した。
「ということで、これからナクルのそばにいてやってくれよ、沖長くん」
 爽やかな笑顔とともに修一郎が言ってきた。同じく蔦絵も「お願いね」と頼み込んできた。結果的に、今後のナクルの護衛という大役を仰せつかってしまったのである。
 聞けば、通う小学校も同じらしく、これ幸いと白羽の矢が立てられたわけだ。
 ナクルは「これからもオキくんとずっといっしょッス~!」と大喜びである。
 なんだか勝手に決められて釈然としないものはあるし、普通に戦えばナクルの方が絶対に強いという確信もあるが、それでも頼られることは素直に嬉しかった。それにこんな小さな子が悲しむのは見たくないので、修一郎たちの要求を受け入れたのである。
 そうして話が終わると、ちょうど母が迎えに来たので日ノ部家をあとにした。途中、母が買い物をしたいということで近所の商店街に立ち寄ることに。
 しかし、ここで子どもにとっては退屈な出来事が起きてしまう。それは母が近所の奥様方と井戸端会議を開催したのである。こうなったら長いのはどこの世界も同じだ。
 ということで家も近いし、母に言って先に一人で帰宅することにした。
 商店街を出てすぐ近くにある公園を横切ろうと踏み入った瞬間である。
「――やっと見つけたぜ!」
 そんな言葉とともに現れたのは、例の赤髪少年だった。
(うっわ、見つかったよ……)
 一気に最悪な気分に落ちながらも、「何か用?」と尋ねた。
「おいてめえ、なんでナクルと一緒にいやがった!」
「はぁ……またそれか。ていうか君には関係ないだろ?」
「調子に乗るなよ、モブごときが!」
「あのさぁ、あんまり人に向かってモブとか言わない方がいいぞ」
 たしかに前世を含めて、漫画でいえば目立たないモブのような人生を送っている自覚はあるが。
「うるせえよ! いいから今度からナクルには近づくな! いいな!」
「なんでそんなこと言われなくちゃならないんだ?」
「いいからモブは主人公の言うとおりに動いときゃいいんだよ!」
 これでも大人の思考力は持っているから、できるだけ言い聞かせるつもりだったが、こちらの話を一切聞くつもりのない相手に少々苛立ってくる。
「どうせお前なんて俺がいることで現れたイレギュラーってだけだろ! なんの力も持たねえくせに俺の物語に入ってきてんじゃねえよ!」
 …………イレギュラー?
 彼の言った言葉にまたも引っ掛かりを覚える。
「どういうこと? まるでこの世界が君の物語で作られてるみたいなことを言ってさ」
 まさかこの歳ですでに中二病にかかっているのかと戦慄を覚えている。同時に前世で自分もまた同じような病に蝕まれていた記憶が蘇り心がキュッとなった。
「フン! やっぱなんにも知らねえか。ならなおさらナクルのそばにいるんじゃねえよ! これからアイツを救うのは俺であるべきなんだからな!」
 またも妙なことを堂々と言ってくる。
(ガキんちょの物語? ナクルを救う? まるでこれからナクルに悲劇でも襲い掛かるような言い方だけど……いや、仮にそうだとしてもなんでそんなことを知ってるんだ?)
 どんどん疑問が湧いていくが、素直に質問をしても答えてくれそうにないので、ここは少しでも情報を引き出そうと試みる。
「……君はもしかして未来がわかるのか? だったらスゴイな」
 とりあえず褒めながら良い気分にさせて情報を吐かせよう。
「おお、俺はスゴイんだよ! だからナクルのそばにいて支えるのは俺だ! いや、ナクルだけじゃねえ! アイツらだって全部俺が救ってやるんだよ!」
「? ……アイツら? アイツらって誰? それにナクルに起こる悲劇って何?」
「アイツらはこれから出てくる奴らで、ナクルたちはいろんな悲劇に……って、なんでそんなことをモブのてめえに教えなきゃなんねえんだよ!」
 少し性急に聞きすぎたのか、またも彼の怒気が膨らみはじめた。
「ああ、ゴメン。でもほら、もしかしたら何か力になれるかもって思ってさ」
「だから、なんの力も持たねえてめえなんてただの足手纏いにしかならねえんだよ!」
「そうかもしれないけど、一人より二人、二人より三人てね。数が多い方が効率も良いと思うし」
「うるっせえ! とにかくナクルもアイツらも全部俺が手に入れるんだ! それを邪魔する野郎は絶対に許さねえっ!」
 これはもう落ち着かせるのはダメかもしれない。
「……許さないとどうするわけ?」
「こうすんだよっ!」
 すると驚く現象が目の前で起きる。
 突如少年の身体から青白い光が迸ったと思ったら、少年が天に掲げた右手に集束し、次の瞬間に沖長に向かって放たれた。
 あまりにも想定外な事態に立ち尽くしていた沖長は、自分に向かって飛来したモノを凝視したまま。
 そしてその塊が自分の腹部へと当たったと思ったら、物すごい衝撃とともに後方へ弾かれてしまい、その先にあった街灯にぶつかって倒れ込んでしまった。
「フン! 今のでわかったろ? これ以上痛い目に遭いたくなかったらすぐにナクルから離れろよ! 俺がこの街に戻って来たときにまだいたら、今度こそ容赦しねえからな!」
 少年はそう言うと、鼻で笑いながらその場を去って行った。
 それから沖長はというと、少ししてからむくりと起き上がる。
「痛たた……って、あれ? あんまり痛くねえや。ビックリはしたけど」
 身体を起こして服に付いた汚れなどを払ってから小首をかしげる。
(とりあえず……今のはなんだ?)
 少年から放出された謎のエネルギー弾……のようなもの。
 それに当たった瞬間に弾き飛ばされたということは、明らかに物理的衝撃を対象に与えることを目的としたものなのは確かだ。
 そういう漫画やアニメは見たことあるし、そういう力に憧れたこともある。しかし、あくまでもそれは創作物の管轄であり、現実では有り得ない事象であることも理解していた。
 しかし実際に今、自分はその力らしきものを目にし、そして体感してしまった。つまりは何かしらの不可思議な能力を少年が持っていて、それを自分が受けたのは事実。
(え、何……この世界って、そういう不可思議ワールドなのか?)
 てっきり前世とは違いこそあれど、そんなオカルト的なものは実在しないと思っていた。自分はたしかに《アイテムボックス》という特殊能力はあるけれど、これはあくまでも転生特典というやつだから特別枠だと考えていたのである。
(ちょっと待てよ……コレは慎重に考えるべきことだよな。あのガキんちょが、たまたま俺みたいな特別な能力を持って生まれた奴である可能性だってあるし)
 身体に痛みはないし怪我もしていないので、そのまま家に向かって考えながら歩き出す。そこで不意に思い出す。それは転生時に、自分以外にも数人の人間がいたことを。
(もしかして神様、あそこにいた全員を同じ世界に転生させたのか?)
 もしそうなら、あの赤髪少年の謎の能力についても転生特典ということで説明はつく。それにやっていることはたしかに子どもっぽいが、ここでの会話の内容が幼さとはかけ離れていたように思う。
 同年代……六歳程度の子どもが、他人をモブ呼ばわりしたり、沖長を自分の物語のイレギュラーと言い、悲劇を救うといった言葉を口にするだろうか。
 ましてや全員を救い、自分のものにするといった発言をする六歳児なんて普通はいない……と信じたい。
 だが、それが転生者だとしたらどうだろうか。見た目は子どもでも、考え方はそれなりに成熟した精神が引き起こしているとすればどこか納得できる。
「はぁ……マジかぁ」
 思わず立ち止まって、こめかみを押さえつつため息がこぼれる。今の陰鬱な気持ちは神に向けてである。
(あんな自分勝手な考えの持ち主を一緒の世界……しかも近場に転生させるなんて。いや、待てよ。じゃああの銀髪もまさか……?)
 赤髪少年と同じ言動をしていたということは、そういう可能性が非常に高い。
(……! そういや転生するときに―)
 思い起こされるのはある場面。それは神様がこれから転生させる世界についての説明をしたときだった。
『やったぜ! ●●の世界なんてツイてる!』
『マジで!? じゃあハーレム作り放題じゃん!』
『ククク、僕の時代が来たようだな。実に楽しみだよ』
 そんな感じに上機嫌な発言をしていた三人の男がいた気がする。
(適当に聞いてたから詳しくは覚えてないけど、三人の男はノリノリだったはず)
 その三人の言葉から、転生先の世界がどういうものであり、かつ三人にとっては非常に喜ばしいところだということがわかる。
(それがこの世界だとすると、三人はこの世界の知識をあらかじめ知ってたってことか?)
 だから転生先について幸運だと口にし、またハーレム作りができるなんて豪語できた。
 そして忘れてはならないのは、赤髪少年が口にしたさまざまな言葉である。
(特にたびたびガキんちょが口にしてた物語って言葉。あれは本当にこの世界がなんらかの創作物の世界だとしたらどうだ?)
 それならばガキんちょ二人が、ナクルの存在を初めから知っていたような言動や、これからナクルの物語が始まるみたいな言い方にも理解が追いつく。
「……ちょっと待てよ。じゃあ何か、ここがアイツらの知ってる世界だとして、ナクルに執拗に迫るってことは……」
 それは一つの真実を明るみにする。
「……ナクルが主人公、あるいはヒロインの物語ってことか?」
 たしかにナクルの背景は普通のそれとは違う。家が古武術をやっていたり、まだ小さいのにもかかわらず大人顔負けの動きをするなど、物語に出てくるキャラクターと言われても納得することができる。
 沖長は推測ではあるものの、どんどん謎が紐解かれていくことに困惑してしまう。
 そして最後に思い出したのは、転生する直前の神から発せられた言葉である。
「そっちの世界は大変だろうけど、できるだけフォローはしたつもりである。楽しんでくれたら何よりだ」
 注目すべきは最初の“そっちの世界は大変”という言葉。
 これは異世界につきもののモンスターバトルなどの危険性や、日本とは違う治安や文化レベルの低い世界でも頑張れという激励かと思ったが、この世界は現代日本とそう変わらないレベルだった。
 それにもかかわらず大変ということは、何かしらの危険性が存在するということ。
 もしここが漫画やアニメの原作世界だとするなら、その言葉の理屈が合う。
「つまりこの世界は…………ナクルが登場人物として出てくる作品の世界ってことか?」
 その考えに至り、軽く目眩を覚えつつ近くにあった建物の外壁に背を預ける。
 そして天を仰ぎ、またも大きなため息をついた。
「神様ぁ…………そりゃねえだろうよぉ」
 それと同時に、もっと転生先の情報を聞いておけば良かったと嘆いた沖長だった。
 この世界がどうやら原作が存在する世界だと推測した沖長は、家に帰ってもまだベッドに横になり考察に耽っていた。
 確証はないが、もしこの世界がアニメや漫画、あるいはゲームなどの世界だとして、今後どういった物語が流れていくのかわからない。別に未来のことを知らないのは普通だし、前世でもそれが当然であり平凡な人生を過ごしてきた。
 しかしこの世界が、仮にあの赤髪少年が言ったように日ノ部ナクルが主軸となるような物語に沿った流れになるのだとしたら、あの子のそばにいると間違いなくその原作に介入してしまうことになるだろう。
(そうなるとあのガキんちょが言ってたように、俺はイレギュラーな存在ってわけだ)
 赤髪少年や銀髪少年の二人。ナクルと知り合う前に彼女のことを知っていたことを考慮すると、恐らく原作の知識があるのだろう。そしてナクルを自分のものにしたいということは、原作の中心に立つつもりなのだと思う。
(たとえアニメの世界だとしても、平和な世界ならまあ……それほど問題ないけどさ)
 アニメにもさまざまなジャンルがある。ファンタジー、男性向けのラブコメ、女性向けの恋愛、ホラーなどなど。
 ラブコメや恋愛なら、特に問題ない。立ち回り次第で平和に過ごすことは可能だ。
 しかし、もしファンタジーやホラーなどの危険がある設定だとしたらどうだろうか。
 登場人物のそばにいれば、自ずと事件に巻き込まれ命が危ぶまれることだってある。特に死亡フラグが多い物語なら最悪といえよう。
(この世界がどういう物語を設定したもんなのか、できれば聞きたいけど……アイツらが素直に答えてくれると思えねえしなぁ)
 こちらの話に耳を傾けてくれるような少年たちではない。どうせモブだと決めつけ排除しようとしてくる。なまじナクルのそばにいるからその反応はより顕著になるだろう。
(そういやあの二人が転生者だとして、他の転生者たちもこの世界にいるとしたら、そいつらも原作の知識はあるのか?)
 少なくともあと一人、神に詰め寄っていた三人のうち赤髪と銀髪がいたとしたら、もう一人もまた原作の知識はありそうだ。しかし二人と同じように、ハーレム思考や支配欲に塗れていたら、こちらが知識を求めても素直に教えてくれるとは思えない。
 というよりも情報がない以上、残りの一人を探すこともできない。
(そもそもこの近くにいるのかどうかすらわからんしなぁ)
 同じ世界、同じ町に転生したとしても、名前も顔もわからない以上はどうすることもできない。
(あとは……確かもう一人いたけど……)
 そう、転生者は自分とあの三人を含めてあと一人。合計五人だった。
 残りの一人は、沖長のように一歩引いて例の三人を冷たい眼差しを向けていたような気がする。ハーレム発言や欲望まっしぐらにする三人があまりにも下品でドン引きしていたのかもしれない。何せもう一人は―女性だったのだから。
(確か大人の女性だったよな……)
 チラリと見たくらいだからハッキリとは覚えていないが、一人だけスーツ姿の女性だったために印象は残っていた。
(あの女性も同じ場所に転生したとして、原作の知識はあるんだろうか……?)
 あったとしても、ここら周辺に転生していたとしても、他と同じように探す方法は残念ながらないのだが。
「はぁ……ままならんよなぁ。この世界が平和なラブコメだったらと願うだけか……」
 そう願いつつも、気になるのは赤髪の持つ妙な力のこと。
 平和な日常アニメに、あんな暴虐な力は邪魔なだけで必要ないはず。だがもしそういう能力が必要な世界だとしたら……。
「…………ああヤメヤメ! 今は幾ら考えてもどうしようもねえしな」
 そもそもこれだけの情報では。まだ何も答えは出せない。とりあえず流れに身を任せつつ様子を見ることにした。