01TEXT試し読み
訳あり令嬢は調香生活を満喫したい!~妹に婚約者を譲ったら悪友王子に求婚されて、香り改革を始めることに!?~ 2
著者:花宵 イラスト:澄あゆみ
第一章 開店準備と記憶の継承
お兄様は、どんな香りがお好みなのかしら……?
精油瓶の並んだ棚とにらめっこしていると、突然バタンと大きな音がした。
「ヴィオ、朗報だよ!」
調香部屋に、弾んだ明るい男性の声が響き渡る。
こうして豪快に扉を開けて遠慮なく入ってくるのは、私が知る限り一人しかいない。
振り返ると案の定、満面の笑みを浮かべたアレクの姿があった。
「いらっしゃい、アレク。朗報って……」
つかつかと長い足を動かして近づいてきたアレクの手が、戸惑いがちに私の頬に触れる。
さっきまでの笑顔はどこにいったのか。
不服そうに眉をひそめたアレクに、じっと顔を覗き込まれた。
「急に何……?」
「寝てないでしょ、ヴィオ。すごいクマだ。それに顔色も悪い」
化粧で隠していたのに、よくもまぁそんなに遠くから気付いたわね。視力いくつよ。
ばつが悪くなって視線を逸らすと、運良くこの場を切り抜けるアイテムを発見!
「さ、三時間は仮眠をとったわ。だから大丈夫よ。それにほら、疲労を和らげるアロマミストもあるし! リーフの祝福だってあるから……」
私は作業台に手を伸ばし、アロマミストを取ってアレクに見せた。
「大精霊様の祝福だ。確かに効果は抜群だろうけど、それとこれとは別さ。こんなに無理をして作業をしているヴィオを見てると、僕は心が痛いよ」
そう言ってアレクは私の手を両手で包み込むと、片方の手でアロマミストを取って、再び作業台に置いた。誤魔化すなと言わんばかりに。
「わかった、今夜はきちんと休むから!」
「今から、だよね? 僕の聞き間違いかな?」
有無を言わせない笑顔で、アレクが訂正を求めてくる。
「だって……まだ完成しないんだもの」
お兄様へのプレゼント作りに奮闘すること一週間、どれもいまいちでピンとくる香りが見つからない。
「なになに、歩いていくのもつらい? それは重症だね! だったら婚約者の僕が抱えて部屋まで運んであげるよ。それとも王宮の特別医務室のほうがいいかな? ヴィオが一歩もベッドから出なくていいように、婚約者の僕が手厚く看病してあげるね? 期間はそうだな、最低一週間は必要かな」
アレクは婚約者って言葉をやけに強調しながら、エスコートするように私の手を掬い上げた。
もう片方の手で優しく手の甲をすりすりと撫でられ、背筋にぞくっと悪寒が走る。
怖い、怖いってば! 目が全然笑ってない!
それ看病じゃなくて、監禁の間違いじゃないの……!?
「……今から休憩にするわ。今日の作業も終わり! アレク、お茶にしましょう」
一週間も調香を禁止されたら、堪ったものじゃないわ。
軽くため息をついて私が折れると、アレクは安心したかのように頬を緩めて無邪気に笑った。
「ふふ、わかってくれたらいいんだよ。今日は秋風が気持ちいいから庭園がいいな」
「それなら外に行きましょう」
リシャールに持たせたメモの誤解を解いてからというもの、アレクは以前より過保護になった気がする。前はこんなに強引じゃなかったのに。
最近は何かにつけてやたらと婚約者って強調してくるし、こころなしか距離感も近い。
「うん! 行こう、ヴィオ」
現に今も……さりげなく手を恋人繋ぎにして歩きだすのやめて。なんか心臓に悪い!
友達とは違う。なんか特別だよって意識させられて、むずむずする。
そんな私の落ち着かない気持ちは、温室を出た瞬間吹き飛んだ。
外、さむっ!
ひんやりとした秋風が頬を掠めて、身体がぶるりと震えた。思わず手にも力が入る。
繋いだ手から伝わってしまったのか、アレクが心配そうに声をかけてきた。
「寒い? やっぱり温室のほうがよかったかな?」
確かに温室なら魔道具で温度を均一に保ってるから寒くはないけど、調香部屋に籠って凝り固まった身体には心地良く感じる風でもあった。
「大丈夫よ、たまには外の空気も吸わないとね。今日は身体が温まるブレンドを淹れてもらうわ。アレクもどう?」
この時期に飲みたくなる一杯なのと付け加えたら、「ヴィオのおすすめなら喜んで」とアレクは笑顔で頷いた。
それから庭園のガゼボに移動して、侍女のミリアにティータイムの準備をしてもらう。
テーブルには数種の焼き菓子が並べられ、秋にぴったりの特製ブレンドのハーブティーを淹れてもらった。
「甘い香りがしてるのに、後味は結構スパイシーなんだね」
一口飲んで想像した味と違ったようで、アレクが苦笑いしながら浅い呼吸を繰り返している。
「カモミールの茶葉に、ジンジャーとレモンピールをブレンドしてあるの。蜂蜜を足して飲んでも美味しいのよ」
どうやらジンジャーで舌が痺れてしまったのね。私はこのピリッとした感じが好きなんだけど、初めて飲んだら確かに刺激強いわよね。
「そうなんだ、やってみよう」
マイルドにする方法を教えると、好奇心旺盛なアレクは迷うことなくハニーポットに手を伸ばし、蜂蜜をひとさじ垂らしてかきまぜて口に運んだ。
「ほ、本当だ、さっきより飲みやすくなった」
どうやらまだ苦手だったみたいね。顔に出てるわよ。若干涙目じゃない。
「ミルクを足すと、さらに美味しくなるわよ」
私は正面に座るアレクへ、そっとミルクポットを差し出した。
お礼を言って受け取ったアレクは、ティーカップに少しミルクを注いでティースプーンでかきまぜる。
今度はどうかしら……ハラハラしながら味の感想を待っていたら、「これ、美味しい……!」とアレクが目を輝かせて言った。
「お口に合ったようで嬉しいわ。気分によって、色々アレンジして飲んでるのよ」
ジンジャーが身体を温めてくれるから、寒い時期はいいのよね。
ティーカップをソーサーに置いて、私は本題を切り出した。
「それでアレク、朗報っていうのは?」
「ヴィオに一番に見てほしくて」
そう言ってアレクが懐から取り出したのは、一通の書状。中を改めるとそこには出店許可証と書かれており、フェリーチェの店名が刻まれていた。
「ついに許可が下りたのね!」
「そうなんだ! 団長がヴィオの作ったものを魔法のアイテムだって広めちゃったから、許可を取るのになかなか苦戦してさ。でもこれでようやく、開店できるよ」
「魔道具を扱う店と同じ扱いになるってこと?」
「そうそう。どんな魔法効果があるかを、明確にしないといけないんだ。売り出す香水については、魔法効果はないって何度説明しても信じてもらえなくてさ。結局、ヴィオが作ったものとそうではないものの売場をきっちり分けることで、なんとか話がついたんだ」
違法な闇魔道具の販売が禁止されているレクナード王国では、魔法関連のアイテムの販売には厳正な審査の上で許可がいる。
まさかリーフの祝福がそれに引っかかってしまうなんて、完全に盲点だったわ。
そもそもフェリーチェで売り出す商品は、リーフに祝福はかけてもらわない。
あくまでも普通の商品として売るんだから、関係ないと思っていた。
「サンプルとして出したものに、リーフの祝福はかかってないわ。それなのにダメだったの?」
「それがさ、ヴィオが作ったものとエルマとジェフリーが作ってくれたものだと、その効果が目に見えて違ったんだ」
「香水の調合は全て同じレシピで作ってもらっているはずよ。そんなことがあるの?」
「おそらく、リーフとの契約が関係あるんじゃないかな。僕もジンと契約してから、以前より風との親和性が高まったし。【役割】の記憶を継承して、リーフの力は以前より強くなってると思うんだ」
「つまりリーフのおかげで植物との親和性が高くなったから、私の作ったアイテムだけ効果が高いってこと?」
「そうとしか説明つかないんだよね」
リーフの祝福魔法は、素材の持つ本来の力を高めてくれるもの。
進化してリーフの力が強くなったことによって、私にもその恩恵が得られていたのね。全然気付かなかったわ。
「それで開店時期なんだけど、三月はどうかな? 四月には王都でデビュタントや議会も開かれて地方から貴族も集まるし」
フェリーチェは王都の東、静養地として親しまれるシエルローゼンに開店予定だ。
王都観光のついでに足を延ばしやすい地区にあり、王都に貴族が集まる時期に合わせて開店するのは一理ある。
「三月に開店してまずは中央貴族に評判を広めてもらって、四月には地方貴族まで取り込もうって考えね?」
「さすがヴィオ! 話が早くて助かるよ。内装を確認してほしいから、今度お店に行こう」
「ええ、わかったわ」
開店までおよそ四か月、趣味で作っていたものでまさかお店を開くことになるなんて、人生何が起こるかわからないわね。感慨にふけっていたら、やけに前方から視線を感じた。
「えーっと、顔に穴があきそうなんだけど、他にも何かあるの?」
「ところでヴィオ……ろくに休まず、何を熱心に作ってるの?」
お店のラインナップはもう決まってたよね? 誰のために……と呟きながら、アレクは不安そうに瞳を揺らしている。
「お兄様と仲直りしたくて、プレゼントを作ってたのよ。お父様が仰ってたんだけど、今年は領地からお兄様を呼んで、議会のあとに開かれる晩餐会で皆に正式に紹介するらしいわ」
「レイモンド卿が王都に……そうだったんだね……」
「何を作ったらいいのか悩んでたのよ。マリエッタの結婚式でもまともに話せなかったし……そもそも作っても受け取ってくださらないわよね。私、嫌われてるじゃない? 正直会ってくださるかも怪しいわ……」
マリエッタの結婚式で王都に来られた際も、お兄様はヒルシュタイン公爵邸に一度も顔を出されなかったし。
重いため息をつく私に、アレクが慰めるように優しく声をかけてくれた。
「難しく考える必要ないよ。ヴィオの香水は唯一無二のもの。世に広まればレイモンド卿は必ず興味を持つはずさ。いやむしろ、持たざるを得ない。だって君とコネクションを持ちたい者は間違いなく、レイモンド卿に接触するはずだからね」
「それって逆にお兄様を逆撫でしてしまうんじゃ……」
「社交場でわざわざ不仲だって自分の弱点になるようなことを、普通はしないと思うよ。だからヴィオはレイモンド卿の興味をより引き立てる、特別な香りを作ればいいんだ。そうすればきっと、欲しくなって向こうから会いに来るはずさ」
「お兄様が、お店に……!?」
こちらから会いにいくんじゃなくて、まさかお兄様を逆に誘い込もうとするなんて。正直私には考えもつかなかった。
お兄様の興味を引き立てる特別な香り……そう考えた時に真っ先に思い浮かんだのが、お母様から優しく香っていた気品を感じる清らかで甘い香りだった。
お母様は昔、乾燥させたブルースターを香袋に入れて持ち歩かれていた。その香りをお兄様もとてもいい香りだと褒めていたのよね。
その香りを再現した香水を作れば、お兄様は興味を持ってくださるかもしれない。
むしろこんなものを作るなと、お店に怒鳴り込んでこられる可能性も高い気がする。
それでもまずはもう一度向き合って、今度はきちんとお話がしたい。そうしてお兄様のことを知った上で、喜んでいただけるものを贈りたいと思った。
「何かいい考えが浮かんだようだね」
「ええ。アレクのおかげよ、ありがとう。よかったらラインナップにもう一つ、商品を追加してもいいかしら?」
「もちろんだよ! そうだ、ヴィオ。リーフに渡したいものがあるんだけど……」
アレクとそんな話をしていたら、庭園の奥のほうから「いーやーだー!」と叫ぶリーフの声が聞こえてきた。
ああ、今日も始まったのね……。
「今の声、リーフ?」
「この時間になると、ウンディーネ様がリーフに会いに来られるのよ。記憶を継承しにね……」
空を見上げると、屋根の上でリーフとウンディーネ様が追いかけっこをしていた。
まぁ正確に言えば、リーフがウンディーネ様から逃げているだけでもある。
『リーフ様、今日こそは【愛】の記憶の継承を……』
「いやだー! 僕にはまだ必要ないよー!」
進化できて嬉しいって言ってたリーフだけど、【役割】の記憶を継承してから数か月眠りについた。
それがとっても嫌だったみたいで、ああして継承を渋っているのよね。
「ヴィオ、助けてー!」
そして最後はいつも私の背中に隠れてしまう。身体は大きくなっても、本当に中身はまだ子どもなのよね。
『毎度お騒がせして申し訳ありません』
空から優雅に着地されたウンディーネ様は、困ったように微笑んでおられる。そしていつものように神秘的な水球を召喚すると、水のベールを割って手紙を取り出された。
『ヴィオラ殿、今日もリシャールから手紙を預かっております。よかったらこれを……マリエッタに渡していただけますか?』
「ええ、もちろんです。いつもありがとうございます」
椅子から立ち上がって、私は手紙を受け取った。濡れてないのが、本当に不思議ね。
『もとは私のせいですから……一日も早くマリエッタが元気になることを祈っています』
あれからリシャールは、本当に一日も欠かすことなく、手紙を送ってくる。
上級精霊様に配達を頼むなんて罰当たりな気もするけど、今回の件に関してはウンディーネ様も責任を感じておられるようで、協力してくださっていた。
ウンディーネ様も記憶の継承でリーフに用があるようなんだけど、毎日この調子でリーフが受け入れようとしないのよね。
私の後ろからてこでも動かないリーフを見て、ウンディーネ様は悲しそうに目を伏せる。
『今日も記憶の継承は難しいようですね……それではまた、明日伺います。リーフ様、失礼いたします』
輝く水の渦に包まれ、ウンディーネ様は姿を消した。去り際まで上品で美しいわね。
「リーフ……そんなに【愛】の記憶、継承したくないの?」
振り返って声をかけると、リーフはこちらを見て、不安そうに翡翠色の瞳を揺らしている。
「だって、怖いんだ。もし長い眠りについて、目覚めた時にヴィオがいなかったら……僕はまた、ひとりぼっちだ……」
確かに何百年とリーフが眠りについてしまったら、彼が目覚めた時私は生きていないだろう。
精霊にとったら人間なんて、刹那な時間しか生きられない、儚い存在に見えてしまうのも無理はない。
無責任な言葉でなだめることもできなくて返答に困っていたら、「リーフ、君は決して独りにはならないよ」と、席を立ったアレクがしんみりした空気を振り払うように明るい声で言った。
「君は自然を司る大精霊ユグドラシル様の後継者で、この大陸中の人々が大切に思う特別な存在なんだ。本来なら君の無事を大陸全土に知らせて、新しい大精霊様の誕生を大々的に祝う式典を開く予定があってね……」
「僕の存在を、大陸全土に……嫌だ、知られたくない……っ! ヴィオ、助けて……!」
アレクの言葉は逆効果だったようで、リーフは私の腕にしがみつくと身を縮こまらせてカタカタと震えている。
今のリーフにとっては知らない大勢の誰かより、確かな繋がりを持って近くで支えてくれる人の存在が必要なのかもしれない。
「大丈夫よ、リーフ。貴方の嫌がることを無理にはしないわ」
安心させるように、私はリーフの頭を優しく撫でた。
「本当に……?」
不安そうに顔を上げたリーフに、「約束するわ」と微笑んでみせる。
「ほら、立ち話もなんだし座って話しましょ」
隣の席に座るようにリーフを誘導して、私も席に着く。
「アレク、今はまだ公表するのは無理よ。遅らせることはできないかしら?」
この前まで屋敷の外ですら出れなかったのに。
身体は大きくなっても、リーフの精神はまだ見た目よりもかなり幼い。そんな状態でいきなり大陸全土に知らせるだなんて。
「ごめん、驚かせるつもりはなかったんだ。その件に関しては全ての記憶継承が終わって、大精霊としての力を扱えるようになってからするのはどうかなって、相談しようと思ってて」
「それなら、今すぐってわけじゃないのね?」
「世界樹炎上事件の黒幕も未だに捕まっていないし、リーフの存在が魔族に知られてしまえば危険だからね。王家としては、リーフの身の安全を優先させたほうがいいと思ってるんだ」
「魔族が、僕を……あの時のように、また……」
声を震わせそう呟いたリーフは、顔面蒼白になっていた。
「あの時のように……? リーフ、もしかしてここに来る前の記憶、何か思い出したの?」
「断片的に、少しだけ。生まれてすぐ、赤い目をした恐ろしい者たちが、僕が入っていた卵の殻を、容赦なく燃やしてたんだ。恐ろしくて、とにかく遠くまで逃げた。でも途中で力尽きて、倒れた僕が目覚めるまで、近くにあった木が守ってくれたんだ」
「そんなことが……とても怖い思いをしたのね」
世界樹炎上事件は、約二百年前の出来事。リーフの成長が遅れているのは、心も身体も傷付いて、長い間眠り続けていたせいなのかもしれないわね。
「赤い目は、魔族の証なんでしょ?」
「確かに魔族や魔族に操られている者は、赤い目をしているわ」
「僕が生きているって知ったら、魔族はまた僕を……」
「安心してほしい、リーフ。レクナード王家は、何があっても君を必ず守ると約束するよ」
アレクは優しく声をかけると、ポケットから小さな包みを取り出した。丁重に巻かれた布を解いて中から出てきたのは、瑠璃色に輝く宝玉の嵌め込まれた指輪だった。
「本来はきちんとした式典で、王が大精霊様に忠誠を誓って捧げる国宝なんだけど、レクナード王国の真意を伝えるために、父上から持たされたんだ。どうか受け取ってほしい」
「……これを僕に? この国は、僕を守ってくれるの?」
指輪とアレクを交互に見て、リーフは戸惑いを隠せないようだった。
「もちろんさ! 世界樹炎上事件のような惨劇は、もう二度と繰り返してはならない。そのためにレクナード王国では、精霊に害をなす魔族への取り締まりを厳しく行っているし、これからはより一層強化していく方針だよ。それに第二王子としてだけでなく、僕個人としてもリーフの力になりたいんだ。だって君は、僕の大切な人をパートナーに選んでくれたからね」
優しく微笑むアレクを直視できなかったのか、リーフは視線を逸らすように俯いた。
「僕は臆病だから、立派な大精霊になれるかどうか、わからないよ……」
どうやらプレッシャーを与えてしまったみたいね。
無理やりジン様から【役割】の記憶だけを引き継いで、心と身体のバランスもうまく取れない状態で過度な期待を寄せられても、自信を持つことはきっと難しいだろう。
「大丈夫よ、リーフ。無理して立派になる必要はないの。今までのように貴方らしく胸を張って、やりたいことに挑戦するといいわ。私もアレクもそれを応援するし、支えてくれる仲間が増えるって思ったら、心強いと思わない?」
焦らなくていいんだよって気持ちを伝えると、リーフは私の顔を見てこくりと頷いた。
「…………わかった、僕はレクナード王国の忠義を受け入れる」
アレクが献上した指輪にリーフが手をかざすと、光の粒子となって吸い込まれるように消えた。
「なんだか、勇気がわいてくる。これが人々の忠義の証……」
「大精霊様へ捧げる国宝には、毎日欠かすことなく感謝の祈りが捧げられているんだ。人々の想いが詰まったものなんだよ。受け入れてくれて、ありがとう」
「こちらこそ、大事なものを僕に預けてくれてありがとう」
「そこで相談があるんだけど、君の神々しい姿はとても人目を引くんだ。この国では能ある鷹は爪を隠すって言葉があってね、実力者ほどそれを表面に出さないんだ。ほら英雄王イスタールも、普段は目立たない姿をしていただろう? リーフ、君にはそれができると僕は思うんだ!」
アレクの言葉がやけに芝居がかってきたと思ったら、リーフは見事に騙されてしまった。
「うん、わかった! 僕も英雄王イスタールみたいに、普段は目立たない姿になる!」
神々しい光に包まれたあと、リーフは懐かしい白狐の姿になった。
「どう? これなら目立たないでしょ!」
「完璧だよ、リーフ! やはり君はすごいな!」
相手に合わせたアレクの話術って、地味にすごいわね。相手を気持ちよくさせたまま、自分の意のままに操ってるんだもの。
「それと、もう一つお願いがあるんだ。これはリーフにしかできないとても重要なことなんだ」
「僕にしかできない重要なこと?」
「実はね、ヴィオがきちんと休まずに作業をしてるみたいなんだ。もし夜遅くまで作業に没頭してたら、きちんと休むように促してあげてほしいんだ」
思わずハーブティーを吹き出しそうになったじゃない! ずるいわ、リーフに見張りを頼むなんて。
「うん、僕に任せて!」
「ありがとう、リーフ。頼りにしてるよ!」
気のせいじゃない。やっぱりアレクの過保護さに、拍車がかかってる気がするわ。
アレクが帰ったあと、私は預かった手紙を渡すためにマリエッタの部屋を訪ねた。
「マリエッタ、いるかしら?」
ノックをして声をかけると、部屋の中から少しドタバタと騒がしい音がして、扉が開いた。
「お、お姉様! どうなさいました?」
「……大丈夫? すごい音がしたけど……」
「は、はい! 絵を描いていて、道具を少し落としてしまっただけです!」
「ごめんね、邪魔をしちゃって……」
「いえ、そうではなくて! よかったらお入りください」
マリエッタに案内されて中へ入ると、窓際のイーゼルスタンドが目についた。大きな布が被せてあって、中身は見えない。
「なんの絵を描いていたの?」
「えっと、その! 風景画を……まだ完成していないので、恥ずかしくて……」
マリエッタは隠すように、わたわたと両手を広げている。
デザインするのが上手なのは知ってたけど、風景画にも興味があったのは知らなかったわ。
「そうだわ、よかったら温室に絵を描きに来ない? 秋の花々が綺麗に咲いてるのよ」
ソファに腰掛けて何気なく尋ねると、マリエッタは驚いたように目を大きく見開いた。
「お姉様の温室にですか……!?」
「大丈夫よ、虫はいないから。ミミズだって土を掘り返さなければ出てこないわ。やっぱり、苦手……かしら?」
「確かに虫は苦手なんですけど……でも、そうではなくて! その、最近はアレクシス殿下がよくおいでになっているようなので、私がいては邪魔じゃないかなと……」
「アレクは別に毎日来てるわけじゃないし、大丈夫よ。それに温室は空調設備も整えているから過ごしやすいし、マリエッタの描いた絵、私も見てみたいわ。気が向いたらいつでも待ってるわ」
「はい、ありがとうございます」
無理強いはできないけど、気分転換に遊びに来てくれたらいいわね。
「本題なんだけど、ウンディーネ様からこれを預かってきたの」
私はマリエッタに、リシャールからの手紙を差し出した。
「あ……今日も、送ってくださったんですね……」
複雑そうな表情を浮かべて、マリエッタは手紙を受け取った。
「もしかしてこの手紙、負担だったり……する?」
「手紙を読むと、リシャール様が真面目で優しい方だっていうのはわかるのですが、何も思い出せないのが、申し訳なくて……それになんてお返事をしたらいいのかも、わからなくて……」
リシャールは無理に返事を求めはしないと思う。けれど返事が来たら喜ぶだろうっていうのは容易に想像つくわね。
私と婚約してた時、リシャールはいつも思い詰めたような難しい顔をしていた。
支援目的の縁談による後ろめたさ、加えてログワーツ伯爵による誓約呪術の影響も少なからずあったのだろう。
表面を取り繕った愛想笑いを浮かべることはあっても、楽しそうに笑っている顔を見たことがなかった。
それが婚約を解消したあの日、本当に幸せそうにマリエッタに笑いかける姿を見て、真実の愛ってすごいわねって思い知らされた。
たとえこのままマリエッタの記憶が戻らなくても、リシャールはきっとマリエッタを大切にしてくれるだろう。彼を苦しめていた誓約呪術はもう効力を失っているし、マリエッタの理想を叶えるべく、今頃きっと努力して領地を改革してるはずだわ。
問題は、マリエッタの気持ち……なのよね。
「それなら、何か質問をしてみたらどう? 無理に思い出そうとしなくても、少しずつリシャールのことを知っていけば、また好きになる可能性もあるんじゃないかしら」
一方的に自分のことを相手に知られているって、地味にストレスだと思うのよね。
「質問をして、もっとリシャール様のことを知る……」
「まぁ、それもマリエッタがリシャールのことをもっと知りたいと思った時に、返事を出せばいいと思うわ。だって興味がない相手に手紙を書くのって苦痛じゃない? 無理だけはしちゃだめよ」
マリエッタはたまに、相手に合わせようとしすぎる面がある。最初の婚約者セドリックの時みたいに、自分を失わせるような付き合い方だけはもう、してほしくなかった。
「はい! 少し気が楽になりました。ありがとうございます、お姉様」
❖ ❖ ❖
あれから三日後、マリエッタは初めてリシャールに返事を書いた。
預かった手紙をウンディーネ様にお渡ししたら、リシャールに良い報告ができると、自分のことのように喜んでいらっしゃった。
マリエッタとリシャールは一歩前進だと思ってよさそうね。
相変わらずリーフはまだ決心ができていないようで、今日も記憶の継承を渋っている。
でも前のように逃げ回るんじゃなくて、自分の知らないことを学ぶため、色々とウンディーネ様に質問をするようになった。
愛の記憶を引き継ぐことで、何を知り、何ができるようになるのか。
そうして一つずつ、自分の中にある不安を解消しているようだ。
ウンディーネ様も知りうる限りの知識で丁寧にリーフの質問に答え、まるで先生と生徒のようだった。こちらも一歩前進したといえるだろう。
みんながそうして少しずつ前に進んでいるなか、私は一人調香部屋に閉じ籠り悩んでいた。
「これも違う。やっぱり、何かが足りない……」
まだ時間はある。焦る必要はないとわかっているものの、理想の香りが調合できなくて、思わずため息がもれる。
失敗した試香紙を捨て、今度は清らかな香りを足してみようと精油瓶に手を伸ばす。しかしそれを阻止するかのように、目の前がピカッと光って頭にトンと何かが着地した。
「ヴィオ、もうお外真っ暗だよ。夜ふかし、よくない!」
むにむにとした肉球が、私の頭をぺしぺしと叩いて訴えてくる。
「ごめん、リーフ。少し夢中になりすぎたみたいね」
「わかってくれれば、いいんだよ!」
作業台に着地したリーフは、ふふんと誇らしげに言った。
アレクに与えられた任務を着実にこなすリーフは、夜遅くまで私がこうして作業をしていると、注意をしてくれるようになった。
「続きはまた明日にするわ。片付けて部屋に戻りましょう」
時計に目をやると、夜の十時を迎えている。
夕食後に少しだけと思ったら、もうこんな時間だなんて。調香部屋には窓がないから、時間の感覚がわかりづらいのよね。
なんて心の中で言い訳を述べつつ、急いで片付けを終えて温室をあとにした。
お兄様の興味を引く特別な香水を、どうしてもお店のラインナップに追加したかった。
ブルースターの香りを主軸にした、お母様がお持ちだった香袋。その匂いを再現した香水を作れば、お兄様はきっと興味を持ってくださるはずだ。
匂いは記憶と、その時感じた喜怒哀楽の感情を呼び覚ます。それは嗅覚が記憶を司る脳へ直接信号を送り、働きかけることができるからだって、本で読んだことがある。
お兄様が好きだと仰っていた香袋の匂いで、お母様と過ごした幸せで安らかな時間を、少しでも思い出してくださるといいわね。
でもそれは、私に対するお兄様の怒りを助長させる行為にもなるだろう。
それでも私は今度こそ、お兄様ときちんと向き合って話したかった。
お兄様が王都へ来られるこの機会を、無駄にはしたくないって思うのに、香りが再現できなくて私は焦っていた。何かが足りないと感じるのに、その何かがわからないせいだ。
「大丈夫、ヴィオならきっと作れるよ」
そっとため息をつく私を見て、リーフが元気付けるように声をかけてくれた。
「ありがとう、頑張るわ。それよりもリーフ、その姿不自由じゃない?」
アレクの口車に乗せられて、リーフは普段から白狐の姿で生活するようになった。
でも屋敷の中でくらい、自由にしてていいと思うんだけど。
「慣れてるから大丈夫だよ。英雄王イスタールだってやってたでしょ! 能ある鷹は爪を隠すってやつさ!」
まぁ、本人がそれで納得してるなら、私がとやかく言うことではないわね。
ランタンの灯りを頼りに、私は音を立てないよう屋敷に入り、玄関の扉を静かに閉めた。しっかりと施錠して廊下を歩いていると、前方に不審な人影があることに気付いて立ち止まる。
「…………っ、…………っ」
嗚咽のような声を聞いて、隣を飛んでいたリーフは、さっと私の後ろに隠れてしまった。
「ヴィオ、何かいるよ……!」
「大丈夫、いざとなれば茨ではりつけにしてあげるわ」
手を伸ばしてランタンの灯りをかざすと、そこにはうずくまってカタカタと身体を震わせているマリエッタの姿があった。
「マリエッタ……!? 大丈夫!?」
慌てて駆け寄ると、「寒い……っ、寒い……っ」と呟きながら、マリエッタは両手で自身の両腕を必死にさすっていた。
ランタンを床に置き、私は着ていた白衣を脱いでマリエッタの肩に掛ける。
「リーフ、私の部屋から温感スプレーを取ってきてくれない?」
振り返ってそう声をかけると、「僕に任せて」と頷いたリーフはその場から姿を消し、数秒後に温感スプレーを持ってきてくれた。
「確かこれだよね?」
「ええ、ばっちりよ。ありがとう」
受け取った温感スプレーを、私はマリエッタに吹きかける。
「…………はっ! 私、こんなところで何を……」
「よかった、なんとか正気を取り戻したみたいね」
「喉が渇いて、水を飲んで部屋に帰ろうとしたら、動けなくなって……」
夜の廊下は昼間より冷える。もしかするとこの寒さが、マリエッタにログワーツで味わった恐怖を呼び起こしてしまったのかもしれない。
「温かいお茶でも淹れるよう、侍女を呼べばよかったじゃない」
「侍女……ああ、そうですね。どうして気付かなかったんだろう……」
そういえば、ログワーツでは侍女の一人もいなかったわね。
もしかして、潜在的にログワーツでの感覚が染み付いてしまっているのかしら?
これからもっと寒くなるし、少し注意深くマリエッタのことを気にかけてあげるよう、お願いしておく必要があるわね。
「マリエッタ、部屋を出る時はこれを使うといいわ。寒さを和らげてくれるものよ」
温感スプレーを渡すと、マリエッタは大きく目を見開いた。
「ありがとうございます、お姉様!」
大事そうに胸の前でぎゅっと温感スプレーを握りしめる姿を見て、胸が痛んだ。
「いつでも作ってあげるから、無くなる前に声かけてね。部屋まで送るわ」
「はい、ありがとうございます」
先に立って手を差し伸べると、マリエッタは私の手を掴んで立ち上がった。
「なんだか懐かしい香りが……」
「さっきまで調香をしてたから、ブルースターの香りがその白衣に付いてしまっているのかもしれないわ。覚えてる? お母様が好きだったお花よ」
「どんなお花かはよく覚えてないんですが……私が泣いていたら、抱き締めてくれたお母様からこんないい香りがしてたなって思い出して」
そう言ってマリエッタは白衣の袖口を鼻に近付け、香りを確かめている。
「……って、すみません! お姉様の白衣を借りたままで!」
「いいのよ、さぁ部屋に戻りましょう」
お母様が亡くなったのは、マリエッタがまだ四歳の頃だ。花のことをよく覚えてなくても無理はない。でもやはり、香りだけは記憶に残ってるのね。
「ねぇ、マリエッタ。お母様の香り、何かが足りないと思わない?」
「うーん……あ、そういえば! もっとふんわりと甘い香りがしてたなって。お母様、よくキャンディをお持ちだったじゃないですか? 私が泣いているとポケットから取り出して、よくくれたんです」
ちょっと待って、それは初耳だわ。というか私、もらったことないわよ?
「みんなには内緒よって……あ、そういえば内緒でした!」
あわわと慌てだすマリエッタを見て、思わず笑ってしまった。
「ふふ、お母様とそんな思い出があったのね」
私にお花の育て方を教えてくださったように、マリエッタにはマリエッタの、そしてお兄様にはお兄様にしかない、お母様との思い出の記憶があるのは当然だ。
「ありがとう、マリエッタ。貴女のおかげで私も前に進めそうだわ」
「よくわからないけど、お役に立てたのなら光栄です!」
思い出の香りを正確に再現しようなんて、難しく考える必要はなかったのかもしれない。
記憶を呼び覚ます手助けとなる、ブルースターをより引き立てる香水を作ればよかったのよ。
だって記憶の中にあるお母様との思い出は、その人だけの大切なものなんだから。
みんな違って当たり前なんだ。
翌日、私は少しでも参考にできればと、お父様にもお母様との思い出を伺ってみた。
すると教えてくださった中に、幼少期のお兄様に纏わるお話があった。
幼少期のお兄様は毎朝、裏庭で剣の稽古に励まれていた。非番の日はお父様もその稽古に付き合い、お母様がタオルを差し入れに来てくださっていたそうだ。
『ミネルヴァがくれるタオルからは、甘くて爽やかないい匂いがしていたんだ』
そんなタオルでお母様に汗を拭ってもらうお兄様は、恥ずかしがりながらも、嬉しそうだったこと。真似をしてお父様がわしゃわしゃと髪を拭いてあげたら、『父上……僕には構いませんが、くれぐれも妹たちにはやめてあげてください』と、なぜか注意されてしまったこと。
どうやら力が強すぎたようで、あとでミネルヴァにも諌められてしまったよと、懐かしそうにお父様は目を細めておられた。
甘くて爽やかないい匂い……お母様はもしかすると、タオルに疲労回復効果のある香りを馴染ませていらっしゃったのかもしれない。カモミール、ラベンダー、ゼラニウム? 爽やかな香りならネロリやベルガモットの可能性も……うん、これは良い話が聞けたわ!
二人にもらったヒントを頼りに、それから調香に明け暮れること一週間、ついにブルースターを主軸にした香水が完成した。
ブルースターの精油は、揮発性が比較的ゆっくりのミドルノート。付けてから三十分後に、気品のあるフローラルな香りを長く楽しめる、中核となる香りだ。
この香りを自然により引き立てる組み合わせを考えるのに、精油のストックと試香紙をかなり使い果たしてしまった。また補充しないといけないわね。
それよりも今は、忘れないうちにレシピを書き起こしておこう。
配合の割合を記したメモ帳を見ながら、ブルースターの香水の調合レシピを丁寧に書く。終わったところでチェストから魔法の誓約封筒と蝋燭、刻印に使う特殊なシーリングスタンプを取り出した。
普通の人がこれを見てもなんのことかわからないと思うけど、アレクに言われたのよね。
私の作った調香アイテムのレシピは門外不出だから、絶対に人目がつかないように保管してねって。ご丁寧に特定の人しか開けない魔法の誓約レターセットまで置いていったし。
レシピを誓約封筒に入れて、封をするように蝋を垂らす。シーリングスタンプを押すと誓約印が浮かび、吸い込まれるように消えた。
今度お店の内装を確認しに行く時に、エルマたちに渡そう。
「この香りが、お兄様に届くといいわね……」
お店の商品として売り出す香水は、女性用と男性用で香りや入れ物をわかりやすくしている。
でもこの香水に関しては、男女どちらが付けても違和感がないように香りを調整して仕上げ、香水瓶もシンプルなものにしている。
男女兼用の香水が、正直受け入れられるかわからない。
でも多くの人に、お母様の好きだったブルースターの素敵な香りを知ってもらうには、この方法が一番いいと思った。
それに開店まで、あと三か月しかない。現実的な問題として、男女別で二種類作るほど、商品に必要な精油の調達が厳しいのが現状だった。
商品としてよく使う精油に関しては、あらかじめアレクの経営するノーブル大商会で仕入れてもらっている。花農家と直接契約して生花を仕入れ、それを精油に加工してもらっているのよね。
空調を整えた施設で今から花を育てたとしても、春の花であるブルースターを大量に仕入れるのは、正直難しいだろう。
その時ふと目についた時計が、昼の二時を指していることに気付く。
封をした誓約封筒をチェストにしまった私は、慌てて温室に移動した。
今日も来てくれるかしら?
数日前から、マリエッタが絵を描きに来てくれるようになったのよね。
「お姉様、あの……今日も……」
スケッチブックを両手で抱き締め、白い息を吐きながら温室にやって来たマリエッタは、そう言ってこちらを不安そうに見つめている。
空調を保持する魔道具で温室内は温度を均一に保っているとはいえ、一度寒い庭に出なければここへは来れない。
「いらっしゃい、マリエッタ。遠慮せずに座って」
「はい! ありがとうございます」
私が椅子を引いて座るように促すと、マリエッタは明るい笑みを浮かべて腰を掛けた。
「このブランケット使ってね。寒かったら温度上げても大丈夫だから、遠慮なく言うのよ? それから温かい飲み物を……」
「ふふ、お姉様。もう寒さは大丈夫ですよ。いただいた温感スプレーのおかげで、外に出ても平気です!」
どうも心配しすぎたようで、マリエッタはおかしそうに笑っている。
「でもね、万一ってことがあるじゃない?」
「もう十分、備えてくださってますよ。私付きの侍女がみんな温感スプレーを携帯するよう手配してくださったの、お姉様ですよね?」
「ええ、すぐに使えるように、腰にぶら下げるポーチとセットでみんなに持たせたの。移動の時は、絶対に誰かに付いてきてもらうのよ?」
「はい。ここに来る時も、きちんと侍女のアリーが付き添ってくれました」
「それならよかったわ」
その時、リーフが寝床として使っているバスケットの中から、「んー」と伸びをする声が聞こえた。
どうやら賑やかな私たちの声で、お昼寝をしていたリーフを起こしてしまったらしい。
「おはよう、リーフ。今日はよく寝てたわね」
「ウンディーネに、魔法の扱い方のコツを教わったんだ。それで練習してたら疲れちゃって」
ふわーと大きな欠伸をしたリーフは視界の先にマリエッタを捉えると、「今日は何を描くのー?」とバスケットから飛んで移動し、興味深そうにマリエッタの持ってきたスケッチブックの隣に腰を下ろした。
「今日はあのお花を描こうと思って」
「ヒメユリ! 白いのはウンディーネが好きなやつだよ」
「そうだったわね。昔、リシャールが集めてて、どこで手に入るのか教えてほしいって聞かれたことがあったわ」
「リシャール様が、このお花を……?」
「ええ。あの時はなんで必要なのか知らなかったけど、ウンディーネ様に献上するためだったみたいね。ログワーツで大規模な精霊暴走事件があって……」
はっ、しまった! 慌てて口をつぐむと、マリエッタが核心を突く質問を投げかけてくる。
「私はその影響で、記憶を失っているのですか?」
「まぁ……端的に言えば、そうなるわね……」
今の状態のマリエッタに、ログワーツのマイナスイメージを与えるのはよくない。そう思ってなるべく話さないようにしてたのに……。
「そ、そうだマリエッタ! 貴女のおかげで理想の香水が完成したのよ! お店のラインナップに増やす予定なんだけど、よかったら試してみない? 取ってくるわ!」
逃げるように調香部屋に香水を取りに来たけど、どう見ても不自然だったわね。
せっかくリシャールに、返事の手紙を書いてくれるようになったのに。
気持ちを落ち着けて温室に戻ろうとすると、話し声が聞こえてきて思わず足を止める。耳をそばだてると、会話が聞こえてきた。
「ごきげんよう、マリエッタ嬢。あれ、ヴィオはいないの?」
「お姉様は調香部屋です。理想の香水ができたから見せてくださるそうで……」
「ついに完成したんだね! どんな香りか楽しみだな!」
「……どうして殿下は、私のお姉様と婚約されたのですか?」
「それはもちろん、ヴィオのことを愛しているからだよ」
さも当然と言わんばかりのアレクの言葉に、手にした香水を思わず落としそうになった。
よ、よく恥ずかしげもなくそんなこと言えるわね。
「……殿下は色んな女性から愛を囁かれていると、噂の絶えない御方と存じております。もし一時の気の迷いで私のお姉様に目をつけて、利用しようとなさっているのだとしたら……」
しかし聞いたこともないマリエッタの冷たい声に、そわそわしていた心臓が驚きで一瞬止まりそうになった。
「それらの愛に応えたことは、一度もないよ。本当に手に入れたいのは、ヴィオだけだからね。僕の信用が足りなくて、君がヴィオのことを心配する気持ちもわかるけど、どうか今はその敵意を抑えてくれると嬉しいな。彼女が大切に想う家族とは、仲良くしたいからさ」
マリエッタがまさかあんなことを言うなんて……そういえば、お父様からの信用もアレクは最初、あまり持ってなかったわね。
「毎日夜遅くまでお姉様に無理をさせて、よくもそんなことを……!」
戻りづらくて立ち往生していたら不穏な空気になってきて、私はわざと大きな音を立てて扉を開けた。
「あら、アレク。来てたのね、いらっしゃい」
平静を装い声をかけると、リーフがこちらに飛びついてきた。
「ヴィオ! アレクとマリエッタ、喧嘩してるの! 怖かったよー!」
そうよね、私より近くで聞いてたら、それは怖いわよね。あとで二人に別々に事情を聞こうと思ってたのに、それもできなくなってしまった。結局私は――。
「えっと、何があったのかしら……?」
この場でそう尋ねるしかなくて、アレクとマリエッタはばつが悪そうに視線を泳がせている。
「ヴィオのことが好きすぎて、二人とも喧嘩してるの。夜まで作業するの、やっぱりだめだよ! 二人とも心配してる!」
流れる重い沈黙を、リーフが思わぬ形で吹き飛ばしてくれた。
徹夜しないだけましだと思ってたけど、アレクに無理をしないよう言われてたのに、夜まで作業してた私のせいね。
マリエッタの中で、アレクは私を軽い言葉で騙して馬車馬のごとく働かせる、極悪人みたいな印象になってるわ。なんとか誤解を解かないと申し訳ないわね。
「二人とも心配かけてごめんなさいね。私がどうしても作りたいものがあって、没頭してたのが悪いのよ」
ブルースターの香水を見せながら、私はさらに言葉を続ける。
「ほら、でも完成したからもう無理はしないわ。空中に霧散させるから、よかったら香りを確かめてみて」
険悪な空気を払うように、私は斜め上空に香水を吹きかけた。
ふわっとミストのように香りのシャワーが落ちてくる。
「これは……上品で甘いのに、透明感があっていい香りですね! でもブルースターの香りとは少し違うような?」
「主軸となるブルースターは、付けて三十分後に香ってくるわ」
「まるで洗いたての温かいリネンに包まれているような、優しい香りだね。何を配合してるの?」
「トップノートに配合してるのはホワイトローズとイヴィルシードよ」
「イヴィルシードって、あの強烈に臭い花の種……!?」
「単体で嗅ぐと確かに脂っこく鼻に残って、強烈な香りよね。でも配合を調整すれば、相手をより引き立てる香りにもなるのよ。アレク、少しだけ香りを風で飛ばせる?」
「任せて」
アレクの魔法で発生したふわりと舞う風が、優しくトップノートの香りを飛ばしていく。
「この香りは……すごいです、お姉様! 懐かしいお母様の香りがします!」
「マリエッタが着想をくれたから、完成したのよ。ありがとう」
「お役に立てたのなら光栄です!」
二つの香りが少しずつ薄れたあと、上品で澄み切った美しいブルースターの香りに、ヴァイオレットの爽やかな甘さが寄り添って、お母様を彷彿とさせる懐かしい思い出の香りになる。
香りの移り変わりを考えた時に、ホワイトローズが一番自然にマッチしたのよね。
「甘さを抑えた清潔感のある清らかな香りは、男女問わず使いやすいと思うの。どうかしら?」
「これなら場所を選ばずどんな人でも使いやすそうだし、とてもいいと思う。男女兼用の香水が作れるなんてすごいよ、ヴィオ!」
男性意見が聞きたくてアレクに尋ねると、そう興奮気味に感想をくれた。
「驚くのは早いわ。もう一度風で香りを飛ばして、最後に残り香を試してみてほしいんだけど」
「わかった、任せて」と頷いたアレクが再び魔法で香りを飛ばす。
最後に香る温かみと安心感を与える匂いを嗅いで、アレクが驚きで目を大きく見開いた。
「え……まさか、この香りは……!?」
「よーく馴染みがある香りでしょ? ラストには極少量の麝香とサンダルウッドを使ってるの。少しずつ肌に馴染んだ清らかで無垢な香りが時間を経て、最後は自分の一部として調和するように作ってみたの」
お母様との思い出は、私たちそれぞれの中にきちんとある。それを大切にして、どうか前に進んでほしい。そんな想いを込めて、最後はこの形にしてみた。
「僕は今、身に染みてわかったよ。兄上がどれだけ無駄な麝香の使い方をしてたのか……」
動物性香料の麝香は、その官能的な香りで他の香りを引き立たせ、香りに広がりと奥行きを持たせることができる。ほんの少量なら、縁の下の力持ちとしてよく馴染むのよね。
そこにサンダルウッドの落ち着いた優しい香りを混ぜることで、リラックス効果をもたらし、残り香として安心感を与えている。
「これで正しい麝香の使い方を、みんなに広めましょう」
「うん! ありがとう、ヴィオ! 僕のアイデアと君の素晴らしい才能で完成したこの香水、絶対に売れるよ!」
「聞き捨てなりませんわ。この香水は私が与えた着想と、お姉様の素晴らしい才能で完成したんです!」
「何を作ったらいいか悩んでいたヴィオにアドバイスしたのは、僕だよ」
「お姉様にインスピレーションを与えたのは、私です!」
アレクもマリエッタも、顔は笑ってるのに目は笑っていなかった。
「ヴィオ、また二人が喧嘩してる!」
ああ……どうしてこうなるのよ。リーフがまた怯えだしてしまったじゃない。
まさかアレクとマリエッタの相性がここまで悪いなんて、思いもしてなかったわ。
「二人のおかげで完成したのよ、これじゃだめなの?」
「ヴィオがそう言うなら……」
「お姉様がそう仰るのでしたら……」
納得してなさそうな顔して、二人とも不貞腐れている。
このままじゃまずいわ。もし今後温室でダブルブッキングして、いつもこんなにピリピリしてたら心休まらないじゃない。リーフも怯えるし。
「アレク、フェリーチェに行くの明日だったわよね?」
「うん、そうだよ」
「マリエッタ。よかったら明日、一緒に見学に行かない?」
「え、私もですか……!?」
「大きくなってからは、一緒に出かけることも減ったじゃない? 私の好きなものを、貴女にも見せたいって思ったんだけど……気分転換にどうかしら?」
「ですが……」
ばつが悪そうにマリエッタは視線を泳がせ、アレクのほうをちらりと見た。
「いいわよね? アレク」
まさか嫌なんて言わないわよね?
貴方の連れてきた高貴な護衛騎士、私は追い返さなかったわよね?
親身に相談、乗ったわよね? と視線で訴える。
「も、もちろんだよ」
顔をめちゃくちゃ引きつらせて、アレクはそう言って頷いた。
不安を抱えながら迎えた翌日。
私はアレクとマリエッタと一緒に、フレグランス専門店フェリーチェを訪れた。
マリエッタを一緒に誘ったのは、アレクに対する誤解を解くためだったんだけど――。
「見てください、お姉様! まるでタイムスリップしたみたいです!」
道中の馬車で私にべったりのマリエッタは、アレクがまるで存在しないかのように、私にばかり話しかけてくる。
「シエルローゼンの古都の街並みは美しいわね。アレクもそう思わない?」
「そうだね。ここは歴史的建造物が数多く残ってて、レトロな街並みは観光でとても人気なんだよ。あそこに見えるエレメ塔とか、風情があっていいよね」
「それよりも向こうにあるパルス城のほうが、可愛くて素敵ですよね」
私が気を遣ってアレクに話題を振れば、なぜか二人の意見は合わず凍りつくような空気が漂う。
「ヴィオはエレメ塔のほうが好きだよね?」
「いいえ、お姉様はパルス城のほうを好んでおられますよね?」
笑顔の圧がすごい……だからどうして張り合うのよ!
人の感覚なんて千差万別なんだから、片方を落として片方を上げるの、正直好きじゃない。
「それぞれ違った良さがあっていいと思うわ」
どちらかを褒めれば角が立つ。とはいえ両方を褒めても、二人はなんか納得してなさそうな顔をする。
「知ってるかしら? エレメ塔とパルス城には古い言い伝えがあってね……」
それならこうするのが一番よね……会話の主導権は、私がもらうわ!
お店に着くまで建物に縁のある植物の雑学をしたら、二人とも急に大人しくなった。アレクは自分の興味ある分野しか勉強したがらないし、マリエッタはそもそも勉強自体が苦手だ。
そっちから話題を振ってきたのに、その反応はどういうこと?
「ヴィオ、ほらお店に着いたよ! いや~もっと聞きたかったけど残念だな」
「ほ、本当ですわ! お姉様のお話、とても楽しかったのに残念です」
「そう? じゃあ帰りの馬車で、続きを話してあげるわね」
私の言葉を聞いて、アレクとマリエッタは、引きつった笑みを浮かべている。
「冗談よ」と私が笑うと、二人はほっと安堵のため息をもらした。
感情がすぐ顔に出てわかりやすいところは、意外とそっくりじゃない。
そうして到着したフレグランス専門店フェリーチェ――シエルローゼンの一等地にあるだけあって、街道も観光客でそれなりに賑わっている。
お洒落な外観の店舗に入ると、ジェフリーとアレクの経営するノーブル大商会からお手伝いに来てくれている方々が迎えてくれた。
「アレクシス様、ヴィオラ様! それと……」
マリエッタを見て戸惑っているジェフリーに、「妹のマリエッタよ」と紹介する。
「ようこそお越しくださいました、マリエッタ様」
すぐに笑顔を作ったジェフリーは、流れるような所作で胸に手を当て腰を折り曲げた。
前に会った時より身長が伸びたのも相まって、とても頼もしく見えるわ。
「ジェフリー、接客の所作が板についてきたようだね」
「ありがとうございます! アレクシス様がリアム先生を紹介してくださったおかげです」
高価な魔道具も扱うノーブル大商会の販売員たちは、貴族の接客にも慣れている。
その中でもジェフリーは、アレクが『僕の右腕』って豪語するリアムさんから直接指導を受けていた。接客の仕方はもちろん、店舗経営に必要な経理の基礎知識も教わってたみたいだから、かなり技能的に上達してそうね。
改めて店内を見回すと、内装はほぼ完成しており、あとは細かい飾り付けをどうするかを考えればよさそうだ。
「ここがお姉様のお店……可愛い瓶がたくさん並んでます!」
吸い込まれるように店の奥へと足を踏み入れたマリエッタは、正面に並んだショーケースの香水たちを見て目を輝かせる。しかしはっとした様子でこちらを振り返り、心配そうに眉根を寄せて尋ねてくる。
「……これも全て、お姉様が一人でお作りになったのですか?」
「違うわ。香水の調合レシピを考えたのは私だけど、実際に作ってくれたのは二階で作業をしているエルマと、ここにいるジェフリーよ。それにこうしてお店を改装して、必要な材料や道具を揃えてくれたのはアレクよ」
「じゃあ、どうしていつもあのように遅くまで作業を……?」
「それは私が好きだからやってたの。マリエッタも自分の好きな洋服のデザインが完成するまで、何枚も書き直しては作業に没頭してたでしょ? それと一緒よ」
「私はてっきりお姉様が、殿下に騙されているのだとばかり……殿下の大商会は、悪徳なことをやっていると昔、噂で……」
それは逆に悪徳商売をやっていた新興貴族たちが、適正な商売をするアレクの大商会に邪魔をされた腹いせに、デマを流したせいなのよね。
関わりのある者はそれが嘘だってすぐにわかるだろうけど、直接関わりのない者からすると、騙されてしまっても仕方ないのかもしれない。特に貴族の間では、一時期すごく悪評が流れていたのは事実だし。
マリエッタがアレクのことをよく思ってないのは、そのせいだったのね。
「ほら、あちらを見て」
楽しそうにアレクと話すジェフリーのほうに視線を移して、私は言葉を続ける。
「彼は元々アムール地方の孤児院にいた子なんだけど、とてもそうは見えないでしょ?」
「え、あのスラム出身なんですか……!?」
「アレクはね、困っている人たちに寄り添って、どうすればいい生活ができるようになるか必死に考えて、それを実行してきたの。その過程で築き上げた人脈が、彼の商会を大きくして、スラム区画をビジネスパートナーに変えてしまうくらい発展させた。悪どい商売をしてて、それができるとは私には到底思えないわ」
「そう……だったのですね……」
「すぐに信じろっていうのは難しいかもしれないけど……よかったらアレクのこと、色眼鏡をかけずに見てくれると嬉しいわ」
「……お姉様は殿下のことを、とても信頼されているのですね」
「まぁ、子どもの頃からの友人でもあるから」
「そうだったのですか……!? でも私、お姉様が殿下と交流されている姿、一度も……」
「ばれたら色々面倒なことになるじゃない? だから社交界では秘密にしてたのよ。告白された時は、正直驚いたけどね。私の夢を叶えるために、色々準備してくれてたみたいで……このお店も、その一つなのよ」
「じゃあ、殿下の仰っていたことは本当だったんですね……」
マリエッタは悔しそうに唇を噛むと、なぜか俯いてしまった。心配になって、私は屈んでマリエッタの顔を覗き込む。するとマリエッタは一呼吸置いて、絞り出すように言葉を発した。
「でも私だって、お姉様のこと大好きです! 殿下よりも、ずっと前から……!」
昔はよく聞いた言葉が、とても懐かしく感じた。
記憶を無くして不安になっているのかしら?
最近のマリエッタは少し、子どもの頃に戻ったような無邪気さがあるわね。
こちらを不安そうに見上げるマリエッタの頭を、なだめるようによしよしと撫でる。
「ありがとう、私も大好きよ。だってマリエッタは、私の大切な妹なんだから」
私が本当につらかった時、マリエッタは私に寄り添ってくれた。
『だっておねえさまは、おかあさまをよろこばせてあげようとしただけ。それなのに、おにいさまはひどいです!』
私の心を汲んでお兄様に憤りを見せる幼い妹の姿に、当時どれだけ救われたかわからない。この子がいてくれたから、あの時私は自分を保つことができた。
でも本来ならお母様とお兄様の愛情も受けて、幸せになれる未来がマリエッタにはあったのかもしれない。私がその幸せを奪ってしまったことが、ずっと心残りだった。
「ヴィオ、また君は無自覚に人を魅了して……」
いつの間にかこちらに来ていたアレクが、急に変なことを言い出した。
「は? 何を言ってるの?」
「ほら、見てごらんよ!」
アレクの視線の先には、顔を真っ赤に染めて口をパクパクさせるマリエッタの姿がある。
「どうしたの、マリエッタ……まさか、熱でも出てきたの!?」
頭を撫でていた手をマリエッタのおでこに移動させると、すごく熱かった。
「大変だわ、アレク! 休める場所はないかしら……!?」
「だ、大丈夫です! お姉様の言葉が……嬉しかった、だけですから」
「それならよかった。でももしつらくなったら、すぐに言うのよ?」
「はい、ありがとうございます」
「そうだマリエッタ、二階で香水を作ってもらってるんだけど、よかったら見学していかない?」
「はい、おともします!」
「ヴィオ、今日はやめといたほうが……」
二階に移動しようとしたら、アレクにそうこっそりと耳打ちされた。
「え、どうして?」
「君がエルマと仲良くしてるところを見たら、マリエッタ嬢がまたヤキモチを……」
「……きっと大丈夫よ。エルマは誰とでも仲良くなれるタイプだから」
アレクはどこか納得してなさそうな顔をしている。
その時、後方でこちらをチラチラと窺っている商会の男性従業員と目が合った。
書類を手にしたその男性は、申し訳なさそうに会釈をしている。
「ほら、商会の方が用があるみたいよ。こっちは大丈夫だから、いってらっしゃい」
カウンターの奥にある階段を上り、私はマリエッタと共に二階へ向かう。ノックをして扉を開けるとエルマが笑顔で迎えてくれた。
「久しぶりね、エルマ。妹のマリエッタと一緒に、少し見学してもいいかしら?」
「ヴィオラ様、もちろんです! マリエッタ様もどうぞこちらへ!」
休憩用に使うテーブル席へ案内してくれたエルマは、座りやすいように椅子を引いてくれた。
「ありがとう。でも、そんなに気を遣わなくていいのよ」
「私はジェフリーみたいに言葉でうまく説明するのは苦手なので、その分お店に来てくださった方に、気持ちよく過ごしていただけるようにしたくて……その練習なんです!」
人懐っこい笑みを浮かべて、エルマはさらに言葉を続けた。
「それにこんなに可愛いお客様が来てくださるなんて、嬉しいです!」
エルマからキラキラとした眼差しを向けられたマリエッタは、少し戸惑っているようだ。
「新しい商品のラインナップに一つ追加したいものがあって、これがその調合レシピよ」
誓約封筒を渡すと、エルマは嬉しそうにそれを受け取った。
「わー! ヴィオラ様の新作! どんな香りがするか楽しみです! あとでジェフリーと一緒に確認しますね」
「材料については手配してもらっているから、届いたらお願いね」
「お任せください!」
「よかったら香水を作ってるところを見学したいんだけど、お願いできるかしら?」
「はい、もちろんです!」
誓約封筒を鍵付きの引き出しにしまったあと、てきぱきと必要な精油と道具を準備して作業台に集めたエルマは、早速香水作りに取り掛かる。
私はマリエッタと一緒に、その様子を見学させてもらった。
「あれは何を入れているのですか?」
無色透明の液体が入ったビーカーに、別の液体を数滴垂らすエルマを見て、マリエッタが不思議そうに尋ねてくる。
「無水エタノールに香りのもとになる精油を入れてるのよ。精油単体だとすぐに蒸発してしまうから、油分に溶かして蒸発する時間を遅くするの。そうすれば、香りが長続きするようになるのよ」
なるべく難しい言葉を使わないように、私はエルマの作業の説明をしてあげた。
少量の精製水で薄めたあと、エルマはそれを香水瓶に移して蓋をする。
「完成です!」
あっという間に完成した香水を見て、マリエッタは驚きを隠せないようだ。
「え、もうできたんですか!?」
「あれは商品で、あらかじめ決められた調合レシピ通りに作ってるからすぐできるのよ」
「ああ、なるほど! お姉様が作ったレシピ通りに作っているというわけですね」
まぁ本来はこのあと、香りを馴染ませるために遮光性のある容器に入れて、一定期間熟成させるんだけどね。
「でもね、マリエッタ。調香の一番楽しいところは、香りを作っている時なの。よかったらやってみない?」
「……私がですか!?」
驚くマリエッタの手を引いて、私は目的の場所へ移動する。
「エルマ、少し実験室を借りてもいいかしら?」
「はい、もちろんです!」
フェリーチェの二階には商品を作る作業場とは別に、香りの調合の研究ができる部屋が作られている。元々は休憩時間や休みの日なんかに、エルマとジェフリーが調香の勉強ができるようにと作られた、通称『実験室』だ。
「難しく考える必要はないわ。自分の好きな香りを組み合わせるだけでいいの。そうすれば世界に一つしかない、マリエッタだけの香水が完成するわ」
「世界に一つ、私だけの香水……! お姉様、やってみたいです!」
特別感のあるものに、マリエッタは弱い。案の定、私の言葉はマリエッタに響いたようだ。
「じゃあまずは、主軸となる香りを決めましょう。これはマリエッタが一番好きな香りがいいと思うわ」
棚にある精油の説明をしながら実際に香りを確認しつつ、選んでもらった。
「……! この香り、なんだかとても懐かしいです」
マリエッタが手にしているのは、春の花ミモザの精油だった。心を落ち着かせて安心感を与えてくれる、爽やかで優しい甘い香りが特徴だ。
そういえば、ミモザは王立アカデミーにも植えられていた。運動部の部室棟、特に騎士部の部室の近くに大きなミモザの木があったわね。春になると可愛い黄色い花を咲かせて綺麗だった。
マリエッタは騎士部によくお手伝いに行ってたみたいだし、リシャールとの記憶は思い出せなくても、楽しい経験をした香りの印象は残っているのかもしれないわね。
それからマリエッタと一緒に、ミモザに合う香りの組み合わせを色々試した。
試香紙に精油をたらして香りを確認して、あれでもない、これでもないと、悩みに悩み抜くこと約一時間、ようやく世界に一つだけのマリエッタの香水が完成した。
「お姉様、いかがですか?」
「爽やかで優しくて、とてもいい香りだわ」
できあがった香水を嗅いで、私は確信した。やはりマリエッタは、無意識のうちにリシャールを彷彿とさせる香水を作っていたんじゃないかって。
マリエッタが自分用に作る香水としては、あまりにも爽やかすぎるわ!
昔はもっと甘くてフルーティーな香りが好きだったわよね?
この安心感を与えてくれて爽やかな中で、ほのかな甘みを感じる香りって、まるでリシャールに包まれたマリエッタの香りみたいなイメージだわ。
色々聞きたいことはあったけど、無理に聞き出しては負担になってしまう。私はあえて質問を一つに絞った。
「ねぇ、マリエッタ。この香水、自分で付ける……のよね?」
「はい、そのつもりです!」
嗅覚は思い出と密接に結びついている。
この香りに包まれて、いつかリシャールのこと、思い出せるといいわね。
「お姉様! 大変だったけど、調香って楽しいですね!」
「……そうでしょ! 自分だけの香りをアレンジできるの、夢が広がるでしょ! 毎日やったって飽きないわ!」
「さ、さすがに毎日はちょっと……た、たまになら!」
「ふふ、やりたくなったらいつでも私の温室にいらっしゃい。歓迎するわ」
「はい、ありがとうございます!」
そんなことを話しながら片付けを済ませて一階に降りると、アレクとジェフリーが隅のテーブル席で頭を悩ませていた。
「どれも悪くはないんだけど、インパクトに欠けるんだよな」
「よくありそうなデザインですものね……」
「どうしたの?」と私が声をかけたら、アレクがテーブルの上に散らばるデザイン画を見せながら、説明をしてくれた。
「実はフェリーチェをより印象付けるために、お店のロゴを作りたいと思ってるんだ。仕上がってきたデザインを確認してたんだけど、これだ! って思えるデザインがなくてさ……」
テーブルに視線を移すと、様々なロゴが目に入る。デザインとしては、主に薬品瓶や薬草とかをイメージしてるものが多いようだ。
「あー……確かに、どこかで見たことあるようなデザインばかりね……主に薬屋とかで」
「でしょ? これじゃあただの薬屋だよ! 色んなデザイナーに頼んではみたんだけど、この有り様ってわけさ」
アレクはそう言って、大きなため息をついた。
フレグランス専門店といっても馴染みがないから、イメージ伝わりにくいわよね。
さっきの商会の方は、このデザイン画をアレクに持ってこられてたのね。
「お店の魅力が全然伝わらないですね。お姉様のお店ですもの。こんな平凡なものではなく、もっと華やかさと高貴さ、それに洗練された美しさがほしいです」
デザイン画をじっと見ていたマリエッタが、容赦なく苦言を呈した。
「たとえばマリエッタなら、どんなデザインがいいと思う? ちなみにこのお店のコンセプトは、お客様へ『幸せ』を提供する場所になったらいいなって想いから、フェリーチェって名前にしているの」
「幸せ……それでしたら、幸運を運ぶ白い鳥や天使などをモチーフにするのはどうでしょう? そこに幸せを象徴するお花などを添えてもいいかもですね」
「ジェフリー、紙と書くものはあるかしら?」
「はい、すぐにお持ちします!」
ジェフリーはカウンターの裏から紙と筆記具を取ってきてくれた。受け取ったそれらを隣のテーブル席に置いて、私はマリエッタを手招きして椅子に座らせる。
「マリエッタ、よかったら描いてみてくれない? ここにあるものより、私は貴女のほうが良いデザインを作れると思うの」
「え……私が、ですか?」
「ヴィオ、いくらなんでも素人にデザインはさすがに……」
戸惑うマリエッタを見て、アレクが止めに入ってくる。
「私は無理だと思うことを、お願いしないわ。マリエッタには、才能があるの」
「お姉様……わかりました、やってみます!」
私のお願いにマリエッタは力強く頷くと、羽根ペンを走らせてサラサラと白い紙に先ほどイメージしたものを描いていく。
半信半疑といった様子で見守っていたアレクとジェフリーは、完成品を見て目を丸くする。
「すごいな。これは驚いた……」
「とてもお洒落ですね!」
思った通りだわ! やはりマリエッタには、素晴らしい絵の才能がある。
「いかがですか? お姉様……」
「とっても素敵なデザインだわ! この白い鳥も天使も、どちらも幸せの象徴って感じでお店にぴったりよ」
「さわりは問題なかったようですね。ではここからさらに、洗練させてみます!」
「……え? これで完成じゃなかったの?」
「いえ、ここからがスタートですよ」
私たちが完成品だと思っていたデザインは、どうやらマリエッタにとってはまだ未完成品だったらしい。
デザイナーに頼むより、マリエッタに描いてもらうほうが断然いいものができる。
みんなもそう思ってくれたようで、満場一致でロゴのデザインはマリエッタにお願いすることが決定した。
嬉しい誤算としては、それからロゴデザインのことで一緒にフェリーチェに顔を出すうちに、出入りする商会の人たちとのやり取りを見て、みんなに慕われるアレクが悪い噂とは違うってマリエッタが気付いてくれたこと。
そのおかげで以前のように、二人があからさまに敵対することもなくなった。
すごいと思ったものは素直に認めて褒める。そうして人の才能を伸ばしてあげるのがアレクは得意だから、人脈を広げるのがうまい。
『その才能、磨けばもっと光るはずさ! よかったらデザインの勉強をしてみないかい?』
そう言ってアレクは、参考になりそうな本をマリエッタに持ってきてくれた。
勉強が苦手なマリエッタだけど、好きなことに関しては別みたいで、楽しそうに本で得た知識を実行に移していた。以前は恥ずかしがっていたけれど、今では描いた絵を堂々と見せてくれるようになった。
マリエッタはこれまで、自己満足で色々と絵を描いていた。だからそうして自分の描いたものが他の人に受け入れられるとは、思っていなかったらしい。
目標ができて自信もついたおかげか、マリエッタは明るくなって、以前の元気を取り戻してくれたように感じる。
そうしてマリエッタがこだわり抜いて作ってくれたロゴのデザインは、香水に祝福を与える天使をイメージしたとてもお洒落なもの。お店に込めた想いと、フレグランス専門店を印象付ける見事なロゴに、みんなも大絶賛していた。
看板や名刺、買い物袋にもロゴが刻まれ、フレグランス専門店フェリーチェを美しく彩ってくれている。
❖ ❖ ❖
開店まで残り二週間を切った頃。
温室では今日も、ウンディーネ様がリーフに精霊魔法の扱い方を教えてくれている。
「さぁ、リーフ様。集中して、魔力をゆっくりと地面に流してみてください。そして花が一番美しく咲く瞬間で、止めてみてください」
収穫を終えた花壇の前で佇むリーフに、ウンディーネ様が優しくアドバイスを送る。
魔力を身体全体に巡らせているのかしら?
リーフの身体が神々しく輝き出し、光の粒子がゆっくりと前の花壇に注がれていく。
「魔力量を調節すれば、植物の成長を自在にコントロールすることができます。これは自然を司る大精霊様にしかできない特別な魔法なのですよ」
あの花壇、まだ何も植えてないけど植物が生えてくるの?
気になって様子を見ていたら、花壇からぴょこっと双葉が顔を出した。それがゆっくりと成長していく。
「ユグドラシル様はこの魔法で荒れた大地を蘇らせ、生き物が住める場所を作られました。かつて闇に手を染めた天理の大精霊アザゼルの壊した大陸を、見事に復活させたのです」
約二千年前、アザゼルに壊され混沌と化した大陸を守ったのは、当時ユグドラシル様と契約されていた英雄、カイザー様だったわね。荒れた大地を一つにまとめ上げ、後に初代王となられた御方。
国の成り立ちは歴史の試験に絶対出てきたから、よく覚えているわ。
そして闇に手を染めて破壊の限りを尽くした天理の大精霊アザゼルの子孫が、今は【魔族】と呼ばれている。精霊たちに仇をなし、世界を壊そうとする危険な存在だ。
まさか当時のことを上級精霊様から直々に聞けるなんて、思いもしなかったわ。
想像を絶するような長い時の記憶を、上級精霊様たちは引き継いでいる。
そしてリーフはこれから、そんな大変な記憶を全て引き継いでいかなければならない。
こうして毎日拝見できて、身近すぎて忘れそうになるけど、本来なら滅多にお目にかかれない方々なのよね。
「できたよ! どうかな?」
「完璧です、リーフ様! あとは【愛】の記憶を引き継げば、無理することなくもっと広範囲に干渉できるようになることでしょう」
「でもあの時、ヴィオが力を貸してくれたから、僕はこの魔法を発動することができたよ?」
「これまでヴィオラ殿と培われた絆の力が、きっと一時的にリーフ様に力をお与えになったのでしょう。ですが何度もそうして力を使えば、契約者であるヴィオラ殿の身体に負荷がかかってしまいます。精霊魔法は本来、とても強大な力です。契約者のためにも、我々がしっかりコントロールをすることが大事なのですよ」
確かにあの日はとても疲れたわね。なんとか事件が無事に解決して緊張の糸が解けたから、一気にこれまでの疲れを感じたのかと思ってたけど、魔法の影響も少なからずあったのね。
「そうだったんだ……」と呟いたリーフは、しゅんと耳を下げて俯いてしまった。
「大丈夫よ、リーフ。休んだら元気になったでしょ?」
「……僕、【愛】の記憶を継承するよ。ヴィオに負荷はかけたくない。もっと魔力をコントロールできるように、頑張る!」
顔を上げたリーフの瞳には、駆り立てられるような焦燥感が籠っているように見えた。
「リーフ、無理しなくていいのよ?」
「だって、みんな前に向かって進んでる。ヴィオは苦手なお兄様と仲直りしようと頑張ってお店の準備整えてるし、絵を描いてるマリエッタも楽しそうで生き生きしてる。僕もみんなと一緒に、前に進みたい」
この二か月、マリエッタのおかげで開店準備も順調に進み、皆が笑顔で過ごせる時間も増えた。
そんな姿をリーフもそばで見ていたから、きっと心境に変化が生まれたのね。
「わかった。応援するわ、リーフ。今の貴方ならきっと、乗り越えられるはずよ」
「うん! ありがとう、ヴィオ」
白狐の変化を解いて本来の姿に戻ったリーフは、ウンディーネ様のほうに向き直った。
「【愛】の記憶、僕にくれるかい?」
「かしこまりました。それでは、【愛】の記憶を継承いたします」
ウンディーネ様は両手を前にかざすと、大きな水の球体を召喚した。
中には赤いハートの形をしたものがあり、神秘的な水のベールに包まれている。
リーフが球体に触れると水のベールが割れて、赤いハートがすっと彼の手に吸い込まれた。
「これが……【愛】の記憶……っ」
リーフの瞳からあふれた涙が頬を伝い、ポタポタと地面に落ちる。まるで放心状態のように、ただ涙を流し続けるリーフが心配になって思わず声をかける。
「だ、大丈夫……?」
私がハンカチを差し出すと、リーフはやっとこちらを見てくれた。
「ヴィオ……っ!」
すがりつくように抱き締められ、リーフは私の肩に顔を埋めて泣き続けている。
小刻みに震えるその身体は、まるで恐怖に怯える子どものようだった。
いくらなだめてもリーフの涙はやむことはなくて、私はウンディーネ様に助けを求めた。
「あの、ウンディーネ様。どうすれば……」
「今はただ、受け止めてあげてください。【愛】の記憶には、生物たちの様々な愛の形が記録されております。正と悪、美しいものから目を覆いたくなるような醜いものまで……」
えーっとつまり、子どもに見せるものじゃない愛まで含まれてるってことかしら?
愛憎って言葉みたいに、世の中綺麗事だけじゃすまない愛の形ってあるものね……。
「大精霊様は、常に正しい心を持ち続けねばなりません。悪の感情に傾きすぎた時、かつてこの大陸を管理していた天理の大精霊アザゼルのように、闇に飲み込まれてしまう危険があるのです。ヴィオラ殿、リーフ様の情緒が安定するまで、どうかそばで支えてあげてほしいのです」
「わかりました、お任せください」
「……っ! すみません、リシャールが呼んでいるみたいでそろそろ……」
嫌な気配を感じ取ったのか、はっとした様子でウンディーネ様がそう仰られた。
「こちらは大丈夫なので、すぐに戻ってあげてください」
ログワーツを復興してもらわないと困るし、ウンディーネ様をいつまでもここに縛り付けておくわけにもいかないわ。
「はい、それでは失礼します」
申し訳なさそうに、ウンディーネ様は転移されて戻っていかれた。
「リーフ、魔法の訓練で疲れたでしょ? とりあえず座って休みましょう」
嫌だって主張するかのように、リーフの腕に力がこもる。
そういえばリーフは怖いことがあると、こうして私から離れなかったわね。
昔は白狐の姿だったから抱っこしてよくあやしてあげてたけど――人型のリーフは私より身長が少し低いとはいえ、抱えていくのはさすがに難しい。
「……抱っこして連れて行ってあげるわ。よかったら、白狐の姿になってくれないかしら?」
だめもとでそうお願いすると、顔を上げたリーフはこくりと頷き、白狐の姿に変化してくれた。
私の腕の中で丸くなって震えるリーフを抱えて、ゆっくりと歩く。休憩用の椅子に座り、落ち着くまで優しく頭を撫でてあげた。
震えが止まったのを確認して、リーフがいつも使っているラタンを編み込んだバスケットに、そっと寝かせてあげようと試みる。しかし彼は私の手にしがみついて、嫌だと主張するように頭を左右に振った。
「そばにいて、ヴィオ。僕をおいていかないで……!」
「大丈夫よ、どこにもいかないから安心して」
再びリーフの身体を抱えて椅子に座った私は、頭を撫でてあげながら声をかける。
「ねぇ、リーフ。覚えてる? 私と貴方が初めて会った時のこと」
返事をする代わりに、リーフはこくりと頷いてみせた。
きっと独りでいると不安なのね。
それからゆっくりと、私は思い出を懐かしみながら昔のことをリーフに話しかけた。
❖ ❖ ❖
五歳の時、お母様が亡くなってからお兄様と顔を合わせる度に、私は罵声を浴びるようになった。お父様がお兄様の態度を諌めると、お兄様は私のことをキッと睨み付け、鼻を鳴らしてそっぽを向く。
半年も経つと視界に入れるのも嫌だったようで、無視されるようになった。
これ以上お兄様の機嫌を損ねないように、花壇に近付かないほうがいいのかもしれない。踏みにじられた花たちを見ながら諦めかけた時、庭園の奥がほのかに輝いていた。
その輝きに導かれるように近付くと、一匹の小さな白狐が倒れていた。全身ボロボロでひどく弱った様子の白狐は、苦しそうに荒い息を繰り返してうずくまっていた。
「大丈夫!? こちらにおいで、治療してあげるわ」
慌てて駆け寄り手を伸ばすと、白狐はひどく警戒した様子でこちらを見上げ震えている。
「少しチクッとするけど、注射をしてもらえばきっと元気が出るわ」
優しく声をかけたものの、白狐はふるふると首を左右に振って再びうずくまった。
「お嬢様、いかがなさいました?」
「ミリア、ここに傷付いた白狐がいるの」
「何もいないようですが……?」
「ほら、ここで苦しそうにうずくまっているのに」
ミリアは目を凝らして地面を見るけど、やはり見えないようだ。たまたまやってきた庭師のジャックに声をかけても、彼もあたりをキョロキョロするだけで姿を確認できないようだった。
「ヴィオラお嬢様だけに見える……もしかしたら、お嬢様と波長の合う精霊かもしれませんね」
「精霊? この子が? 苦しそうなの、どうしたらいい?」
「そうですね……精霊は属性ごとに好みが違うそうですし、何か目印となる紋様はございませんか?」
「額にはっぱのマークがあるわ」
「それでしたらきっと植物の精霊なのでしょう。緑豊かな場所でゆっくり静養させてあげるのがいいと思います」
「森とかに連れて行ってあげたらいいの?」
「無理に移動させるのも負担になるかもしれません。この庭園でゆっくりお休みできる寝床などを作ってあげるのはいかがでしょう?」
「わかったわ! 少しだけここで待っててね!」
白狐に声をかけたあと、私は屋敷に戻りお気に入りのクッションを持って再び庭園に向かった。
「お嬢様、よければこちらもお使いください」
「うん、ありがとう!」
ミリアの用意してくれたバスケットにクッションを敷いて、白狐の隣にそっと置いて声をかけた。
「こっちのほうがゆっくり休めるよ。よかったら使ってね」
バスケットと私を交互に見て、視線をバスケットに戻した白狐はそっと鼻先を近付ける。くんくんと安全かどうか確認したあと、恐る恐るバスケットの中にあるクッションに前足で触れた。
何度か前足でふにふにと押して上に飛び乗った白狐は、バスケットの中で腰を下ろし丸くなっている。安心したのか、やがて白狐は健やかな寝息を立て始めた。
「ミリア、使ってくれた!」
「よかったですね、お嬢様!」
それから私は白狐がゆっくりと休めるように、庭園の環境を整えてあげることにした。
お父様に相談すると、植物の精霊はみずみずしい自然のものに囲まれているのが一番の静養になると、アドバイスをくれた。
それを踏まえて、お兄様に踏みにじられた花壇には新たな花を植え直して、大切に育てた。
雨や暑い日差しを凌げるよう、ジャックに手伝ってもらって、パラソルも立てた。
そうして毎日足繁く庭園に通っていると、白狐は元気を取り戻し、次第に私のあとをついてくるようになった。
ミリアやジャックが一緒の時は離れた場所からこちらを窺っているけれど、一人の時はそばに来て、私が花壇で作業する様子をちょこんと座って眺めている。
「こちらにおいで」
そう声をかけて手を差し出すと、白狐はすりすりと頭を擦り付けてくるようになった。
「あなた、お名前はなんていうの?」と、頭を撫でながら尋ねてみる。
精霊には本来、生まれた時に核となった宿り木の記憶がある。だからお話ができると本で読んだけど、白狐は私の言葉に首をかしげるだけで何も答えてはくれない。
「私の名前はヴィオラよ、ヴィオラ。あなたのお名前は?」
胸に手を当てジェスチャーを交えて聞いてみたものの、白狐は困ったようにしゅんと耳を下げてしまった。
傷だらけで庭園に迷い込んだことを考えると、外でひどいめに遭って忘れてしまったのかもしれない。不安そうにこちらを見ている白狐の額にある葉っぱのマークを見て、私はひらめく。
「それなら、リーフってどう? 正しい名前を思い出せるまであなたのこと、リーフって呼んでもいい?」
私の言葉に白狐は目を輝かせて頷くと、尻尾を高く上げてぶんぶんと左右に振っている。どうやら喜んでくれているらしい。言葉は話せないけど、なんとなく意味はわかるのかしら?
それから私は絵本を持ってきて、庭園にあるガゼボで読んであげるようになった。
リーフは結構感情豊かなようで、悲しい物語を読むと耳をしゅんと下げてポロポロと涙を流し、楽しい物語を読むと尻尾をふりふりして瞳を輝かせ、怖い物語は震えながらピタっと寄り添い聞いている。
表情や全身で感情を示してくれるため、別に言葉が話せなくても不便はなかった。
そうして半年が経った頃、いつものように絵本を読んであげたあと、今まで一言も発したことのなかったリーフが初めて声を発した。
「あり……が、とう」
「え……リーフ、言葉が!」
「ヴィオ、おしえて……くれた、から。ほん、たくさん、よんでくれた」
「すごいわ! これでたくさんお喋りできるわね!」
「うん! このほんみたいに、ぼくときみ、ずっとともだち……『メイユールアミィ』なりたい」
ぽんぽんと前足で本に触れながら、リーフが覚えたての言葉で必死に訴えてくる。
私がリーフに読んであげたのは、英雄譚の絵本。英雄と呼ばれた少年と相棒の精霊が世界を救うため悪に立ち向かう物語だった。
少年と精霊は苦楽を共にして厚い友情で結ばれており、作中でよく出てきた彼等の合言葉が、古代語で『俺たちはずっと友だち』という意味を持つ『メイユールアミィ』だった。
「ええ、もちろんよ。私たちはずっと友だち、『メイユールアミィ』よ」
その瞬間、私とリーフの下に魔法陣が浮かび、身体全体が温かな光の粒子に包みこまれた。
「え、な、何がおこったの!? 身体から力があふれてくる……」
「これはぼくたちの、やくそくのあかし、だよ」
「リーフ、私と契約してくれたの……!?」
「うん。ぼくとヴィオ、ずっとともだち、メイユールアミィ!」
植物の精霊であるリーフと契約したことで、私は六歳にして魔法が使えるようになった。けれどそれが、さらにお兄様との溝を広げることになってしまった。
ほとんど部屋から出てこなくなられたお兄様は食事も自室で取るようになり、家族で過ごす時間をまったく持たれなくなった。
夜遅くまでお兄様の部屋には灯りがついていて、書庫からごっそりと本がなくなるようになった。どうやら部屋に閉じ籠って、勉学に励んでおられるようだった。
それから一年後、お兄様は王都の屋敷からヒルシュタイン公爵領へ旅立たれた。
「これで、かだんをあらされなくてすむね!」とリーフは喜んでいたけれど、私の心には隙間風が吹いたように、虚しさだけが残っていた。
「ヴィオ……? ごめん、ぼく……なにかわるいこと……した?」
突然リーフを抱き締めて動かなくなった私に、不安そうに彼は尋ねてくる。
「ううん、リーフは何も悪くない」
彼は私の心を汲んでくれただけ。それでもお兄様をそんな悪者のように感じさせてしまったことが、悔しくて仕方なかった。そして何も知らないリーフに、私の犯した罪を話すのが怖かった。
❖ ❖ ❖
「私ね、あの時リーフに言えなかったことがあるの。聞いてくれる?」
一呼吸して、そう尋ねた私の声は、緊張から少し震えていた。
上体を起こしてこちらをじっと見上げるリーフの瞳からは、いつの間にか涙が消えている。
「もちろん」
頷いてくれたリーフを抱えて、私はデイジーの植えてあった花壇の前に移動した。
枯れてしまったデイジーの花茎を摘み取って整えた花壇には、もう何も残っていない。
「昔ね……花壇を荒らすお兄様が、リーフには悪者みたいに見えたと思うんだけど、あれは私がお兄様を傷付けてしまったのが原因なの」
「ヴィオが、お兄様を……?」
「レイモンドお兄様は昔、とても優しい方だったわ。でも私がお兄様から、お母様を奪ってしまった。私が届けたお花が原因で、弱っていたお母様は帰らぬ人になったの。だからお兄様が花壇を踏み荒らしていたのは、もう会えなくなってしまったお母様を想ってのことだったのよ」
「あのひどい行動は、一つの【愛】の形……だったってこと?」
「ええ、そうよ。誰の立場で考えるかによって【愛】は、悪にも正義にも見えると思うの。リーフは私の味方をしてくれたから、お兄様のことが悪く見えてしまっただけ。貴方に嫌われるのが怖くて、本当のことを正直に言えなかった……私が一番悪いのよ」
あの時、お父様もマリエッタも私の味方をしてくれた。
でもそのせいで、誰もお兄様の悲しみを受け止めることができなかった。
私がお兄様を、悪者にしてしまったんだ……。
「つらいことを教えてくれてありがとう、ヴィオ。嫌いになんてならないよ。だってあの時君は、お兄様の抱える行き場のない悲しい【愛】を、必死に受け止めようとしていた。そして今も変わらず、受け止めようと努力してる。とてもすごいよ!」
「す、すごくなんてないわ。私は壊してしまった家族の幸せを、少しでも……」
「継承した記憶の中には、つらくて苦しくて悲しい【愛】もたくさんあった。それがたくさんの悲劇を起こして、人々は絶望に飲み込まれていった。でもそんな人々を救ったのも、また別の【愛】なんだ。だから僕は信じてる。
ヴィオならきっと、お兄様を救い出せるって」
慰めてたのは私のほうだったのに、いつの間にか立場が逆転しちゃったわね。
希望に満ちたリーフの翡翠色の瞳を見ていると、自然と勇気がわいてくる。
「リーフ……ありがとう」
笑顔でお礼を言うと、リーフの身体が突然ふわっと浮かび上がり、光り出す。
まばゆい光の粒子が消えたあと、白狐の変化が解けたリーフは人型の姿になっていた。
「どうやらヴィオのおかげで、【愛】の記憶の継承が無事に終わったみたいだ」
肩上で切り揃えられていたリーフの白髪は胸部まで伸び、身長も以前より伸びている。そして顔つきも少し大人っぽく成長していた。
「無事に終わってよかったわ! おめでとう、リーフ」
「うん、ありがとう! 見てて、ヴィオ。これが新たに手に入れた、調和の力だよ!」
リーフの放った温かい魔力の波動に連動するかのように、温室の花が一斉に開花した。
摘み終わったはずの何も植えていない花壇にまで、白いデイジーが美しく花を咲かせている。
驚いたことにその魔力は外にまで届いており、寒い冬の庭園に、季節外れの花々が咲き乱れるという、超常現象を巻き起こした。
「魔力が屋敷の外にもれないように、きちんと制御もできるよ!」
制御してこの効果ってことは、本来の力を使えばものすごいことになりそうね。
さすがは大精霊様の御子息。その日私は、リーフの規格外さを改めて知ったのだった。